東京の台所2
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〈260〉カレーから始まった恋は思わぬ展開に

〈住人プロフィール〉
45歳(男性・セラピスト)
賃貸戸建て・3LDK・中央線 国立駅・国分寺市
入居1年・築年数21年・恋人(50歳・男性・ボディワーカー)とふたり暮らし

 彼は8年前のある日、ネット掲示板を通じてミスターSと出会った。物静かで穏やか。消防署に勤務、5歳上だというSさんに、最初に正直に告げた。
 「じつは僕はセラピストをしています」

 Sさんは、カバンから「今、こんなの読んでいるんだ」と本を取り出した。書名は『神社の秘密』。
 「ちょうど仕事で神社仏閣のツアーをしていた頃なのでびっくりしました。仕事を理解されないかもという心配がそれで一気に吹き飛んで……」

 話しこむうちにSさんの空腹に気づいた彼は、恐る恐る言った。
 「じゃあ、カレー食べていきます?」
 当時、女友達宅に居候をしていて、留守を預かっていたのである。

 急きょ作ったカレーライスは、子どもの頃からの母の味。バーモントとジャワカレーの2種を混ぜる。Sさんはその味を今でも鮮明に覚えている。「気取らない、ほっと安心する味でした」。

 それからしばらくして、ふたりで暮らすようになった。今でこそ、彼は予約が取りにくい売れっ子セラピストだが、当時は収入も不安定。公務員のSさんが生活を支えた。そのかわり、時間だけはたくさんある。彼は毎日土鍋でご飯を炊き、味噌(みそ)汁のだしをとり、弁当を作ってもたせた。

 「キャリア職で忙しいSは、コンビニ食ばかりで食がおざなり、顔色も悪かった。あの時が一番土鍋を使いましたね。3食をきちんとするだけで自然に地に足がついた生活になっていく。食って、自分を立て直すのにいちばん手っ取り早い作業なんだなと実感しました」

 恋人は、1カ月でみるみる血色がよくなっていった。

〈260〉カレーから始まった恋は思わぬ展開に

彼がけっして言わなかった言葉

 ふたりは吉祥寺、荻窪と快適な部屋を求めて転居を重ねた。呼応するように、セラピストとしての仕事が年々増えていく。いっぽうSさんは、人事も担う管理職につき、責任とストレスで疲弊していく。
 「はたから見てると、子どものいない独身者って、いちばん分が悪いですね。朝7時前に出て帰りは20時。オーバーワークなうえ危機管理に関わる仕事なので、休日でもなにかあればすぐ駆けつけねばなりません。プライベートでも旅行時は行き先を事前に申告。昇進すればするほどしんどそうでした」

 Sさん曰(いわ)く、当時は「仕事に行き詰まった若い部下から“辞めたい”と相談されると、引き留めねばならない立場でした。自分自身も苦しいのに、とどまれと、心に反して説得するのがまた苦しかった」。

 いつなんどきも心が休まらず、身動きの取れないSさんを見て、これ以上仕事を続けたら壊れてしまうと心配をした。職場では、メンタルの問題で休職する人もいたという。
 しかし、「仕事をやめれば」とは一度も言わなかった。
 「それを言ったらおしまい。相手の人生への介入、コントロールになってしまいますから」

 カレー、シチュー、牛丼。毎日彼が喜びそうな料理を作り、精一杯、明るく見送ることしかできない。
 「Sは朝、バス停まで歩いていくんですけど、後ろ姿が寂しそうで。背負っているものが多いんだなって通勤姿を見るたびにせつなくなりました」

〈260〉カレーから始まった恋は思わぬ展開に

そろそろ東京を手放したい 

 2018年春。Sさんに告げられた。
 「仕事を辞めようと思う」
 彼は明るく、なんでもないように答えた。
 「いいよー。辞めなよー。セラピストの彼氏が心を壊したら洒落にならないもん」

 Sさんの決意の根底にあったのは恋人の生き方だった。
 「上京して大学を出て、消防の職に就いて。組織の中で先が見えきて。かたや彼は、先が見えなくてもやりたいことに挑戦して、どんどん変化している。引っ越しにも迷いがない。動いたら流れは変わるけど、いいことがたくさんある。彼を見て初めて、変わることを肯定的に思えたのです」(Sさん)

 転職先は何も決まっていない。だが、苦しんでいる部下に「辞めるな」と心にもないことを勧めねばならない組織からは卒業しようと決めた。退職を決めてからは、後輩に相談されるたび、「一つの職場をまっとうする道もあるが、人生にはいろんな選択があるよ」と堂々と伝えられる清々(すがすが)しさを実感した。

 10月に退職し、つづけざまにルルド、パリ、セドナ、ハワイへふたりで旅をした。どこへ行くにも申告が必要だった日々からの解放感は想像以上だ。以降、Sさんは体調を整えるボディワークを学び、天然石の通販サイトの運営をしている。

 2021年、国分寺の現在の一軒家へ。
 「郊外で犬とのびのび暮らしたくなったのです」

 朝はSさんがトーストとスクランブルエッグとコーヒーを作るようになった。夜は彼が作ったり、食べに行ったり。あの2種のルーを使うカレーは今も月に2回は食べる。
 2年前には、八ヶ岳に中古のリゾートマンションを買っている。

 「コロナ禍に国立に来て、どこへ行っても密じゃない心地よさを実感するのですが、長野はもっとそう。今は月に1週間くらいはあちらで過ごしていますが、遠くない将来、拠点を長野に移そうかなと考え始めています」

 リモートでも仕事ができるとわかった。安くない賃料を払い続ける矛盾も感じている。なにより「東京で生まれ育って、自分の中で東京暮らしの楽しさがコンプリートしたように思うのです。もう十分堪能したかなって」。

 八ヶ岳では、旬の野菜を使ったサラダをよく作る。バーベキューや鉄板焼きも。地のものはシンプルな調理でもとびきりおいしくなる。愛犬も自由に駆け回ることができる。気負いのない表情で彼は言う。「そろそろ東京を手放したい」。

 変化をいとわない彼が東京でも八ヶ岳でも、変わらず守っていることがある。それは「料理をしているときに嫌なことを考えない」。

 「料理はハッピーな気持ちで作るのと、イライラしているときと、絶対味が違う。だから喧嘩(けんか)をしているときや、悲しいニュースが流れているときは台所に立ちません。料理中に喧嘩をしたら途中でも作るのをやめて、食べに行っちゃう。食べ物には思っている以上に心が映る。だから台所はとても神聖な場所だと思います」

 カレーから始まった恋は、目に見えぬたくさんの変化をふたりにもたらした。

 同じところにずっと住まないでいい。決められたレールを全うしなくてもいい。東京にしがみつかなくてもいい。もっと自由に人生を楽しもう。
 三方の窓から光が差し込む台所はかろやかで、適度に家電やおやつがあふれていて気取りがない。3時間半しか話していないが、台所から彼の人柄がよくよく伝わり、8年前に作ったカレーの味もわかる気がした。

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