東京の台所2
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〈258〉紛争地域で学んだ、心をつなぐ料理

〈住人プロフィール〉
58歳(公務員)
分譲マンション・1LDK・大井町線 上野毛駅(世田谷区)
入居4年・築年数10年・長女(19歳・留学中)とふたり暮らし

    ◇

 外資系ホテルで働きながら英語を習得した。マレーシア、中国では北京と上海の立ち上げに関わる。住まいとして、ホテルの居室が与えられた。

 ある日、上海の一室で読んでいた新聞記事に釘付けになった。
 「コソボ紛争による難民の写真が載っていました。自分はきらびやかなホテルでなんの苦労もない日々を過ごしながら、この記事を読んでいる。唐突なんですがその瞬間、ものすごく強い衝動でこの人たちの役に立ちたい、国連ボランティアの仕事をしたいと思い立ったのです」

 これまで一部の富裕層のために使ってきた自分のスキルを、もっと広い視野で社会から取りこぼされた人たちのために生かしたい。異国でゼロからホテル開業に携わった経験は、紛争地域でも生かせるはずだと考えた。
 34歳秋。彼女は迷いなく退職し、当時募集していた国連ボランティアに応募、3カ月、1年、2年と短期で契約更改するかたちでコソボに赴いた。

〈258〉紛争地域で学んだ、心をつなぐ料理

子連れで紛争地域を

 「現地では各国から派遣されたボランティアと協力しながら、緊急援助物資の配給システムを作ったり、破壊された施設を修復、機能させたり。早朝から日が暮れるまで働きづめで、暫定的に国連が統治していた行政機能を現地政府に移管していく作業に携わりました」
 
 従事する過程で、国連職員のセネガル人と知り合い誠実な仕事ぶりに惹(ひ)かれて交際。4年後、妊娠する。激務をこなせないため、やむなくボランティアを退き、さらに国際政治の学びを深めるためオーストリアの大学院へ。
 同居はせず、事実婚というスタイルをとった。

 「私は一度、学生時代に知り合った人と離婚を経験していますので。また、両親の反対もあり、相手に迷惑をかけると思いました」

 子どもがいてもやりたいことがある。国際援助の仕事を続けたいという志は彼も一緒だ。互いの想いを突き詰めると、住む場所は世界のあちこちになり、共同生活は望めない。双方納得の上で決めた。

 無事出産した女の子は現在19歳、アメリカの大学に留学している。子育ては彼女が、そのかわり教育費を彼が引き受け、現在まで育児の良き相談相手、お喋(しゃべ)り相手の関係が続いている。

 「今も毎日オンラインで話します。お互い60手前までよく続いたなあと。一番楽ですし、私がいつメールを送っても必ず返ってきて一度も無視がない。娘も長期休みは会いに行きます。私が今どんな状況かわかりあえている人がこの世に一人いるというのは安らぎますね」

 日本で恋人はという私の俗な質問に、あははと豪快に笑った。「彼とずっとそんな関係だから、ほかに恋人を作りたいと思わなかったのかもしれませんね」

 オーストリアの後も、親戚に助けてもらったり、全寮制の寄宿学校を利用したり、育児の綱渡りをしながら、子連れでイラン、ヨルダン、アンゴラと紛争地域のミッションに10年間打ち込んだ。
 48歳で、10歳の娘と帰国。
 「50を目前にして、女性で医師免許や博士号を持っていない立場で契約を取っていく生活に不安があったのと、一定期間ちゃんと娘と向き合って暮らす必要性を感じたからです」
 しばらく東京で就職活動をした後、地方自治体の国際交流センター事業の職を得る。

 現在の住まいは、5年前に買った。
 日本でも会食以外はほとんど自炊で、外食をしない。そのかわり、家での宴会をよくやる。
 「暮らしてきた国々の習慣が大きいですね。どうしても外でのご飯はおいしくないから自炊の癖がついている。たとえばイランは、店でお酒が出ません。だから大事な友だちは家に招く文化があります。現地の日本人もそう。招いたら招き返す。そうやって交流を深めていく。中東で、ひとりで40人招いたことがありますよ、大鍋でカレーを作って、あとは持ち寄りで」

 日本での暮らしは20年のブランクがある。フェイスブックからたどって学生時代の友だちに、うちにこないかと声をかけた。家なら安くおいしいものを食べられるという利点もある。
 
 「2014年からコロナが始まるまで月に1度、5人で集まるようになりました。夜はつい長くなってしまうので、いつからかランチと決めて。アラフィフの5人って、すごく楽しいんですよ。独身、子育てが終わった人、夫を亡くされた人、親の介護で疲れている人。いろんな事情でふだんはそんなに凝った料理を作れないことが多い。ひとりだと揚げ物もしない。ケーキを作っても食べ切れない。でも5人だとふだんできない料理を多品種並べられる。それがいいんですよね」
 子育てや仕事など30代、40代なら張り合ってしまうところを、様々な人生経験を積んでひと息つく50代なら、たしかに肩の力を抜いて付き合えるのかもしれない。

 この日は、友達とふたりでランチをしていた。たまたまあった黒米を炊いて、トマト味の野菜ソースをトッピング。無水鍋で焼いたスペアリブはやわらかく、ローズマリーの香りがたっていた。
 「なんてことのない名もなき料理です。お友達の料理はそりゃあすごいんです。彼女が作ってきたレモンのパウンドケーキなんてお店で売りたいくらい。こんなのが毎回食べられるなんて、ほんとぜいたくでしょう!」

 ホスト役が気取りすぎると招かれる方は疲れるが、彼女のざっくばらんで鷹揚(おうよう)な人柄なら、集まりたくなるだろうなと思った。何しろこの日も、取材で我々が到着するなり、自己紹介する前に満面の笑みで誘われた。「よかったらランチ食べていきません?」

〈258〉紛争地域で学んだ、心をつなぐ料理

忘れ得ぬピザ

 じつは紛争ミッションにおいて、「料理はとても大切な技術である」と彼女は言う。それを強く実感したのは、バーミヤン地区で働いていた時に作ったピザだった。

 アフガン紛争で荒れていたバーミヤンでの任務は、まず自分の住む家を現地の人と作るところから始まる過酷な環境だ。
 「国際援助のスタッフは世界各国から集まった多国籍チーム。日本人は私ひとりでした。乾期と激しい雨の繰り返しの中、反政府勢力の攻撃の危険と隣り合わせで常に緊張感があり、食材もろくにない。精神的に病んでいくスタッフが続出しました。みんなピリピリして、ささいなことでいさかいが起こることもしょっちゅう。誰もがあと何日で休暇か、指折り数えるなか、ある日私が共同の炊事場で、粉を捏(こ)ねていたんです」

 イーストはない。粉と水を混ぜただけの生地を捏ねる。
 「何作ってんの」
 「俺もやる」
 次々とスタッフが集まってきては手伝い始めた。
 もちろんピザソースもないので、トッピングにはトマトと玉ねぎとチーズを。1枚1枚窯で焼くシンプルなピザだった。
 結果10人で輪になって、焼きたてを頰張った。

 「10人全員がふわっとなごんで。ああ、料理ってすごいな。言語も宗教もなんにも関係ない。料理は人をつなげるなって思ったんです」

 どんなに疲れていても、豪華な食材でなくても、おいしければ人の心は丸くなる。
 「私はそこで救われたし、人間関係を動かす上で料理の力は大きい。同時に料理の技術は非常に大切だと学びました。紛争後いまだ苦しむ人にとっても、食を通して人生を語るような体験は有効ではと考えています」

 彼女いわく「ふくらまないペラペラのピザ」は、とてつもなくおいしかったらしい。

 取材時にもてなされた、思いつきで作ったという黒米のメインディッシュは歯ごたえが楽しく、何杯もおかわりをしたくなった。粉と水のピザの話からは、そんな彼女の名もなき料理のルーツが垣間見えるようだ。そう、たしかに料理は人をつなぐ。

 今年、娘はアメリカに留学し、彼女は縁あって省庁に転職した。
 「今が自分の人生でいちばん生活が安定していて、ゆっくり料理もできます」と笑う。
 だが、買ったマンションの荷物は最小限、台所にも高価な家電はない。もっとやりたいことができたらこれからもどこかの国に行くかもしれないし、つねに身軽でいたいから、安い家具でいいらしい。「まだ、なにも成し遂げていないと思うので」。

 たまたま夏休みで帰国していた娘に、お母さんはどんな人かと尋ねた。
 「小さい時はよく喧嘩(けんか)したけど、高校生になったらベストフレンド。母にも自分の問題があるってわかってきた。ひとりの人間なんだなって」
 
 かんたんに語れぬほど、子どもを抱えての仕事人生は大変だったに違いないが、彼女がどれだけ全力で子どもと、そして自分の人生と向き合ってきたかが伝わる、尊いひとことであった。

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