東京の台所2
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〈259〉親子3代が使ったヴィンテージマンションの台所物語

〈住人プロフィール〉
47歳(女性・契約社員)
分譲マンション・3LDK・都営三田線 白金台駅(港区)
再入居8年・築年数42年・ひとり暮らし

 海外から来た要人向けに建てられた住宅で、いわゆる「ヴィンテージマンション」に住んでいる。
 彼女がひとりで暮らせるのは、42年前に父が買い、妹ふたりを含む家族5人で暮らした想(おも)い出深い実家だからだ。

 じつは16歳の時に一度ここを離れている。両親がカナダのバンクーバー永住を決めたからだ。「日本人の父は、商社勤めの祖父の仕事でイギリス、オーストラリアで育ちました。母は日本育ちの中国人で大学はアメリカです。日本はホームベースであることに変わりありませんが、もっと自然豊かなところで広々と暮らしたくなったんですね」

 母方の祖父母も一緒に渡加し、あちらでは7人にぎやかに暮らした。空いた東京のマンションには父方の祖父母が亡くなるまで住み続けた。リフォームは壁紙だけにとどめ、最後まで大事に使った。

 いっぽう彼女は成人し、歳(とし)を重ねるごとにバンクーバーでの暮らしに物足りなさをつのらせていく。

 「ひとことでいうとつまらなかったんですよね。緑が豊富なカナダは、家庭を持っていたら楽しい街。でもキャリアの街じゃない。30代になるととくにそう感じました。妹たちは結婚して子どもがいて楽しそうでしたが、私みたいな独身の人間には刺激が少なすぎるんです」

 もっと文化の深まりのあるところで暮らしたい。自分を試したい。30歳から3年間、大好きなインテリアデザインを学び、ニューヨークで就活をした。「おもしろい人生なら、ニューヨークか東京だと思ったんですよね」
 しかし、かの地では思うようにいかず、40歳で単身帰国を決意。現在はPRの会社に勤めながら趣味でインテリアプロジェクトに関わり、仕事とやりたいことのバランスを取っている。

 「家賃のいらない実家住まいなので、どうにかこうにか生活を維持できる。実家でなかったらとてもこんなところに住めません」
 さばさばと語る。
 船便でカナダの家の倉庫に放置されていた古いペルシャ絨毯(じゅうたん)を運び、虫食いや汚れも味わいとして楽しんでいる。誰も引き取り手のなかった祖母の銀のカトラリーや皿一式も、大切に使い続けている。

 最近、築42年のマンションの大規模な修繕工事があった。水漏れなどがあちこちの住戸で起きていたので、共益費と必要に応じた自費で風呂と洗面所をまるごとユニット式に取り換えるという内容だった。
 もともと風呂場は、バスタブとゆったりした大理石風の洗面台、陶製トイレがひとつながりになっていた。工事で洗面室とトイレを分離し、風呂は現代的なユニット式にするとたしかに手入れがしやすく、今後も修繕しやすい。
 だが、彼女は浴槽だけの最低限の工事にして、ほかは断った。

 「上質な木材や石材、真鍮(しんちゅう)、陶器のトイレ。こんなに素晴らしい材を使って、すみずみまでこだわったデザインで美しいものを壊すなんて考えられませんでした。もったいないです。聞いたら、洗面室を直さなかったのは全戸でうちともう1軒だけだったそうです」

 凝ったレリーフの施された無垢(むく)材の扉がつらなるシステムキッチンも、リフォームは一切していない。レトロな翡翠(ひすい)色の大型オーブンや食器乾燥機も42年前のまま、今も毎日使っている。他の住戸は、風呂場以上に台所は頻繁にリフォームを重ねているという。
 「うちがリフォームをしてしまったら、もうこのマンションの素晴らしかった時代のデザインを伝える人がいなくなってしまう。だから壊れるまで、絶対にどこも変えたくないのです」

〈259〉親子3代が使ったヴィンテージマンションの台所物語

おせちは父の担当

 渡加した両親や妹も、日本がホームベースという意識がある。だからコロナ前までは毎年1回必ず全員でこの家に集まり、大宴会に。料理好きの彼女はひとかかえもある70年前のル・クルーゼの鍋で鶏を丸焼きにしたり、大きなクリスマスケーキをこしらえたりする。
 「電子レンジが嫌いでふだんは使わないのですが、みんなが集まるときはどうしても使うので、処分できずにいます。妹の子である甥(おい)っ子や姪(めい)っ子もいるからラーメンを作っとていわれたりして大忙しなの」

 スーパーが好きで、週に2、3回はしごをする。運動を兼ねて歩いていくこともある。野菜はここ、パンならあそことお気に入りの店が違うからだ。
 「オオゼキやコストコもよく行きます。お菓子作りに欠かせないバターミルクや牧草牛乳はまとめ買いして冷凍するの。カナダの祖母はスコーンを焼くのがうまかったし、母は中国人なのでマーボー豆腐や卵炒めみたいな家庭料理がとってもおいしい。父はもう30年以上毎年おせちを作っています。お雑煮、お煮しめ、黒豆。これがないとお正月になりません。家族全員が料理をする家庭で育ったので、私も自炊派。できあいのものやコンビニは苦手です」

 ジャムもカレーもミートソースも一度作ると3、4日は食べ続ける。それでも原材料がすべてわかる自分の味は安心で、飽きない。
 「なにより節約になりますしね!」

 冷蔵庫にはらっきょう漬けや冷麺のタレが保存容器に並んでいた。どちらも自家製だ。
 マンションの外からながめていた印象と、彼女の堅実な暮らしぶりのギャップに、自分の浅い思い込みを恥じた。

 ちなみに、タレやドレッシングは手作りだがマヨネーズだけはキユーピーに決めているらしい。
 「海外でもキユーピーは高級品で大人気。ポテサラでもなんでもこれがあれば絶対おいしくなる。必ず3、4本買い置きしています。ひとり暮らしだけど月に1本なくなります」

〈259〉親子3代が使ったヴィンテージマンションの台所物語

人生を変えた週末里親体験

 40歳での単身帰国は、じつは大きな喪失感を伴っていた。「第二の母のように」して過ごした4人の甥と姪との別れが悲しかったからだ。

 「もともと子どもが大好きで、ずっと一緒にいたかった。もう不可能なんですけどこの年になってもいまだに子どもがほしいと思っているくらい。彼らと離れたことが辛(つら)くて、なかなか乗り越えられませんでした」

 帰国の4カ月後。乳児院の「週末里親」というボランティアを始めた。0〜3歳の子を養育するその乳児院では集団生活なので、どうしても家庭的な体験に欠ける部分が生じてしまう。
 たとえば、大人が台所で料理する姿を見たことがなかったり(厨房〈ちゅうぼう〉で作り、食堂に配膳された状態での食事になるため)、スーパーでの買い物を見たことがなかったり。野菜が切られて料理になった状態で見ているので、にんじんやきゅうりのまるごとの姿を知らない子もいる。

 週末里親はその名の通り、週末だけ預かり、社会経験や家庭生活の経験を支援する。継続して同じ子の面倒を見るのが条件で、複数の保育士が入れ替わって養育をする乳児院では体験できない、決まった大人との継続的な信頼関係を育むのも、週末里親の役割の一つだ。

 「私は2歳の男の子の2泊3日の週末里親を、1年間毎週やりました。ボランティアのつもりでいましたが、私のほうがたくさん癒やされ、大切な生きがいをもらった。学びの大きい時間でした」

 台所にベビーチェアを持ってきて、料理をするところを見せ、「これはきゅうりだよ。かじってごらん」と手渡したり、野菜に触れさせたり。「さあできたよ。味見してみて」とふたりで料理を楽しんだ。
 肉、魚、フルーツ。できるだけたくさんの食材の食感や触感を体験させた。

 「公園、スーパー、食堂、レストラン。私の運転する車でいろんなところに行きましたねえ。乳児院の子どもたちはあまり敷地から出ません。電車に乗るのは年に1回ぐらいだけだそうです。だから私は毎日のようにあちこち出かけました。後部座席のカーシートの彼とおしゃべりしながら。すごく楽しかったです」

 初日、お風呂に入れた際、頭の形の異変に気づいた。普通の2歳児より小さいのだ。事前に保育士から「虐待を受けていたことと関連しているかは不明ですが、脳波に異常があります」と聞いていた。障害があるので、将来里親を見つけることや、小学校の普通学級ヘの進学は難しいかも、という話とともに。

 「本当にかわいい子で、ふたりでいる時間は精いっぱい多様な体験ができるよう心がけました。それから歳月を重ねるごとに、洗髪で“あれ?”って思うことが重なって。少しずつ頭が大きくなっていったのです。専門的なことはわかりませんが、手先を使って味覚や聴覚、視覚、触覚、さまざまな五感を刺激したことが脳の発達にもいい影響を与えたのだとしたら嬉(うれ)しいなあと思いました」

 1年後。
 「ものすごい成長と発達が見られます。正直、私たちはこの子がこんなに伸びるとは思いませんでした」と保育士、心理士、ナース、児童相談所の職員からも言われた。
 しかし、別れは突然やってきた。週末里親を終え、車で送り届けると保育士にいわれた。
 「里親が決まりましたので来週でサヨナラしていただかなければなりません」

 里親は地方在住で、長距離の車に耐えられるか職員は心配した。自家用車に慣れていない院の子は、むずかるケースが多いからだ。彼は週末の経験で慣れていたので問題なくクリア。この成長も里親を安心させた。

 「喜ぶべきこと。ひとりの人間の将来に貢献できたとすればこんな嬉しいことはありません。でも寂しくて寂しくてね……。あの子は元気かしらと思い出すと泣けてきちゃうの。3年間は泣いてましたね……」

 そういいながら、涙声になっていく。
 惜しみない愛情で、生き生きと子どもの成長を見守る彼女を見て、里親制度に興味を持った従姉妹(いとこ)夫婦もいる。彼らはさまざまな研修を重ね、現在はフルタイムで養育をする里親になったという。

 彼女も本当は院から引き取る養育里親になりたいが、現在の制度では特例をのぞいて収入や病気をした場合のサポートができる大人が別にいることが条件だ。週末里親には登録しているものの、コロナ禍で保留が続いている。
 「夢は、自分だけが週末里親になればいいやじゃなくて、乳児院の環境や里親制度、週末里親制度を社会に広めること。もっと知ってもらいたいです。そのために私のパッションを注いでいきたい」

 愛情は巡る。
 彼女の献身が従姉妹に伝染したように。
 両親、祖父母と3代に渡ってこの台所で育まれた愛情が、2歳の男の子に手渡されたように。
 彼の記憶からここで過ごした1年間がこぼれ落ちたとしても、彼女の心のなかに刻まれたあたたかな時間は消えない。
 彼女がリフォームをしないと頑(かたく)なにいい切るのは、たんに素敵な建築だからではないのだとわかった。

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