大坂城の石垣のふるさと 大名の石丁場 小豆島の城と石文化(2)

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は香川県の小豆島にある、城の石垣用の石材を切り出した石丁場(いしちょうば=採石場)を訪ねます。江戸時代、2代将軍徳川秀忠の命で大坂城の天下普請があり、諸大名が競うように小豆島から石材を調達したのです。
【動画】小豆島の石丁場を訪ねて
「大坂城の石垣のふるさと」である理由
城ファンにとって、小豆島は「大坂城の石垣のふるさと」でもある。豊臣家の滅亡後、2代将軍・徳川秀忠は西国支配の枢要の地として大坂を幕府直轄とし、大坂の陣で灰燼(かいじん)に帰した大坂城を1620(元和6)年から再築した。天守や櫓(やぐら)などの建物は幕府の直轄事業として行われたが、石垣や堀は、西国の外様大名を中心に大動員した天下普請により、1629(寛永6)年まで3期にわたり築かれた。
徳川大坂城の石垣に用いられた石材の総数は、100万個を超えると推定されている。石丁場は、大坂近郊をはじめ、小豆島、笠岡、前島、北木島などの瀬戸内海の島や沿岸部、遠くは佐賀県唐津市でも確認されており、史料からも各大名が各地からこぞって石材を運んだことがうかがえる。なかでも中心となったのが、大阪府の生駒山系や兵庫県の東六甲山系、そして香川県の小豆島だ。
とりわけ小豆島には、当時の痕跡をよく残す石丁場が数多くあり、福岡藩黒田家、柳川藩田中家、熊本藩加藤家、小倉藩細川家、津藩藤堂家、竹田藩中川家、松江藩堀尾家などが採石に励んだ記録がある。良質な石材が採れること、小豆島が江戸時代を通じて幕府直轄地であったことが大きな理由だろう。地元では豊臣秀吉が築いた豊臣大坂城築城時の石丁場との伝承があるが、2代将軍・秀忠、3代将軍・家光の時代に徳川大坂城に用いるべく採石したことが文献で明らかになっている。
時が止まったよう 福岡藩六つの石丁場
「大坂城石垣石丁場跡 小豆島石丁場跡」として国の史跡に指定されているのが、福岡藩主の黒田長政・忠之父子が採石した、岩谷地区にある六つの石丁場群(南谷、天狗岩=てんぐいわ、天狗岩磯、豆腐石、亀崎、八人石)だ。さまざまな工程を示す痕跡が残り、400年前の築城のサイドストーリーを現代に伝えてくれる。職人たちの息遣いや作業時に発生する音が今にも聞こえてきそうな、時が止まったような空間だ。

天狗岩丁場が、整備されもっとも見学しやすい。一部が切り出されたダイナミックな岩盤が見学路の両側に迫り、その先の斜面や平場は膨大な「残石(切り出す途中の石や運ばれずに放置された石)」で埋め尽くされている。切り出される前の「種石」もあれば、真っ二つに割られたまま放置された巨石、加工前の「そげ石」など、岩谷地区に残る石の総数はなんと1600個超。なかには、そのまま積めそうな四角く成形した長方形の「角石」もある。
母岩や巨石には、石を切り出すために開けられた切り取り線のような「矢穴」が無数に残る。小天狗岩と呼ばれる母岩の上に立ち職人の目線で石丁場を眺めると、その威容に圧倒されるだろう。採石は危険を伴う重労働だったようで、八人石丁場という名の由来も、8人の石工が犠牲になったとの伝承からだ。
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