東京の台所2
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〈261〉台所は“気持ち悪い”場所。海外生活とコロナを経てたどりついた境地とは

〈住人プロフィール〉
46歳(女性・派遣社員)
賃貸マンション・3LDK・小田急線 町田駅・町田市
入居7カ月・築年数30年・夫(47歳・自営業)とふたり暮らし

 じつは取材時間を間違え、3時間半も早く着いてしまった。呼び鈴を押してから気づいた次第で、出直そうとすると彼女は言った。「どうぞどうぞ」。
 私がその立場なら、片付けがあるので10分でも早く着かれたら焦って困惑するだろう。

 おそるおそる部屋に上がると、隅々までスッキリ整然としている。朝食後間もない時刻だが、台所には洗い残しの皿どころかチリひとつない。
 共働きで、夫は自営で在宅仕事だ。突然訪ねたらもう少しなにか散らかっているのが普通ではと、半ば不思議に思うほど整っていた。

 台所からダイニング、リビングまでブラウンと白で統一され、アクセントカラーの赤が控えめに。色の情報量が抑えられている分シンプルなうえに、もともとモノが少ない。
 台所の吊(つ)り戸棚は「高くて届きにくいから」とすべて空だった。器やカトラリーは、高さ20センチほどの棚ふたつ分で全量。
 冷蔵庫は、その日食べ切れるだけの食材しか買わないので、がらんとしている。

 どの引き出しや棚もぎゅう詰めにせず、隙間がある。
 それでいながら必要なものはちゃんと手の届くところにあって、ミニマリストのように徹底的にモノを排除しているわけではない。
 
 居心地の良いシンプルの秘密は、コロナと10年間のフィリピン生活にあった。

〈261〉台所は“気持ち悪い”場所。海外生活とコロナを経てたどりついた境地とは

虫対策に精神を病んでいく

 日本の職場で知り合った夫は、交際中にフィリピンでゲームソフト会社の起業を決意。英語が通じ、ビジネスチャンスがあるという判断に彼女も賛同。夫が独立した1年後に長年勤めた会社を辞めた。ちょうど彼女にも、同業他社からヘッドハンティングの話が来て迷っているときだった。

 「まさか自分がフィリピンに住むことになるとは想像もしていませんでしたが、私も新しく何かをスタートしたかったので。ヘッドハンティングのことを彼に相談すると、“人生を変えるには大きく思いきらないと意味がない。小さな変化じゃまた同じだよ”と。背中を押され、他社からの誘いは断り、結婚して渡比しました」

 当初夫は、軌道に乗ったら会社を売却する予定だったが、ビジネスが安定。2011年から10年間マニラで暮らした。
 帰国は昨年。コロナ禍で、リモートでも仕事ができるとわかったことと、厳しいロックダウン政策に疲弊したことがきっかけだ。

 彼女は現地で日系企業に勤め、仕事は充実していた。しかし、自宅では10年のうち8年間ゴキブリに悩まされ続け苦しむ。
 「広いコンドミニアムだけど、古かった。どんなにきれいにしても、何をやっても毎日出てくるんです。バルサン焚(た)いて何日かホテルに避難しても効き目がない。トイレを開けたら3匹とか、食器棚の隙間とかいろんな空間から湧いてきて。あの恐怖は今でも夢に出てくるほどです」

 食材と調味料はすべて冷蔵庫に収納。鍋や調理器具は、扉がきっちり閉まる棚にしまい込んだ。
 料理のたびに食器棚や作業台、冷蔵庫、レンジ、オーブンをすべて拭き掃除し、最後に床にワイパーをかけて、ハッカ油スプレーを吹きかける。毎回徹底的に虫対策しないと気が済まず、いつしか台所は彼女にとって「気持ちが悪い」場所になっていた。

 「キッチンに長くいたくないので、食材に虫が来ないか見張りながらスピーディーに料理をするのが癖になっていました。だから単純な工程のものしか作れない。虫のストレスがトラウマで、最後は精神的に支障をきたしていましたね」

 8年目。妻を見かねた夫は、新築のコンドミニアムへの転居を提案。大理石の作業カウンターが印象的な、清潔で広い台所になった。
 「前の古い部屋とは違って、食器棚の扉はぴたっと閉まるし、新しいためか虫は出ませんでした。でも、なにしろ長年のトラウマが染み込んでいるので。食器や調理具の露出はいっさいせず、中にしまい込んでいました。それでも食器棚を開ける時は必ず身構えてしまう。目の端に何か黒いものを捉えれば、心臓がドキンと鳴って、ゴマだとわかっても不安。料理後はすぐビルの集積所に生ゴミを持っていく。料理のたび、棚から床まで拭きまくるのがルーティンになっていました」

 越してしばらくはまだ「キッチンに対して不信感しかなかった」。が、虫と遭遇することもなくなり、そのうち音楽をかけたり、旅先で食べたメニューを再現したり。あわてずのんびり、ゆっくり台所への抵抗感が薄れていった。

 ところがまもなく、フィリピンでもコロナが発生。厳しいステイホーム生活が始まる。
 「フィリピンは世界一厳しく長いロックダウンと言われるくらい大変でした。交通網はすべてストップ、マスク・フェースシールドの着用は義務化され、息苦しい炎天下、徒歩で30分かけてスーパーに通い、ソーシャルディスタンスの長蛇の列に並ぶ。入場制限のため30分待つのは当たり前で、やっと中に入れてもすでに品薄で。重い荷物を下げてまた30分歩いて帰る。人生で初めて3食毎日作る生活になりました」

 虫のトラウマ以前から、料理は億劫(おっくう)なものというイメージがあった彼女は毎日そこに立つことで、ある発見をする。

〈261〉台所は“気持ち悪い”場所。海外生活とコロナを経てたどりついた境地とは

在宅の日々に鍛えられた

 「自分は料理の何が苦だったか、わかったんです。料理ってたとえば“食材を切る”というひとつの作業にいくつもの動作が含まれていますよね。冷蔵庫から出して、袋を開封して、洗って、切って。虫対策優先ですべての道具を扉付きの場所にしまい込んでいたこともあり、家事動線を何も考えていなかった。3食作ることでそこが鍛えられました」

 段取りを計算し、モノは適材適所に収納、動線をスムーズにすると、億劫というイメージが払拭(ふっしょく)され、かわりに達成感による喜びが上書きされる。
 気がつくと、家事動線を考えることが楽しくなっていた。

 2021年12月。
 コロナ禍のまっただなか、ふたりは帰国する。10年ひと区切りと考えていたこともあり、後悔はない。1カ月の自主隔離を経て、彼女の妹が住んでいて馴染(なじ)みのある町田に部屋を借りた。
 「100円ショップ、家電量販店、ニトリ。日本には便利なものがたくさんあって楽しいです。もう虫のことを考えず、心置きなくハンギングや、食器・食品をオープン収納できる。動線を考えながら台所を整えるのはとても楽しいです」

 マニラ時代はヴィンテージやお気に入りの器を持っていたが、コロナ禍による船便コンテナの制限で、やむなく譲渡や処分をしてきた。
 器だけではない。思い出の品や高価な持ち物も手放さざるを得なかった。たとえば、旅先でひとつずつ買い集めていたスノードームも。

 「だからモノは増やしたくないんです。処分するときの切なさを、もう味わいたくないから」

 彼の仕事はオンラインでもできる。自分も派遣社員なのでどこでも働ける。フィリピンでの厳しいステイホームの日々が自信になった。
 荷物は少なく身軽に。手放すのに辛(つら)くなるようなものはハナから持たない。

 「さらに住みやすいところを探す旅は続けたいので、これからも引っ越しを重ねるでしょうね」
 フィリピンに行く前の彼女は、ここまでたくましい人だったのだろうか。お連れ合いに尋ねるのを忘れた。
 ただ、3時間半も早い突然の来訪者を落ち着いて招き入れられる秘密は少し解けた。

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