小豆島だけじゃない! 徳川大坂城の石垣のふるさと 東六甲石丁場跡

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は兵庫県西宮市にある東六甲石丁場跡など、東六甲山系の石丁場群を紹介します。小豆島と並ぶ大坂城石垣のふるさとですが、小豆島とは大きな違いがあるのです。それは……。
【動画】東六甲石丁場跡を訪ねて
石垣を積み上げる「築石」の調達地
<大坂城の石垣のふるさと 大名の石丁場 小豆島の城と石文化(2)>では、小豆島に残る、徳川大坂城の石垣に用いられた石材の石丁場(いしちょうば=採石場)群を紹介した。石材は西日本一帯の石の産地から大坂へと届けられたが、もちろん近場で調達するのが効率的だ。歴史をひもといてみると、やはり各大名は近隣から石を切り出しはじめており、伏見城(京都市)からの転用、大阪府の生駒山系や兵庫県の東六甲山系から多くの石材が運ばれている。

巨大な母岩が露頭する小豆島の石丁場から運ばれた石材は、隅角部に用いるための、大きな「角石」が多い。これに対して、積み上げるための「築石(つきいし)」が多く調達された採石場の一つが、今回訪れた東六甲山系の石丁場群だ。
七つの刻印群 古墳時代から石の産地
東六甲山系の石丁場群は大きく七つの刻印群(甲山〈かぶとやま〉、北山、越木岩、岩ケ平、奥山、城山など)から構成される。小豆島と同様に、作業のようすがそのまま残る石丁場の跡や、大坂城に運ばれることなく放置された石材(残石)が数多く確認されている。
1620(元和6)年から1629(寛永6)年まで3期にわたり調達された徳川大坂城の石垣の石材は、その半数以上が東六甲地域から切り出されたと推定されている。東六甲石丁場跡の範囲も、東は西宮市の甲山森林公園付近から西は神戸市東灘区の住吉川・石屋川扇状地付近まで、東西6.5キロとかなり広い。
東六甲石丁場跡は大坂城から西へ20キロほどのところにあり、豊臣秀吉の時代には豊臣大坂城の石垣に用いる石材も調達していたようだ。岩ケ平刻印群の範囲は6世紀〜7世紀中頃に造営された八十塚古墳群の範囲と重なり、古墳群の石室には東六甲山系から産出された花崗岩(かこうがん)が用いられているという。古墳時代から、この地域は石の産地だったらしい。近世に入ると城の石垣用石材の一大産地となったようで、大坂城のほか、1607(慶長12)年から徳川家康が大改修した駿府城にも石材が運ばれた。

大坂城普請総奉行・戸田氏鉄の領地
東六甲石丁場跡の範囲には、1617(元和3)年に尼崎藩主となった戸田氏鉄(とだ・うじかね)の領地が含まれる。戸田氏鉄は1624(元和10)年からの大坂城第2期工事では普請総奉行を勤め、1628(寛永5)年からの第3期工事では普請総指図役を任されている。領内の良質な石材を積極的に提供し、運搬路の整備を行ったようだ。
1615(慶長20)年の大坂夏の陣の後、江戸幕府は大坂に通じる西国往還上の要地の一つに戸田氏鉄を置き、尼崎を西国支配の一拠点とした。戸田氏鉄は尼崎城や城下の整備だけでなく、河川開削などの治水工事の実績もある。そうした高い技術力が、徳川大坂城の石垣づくりにも生かされたのだろう。

芦屋市にあるハイキングコースの前山遊歩道コース上で、奥山刻印群のいくつかを見ることができる。奥山刻印群は、大阪湾に注ぐ芦屋川の東側にある奥山の山中、「ごろごろ岳」以南の広範囲に分布する石丁場群だ。奥山刻印群の東側には岩ケ平刻印群があり、長背尾根を境として西に奥山刻印群、東が岩ケ平刻印群となっている。芦屋川を挟んで奥山刻印群の西側にある城山一帯が城山刻印群で、岩ケ平刻印群の東側には、中新田川を境に越木岩刻印群、夙川(しゅくがわ)を境にその東側に北山刻印群が広がっている。
時を止めたように残る400年前の作業場
奥山刻印群には、矢穴が入った巨石が転がる場所もあれば、荒割りした「割石」が放置されたところもある。「端石」や「コッパ石」などの端材が散在する場所は、長方形の「調整石」を成形した作業場なのだろう。山中に、400年前の作業の場面がそのまま時を止めたように残っている。
放置された石を観察してみると、石を分割する切り取り線のような「矢穴」の入れ方に複数のパターンがあることに気づく。そもそも小豆島とは異なり、岩盤ではなく転石を割り進めていったらしい。矢穴を平行に入れて分割する技法もあれば、V字状に石を割る方法もある。異なる技法があるのは複数の大名や職人が採石していた証しでもあるのだろう。
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