偏愛人語

写真撮影はクリエイティブ脳の筋トレ 落合陽一が語るカメラへの愛情

光や音の波を計算機制御することを専門とする研究者(筑波大准教授)として実績を重ねつつ、メディアアーティストとしても活躍、最近はテレビ番組のコメンテーターも務め、ほぼ毎月著書を出している落合陽一さん。いつも腰にカメラをぶらさげ、打ち合わせや取材の現場でも、ひっきりなしにシャッターを切っている。自身のTwitterやInstagramアカウントに盛んに投稿しています。

小学生4年生の時に、初めてデジタルカメラを両親から譲り受けて以来のカメラ好きだという落合さんは、近著(※1)で「自分の目で見た世界を発信し続けることで誰かに視座を共有したいという思いがあるのかもしれません」と書いています。
今月、写真を中心とした個展を開催する落合さんに、カメラと写真撮影への愛情をテーマにインタビューしました。

 

――いつも持ち歩いているカメラの機種はライカでしょうか

落合 数年前までは違う機種でしたが、今はライカをメインに、そして撮影用にライカのレンズを搭載したHUAWEIの携帯を2台持ち歩いています。なぜライカを使うようになったかというと、決め手は持ち運びがしやすいレンジファインダーの機種だからです。元はSIGMAのFOVEONセンサー好きだったんですが、ソニーのα7を使うようになってから、マウントアダプター(編集部注:カメラとレンズを連結させる部品)でライカのレンズを使うようになって、それでもまだ重かったので機種を換えました。

カメラ本体と、F値が1.4~1.8ぐらいのレンズを3本持ち歩いても、全部で2kgしないぐらいです。同じ性能を他のメーカーのカメラに求めたら、すごく重たくなってしまいます。何台か持っているライカのM10のうち、今日持っているのはM10-Dという背面モニターがない機種です。これだと撮影した後、すぐにはどう写っているかがあまり気にならないところがよいなと思っています。大きく引き延ばしてプリントする場合は、中判のライカを使います。あれはエッジまでシャープでよく見えるので。

ライカM10-D

落合さんが取材当日に持っていたライカM10-D

――今日持っている3本はいわゆるオールドレンズですね

落合 新しいライカのレンズもほぼ全部持っていて、そのボケ味もすごく好きですが、オールドレンズで撮る写真には質量感があります。オールドレンズとフィルムカメラで撮影したような絵づくりをするのであれば、M10にオールドレンズをつけて使うのはすごくいいです。オールドレンズだと滑らかなエッジになるんですよね。もし一個一個の光源にたいするフレアやブラーをCGで計算してふわっとさせるなら結構手間がかかるなあと思う絵が撮れる。

ナチュラルコンピュテーション(natural computation)という言葉があります。それはざっくりいうと自然現象を使ってコンピューター計算をする分野なんですけど、オールドレンズはナチュラルコンピュテーションでしか出せないような表現をしているなと思うことも多いです。

――1日どれぐらいの枚数を撮りますか

落合 だいたい300枚ぐらいじゃないでしょうか。僕にとって写真撮影は筋トレのようなものです。研究や経営や教育だけをしていると、どうしても右脳というか、「クリエイティブ脳」が弱まります。僕にとっては「イメージと対話すること」が重要なキーで、撮影することでだんだんとイメージと対話ができるようになり、クリエイティブ脳を復活させることができるのです。

――撮影するときはどんなことを考えているのでしょうか。勝手な想像ですが、ファインダーをのぞきながら、見ている場面をCGで再現したら光源はどこに置くか、などと思っていそうですね

落合 その通りです。例えば、ここ(取材場所のカフェ)だったら、あそこの大きなガラス面に天井から布が垂らされているので、テーブルに置いたコップの影の中に、“直射日光成分”があるシュッとした部分と、ふわっとしている散乱光成分部分が同居していますよね。そんなことを考えています。撮影する時は、スペクトルが面白いとか、光が混ざっているなとか、あそこの表面反射はキレイだ、なんてことを意識していることが多いですね。

――デジタルカメラで撮影した場合は、RAWで撮影したものをソフトを使ってかなり時間をかけて現像しますか

落合 結構“撮って出し”も多いですが、何かで展示するものはかなり気合を入れて現像しますね。TwitterやInstagramで見るのであれば、撮って出しでも全然困らないと思っています。それはなぜかというと解像度が低いからです。高解像度のものを等倍でプリントするのであれば、(シャドーを)持ち上げた時にノイズが乗るじゃないですか。あのノイズはスクリーンだとまずわからないですよね。

でもSNSに投稿する時は、縦1000ピクセル、横2000ピクセルぐらいにダウンサイジングされているから、「ノイズがあるかな、ないかな」ぐらいですよね。刷ってみないとわからない。この差は、デジタル世代には逆に新しい感覚なのかなと思います。デジタル世代は、プリントされた写真と対話する価値観というものをしっかり持っていない人が多いと思いますね。(B5判の本を指して)このサイズだったら分からない、でもこの机ぐらい(A1判)のサイズでプリントすると違いが出ます。

現状、この机ぐらいの大きさで出しているものは、ほとんどスクリーンにデジタルで表示させているから、解像度は超低い。広告写真で中判撮影された写真を印刷したものは解像度が高いのだけど、ああして印刷されているのは人物を撮ったものがほとんどで、Photoshopを使って調整しているから、ノイズはあんまり気にならなくなっている。そういう問題点はやっぱりあると思ってます。

落合陽一さん

いまもライカ用のよいオールドレンズを探しているという

――いまは、スマホ搭載のカメラで撮影すると、機械学習の結果に基づいてきれいな絵に補正されます。そうした自動補正機能についてはどのように考えますか

落合 機械学習でものを判別して、最適に撮るという技術はすごくいいと思いますが、それだと人間の役割はいわば移動式ロボットアームになるわけですよね。
いま、写真を撮ることは誰にでもできるけれど、やっぱりスマホで撮った写真は、あんまりクオリティーが高くない。そのことに気づくには、8Kモニターみたいな大きなサイズで見るか、プリントするかしないわからないかもしれない。ピクセルやフィルムと直接対話しないと見つかってこない違いです。その違いは、フォトン(光子)がレンズを通過してフィルムに焼き付いているのだということに自覚的にならないとわからない。

刷ってみると明らかですが、スマホで撮った写真は暗所など意外とノイジーで、その上のっぺりしていると感じます。でもそれを感じてこなかった人にとっては、別にそれで問題はない。例えるなら、海外発のちょっと高級なチェーン店のレストランのようなもので、どのお店であっても、ある程度同じクオリティーのおいしい料理が食べられる。とてもよく考えてつくられている仕組みで、とてもよいと思います。ただ、おいしい料理ではあるのだけれど、どのお店でも同じ味だから、どう違いを出していくかは考えなくてはいけない。
スマホのカメラのクオリティーは高くなったと言われているけど、画一的なものを生み出すので、そうではない多様なものをどうやって作っていくのだろうということはすごく気になっています。

――自分でシャッターボタンを押さなくても、スマホ搭載のカメラが自動で記録し続けていて、その中から写真としてよい場面だと判別したものだけを保存していく、なんて時代も来そうですよね

落合 実はほぼそれに近いことを試したことがあります。2013年ぐらいかな、1年ぐらい首から小型カメラをぶら下げていて、1年で約100万枚を撮影しました。起きている間は自動で30秒に1枚撮っていたから、1日で2000枚ぐらい。それ以外に自分で撮影した300枚があるので、1年間でだいたいそれぐらいの枚数になりました。

それをして分かったことがあります。記録や記憶のための撮影は首下げの小型カメラで十分です。食べた料理を撮るぐらいならそれでいい。ただ、“印象”とか“当時の自分の気分”を保存しておくには、わざわざフレーミングしたという記憶が必要になる、ということです。データとして何を食べたかをさかのぼるには、首下げカメラの画像があれば十分ですが、自分がどういう気持ちでその料理と向き合ったかを知るには、Twitterに言葉を残すとか、ライカで写真を撮るとか、そうした行動がとても重要になります。

フレーミングすること、つまり光線をどうとらえるかというところには、人間が目でどうやってものを見るかということを題材化した意味があって、ただ眼球の奥にカメラがついていてもだめなんです。レンズ選びやフォーカス選びは、撮影する人が、どういう気持ちで脳が見ているものを再現したいかを考えている点に意味がある。

誰かが見ているものを、脳から直接高解像度の画像として取り出せるのであれば、それでよいかもしれないけど、いまはまだできない。だからこそ、いまここで、脳がとらえているものと同じように撮影したい、そして撮影した画像をちょっと修正したいとしたら、レンズ選びから始まるいまの写真撮影のプロセスは、何十年かかけて培ってきた人間の叡智(えいち)なのだと思います。

スマホが永遠に解決できない課題としては、レンズサイズが大きくないので、独特の表現ができないことです。それをコンピュテーショナルに補おうとしているけれど、レンズ1本ですごく幅広い表現ができるかというと、それは難しい。例えるなら化学調味料ではカツオ節を削った味は出ない、というか。化学調味料はおいしいので僕も好きだけど、カツオだしはカツオだしのおいしさがあって、そこには違いがあると感じます。デジタル化してもオーディオマニアや光マニアが絶滅しないように、その違いを感じる人はいなくならない。また、ディスプレーおたくよりは、レンズおたくのほうが絶滅しにくいと思います。

――落合さんもそのお一人だと思いますが、オールドレンズ愛好家はいなくなりませんか

落合 今日持っているレンズは、シリアルナンバーをみると、1本はたぶん第2次世界大戦より前に作られたものだと思います。もう1本も戦後すぐ。残りも1960年代で、ほぼ骨董品(こっとうひん)です。チェコスロバキアあたりの店で買ったかな。60年、70年経ってもレンズが使えるというのはすごいことだと思います。こうした古いレンズをデジタルカメラに取り付けることのよさもあります。つまりデジタルだから、ダークサイドにいったやつをある程度後から戻せる。

CMOSやCCD(編注:どちらもイメージセンサー)との相性も合って、フィルム時代は全然わからなかったことだと思いますが、オールドレンズでシャープに絞って感度特性を上げるときれいに写ってくることもあって、そうした特性値がきれいに出てくる良さがあるから、いまオールドレンズの人気が上がっているのだと思います。

デジタルカメラとオールドレンズは相性がいいと思います。コーティングの性能が悪いので逆光には弱いですが、それ以外の条件ではよく撮れる。この73mmf1.9のレンズは、自分のクリスマスプレゼントとして買ったばかりの1本ですが、中をのぞいてみると、黒い点がいくつかあるんです。これはゴミではなく気泡だそうですが、それはそれで味がある。当時はガラスの製造過程で気泡が入ったらしいですが、それでも普通に販売されていた。現代だったら出荷の際のチェックではねられますよね。それはそれでいい価値だなと思います。

オールドレンズの中にできた気泡をのぞく落合さん

オールドレンズの中にできた気泡をのぞく落合さん

――フィルムカメラとデジタルカメラの使い分けについて教えて下さい

落合 背面にモニターのないM10-Dで撮った画像をWi-Fi経由で確認するために必要な時間はだいたい1分ぐらい。フィルムカメラを確認するまでの時間は、白黒のコダックフィルムだったりすると5日かかる時もありますが、まあ略して1日必要だとしましょう。デジタル世代の僕にとっては、デジタルカメラとフィルムカメラには、1分先に画像を確認できるか、それが1日先になるかという違いしかありません。質量は同じぐらいです。

本質的な違いは、フィルムカメラの解像度をデジタルで出せるかどうかや、ノイズがどう乗るか、コントラストがどう出るか、です。フィジカル(フィルムカメラ)が持っている質感と、デジタルカメラが出す質感とを、その都度選べばよい話です。いま、カメラはデジタルとアナログという分類を超えつつあるな、と思います。どっちを選んでもいい。どっちも撮っておこうぜと。その日の気分で変えてよい。最近はデジタルのほうがよいことは多いですが、フィルムにはフィルムの味があるので、フィルムで撮ってクリーンヒットが決まった時は気持ちがいいですね。たぶん多くの写真家の人もそれに近いことを言うのではないでしょうか。フィルムに異常にこだわる必要も、デジタルにこだわる必要もない。ナチュラルにどちらも選べる状況になってきて、表現の幅は広がったなと思っています。

落合陽一さん
(後編に続く)
(文・&M編集部 久土地亮、写真・矢野拓実)

カッコいいオトナは、自分だけのこだわりを持っています。『&M』は、彼ら、彼女らの「偏愛」について聴きながら、自分らしく生きるためのヒントを見つける、そんなインタビュー企画を始めます。

編集部注:※1
『0才から100才まで学び続けなくてはならない時代を生きる 学ぶ人と育てる人のための教科書』(小学館)

<Information>
メディアアーティスト・落合陽一展覧会「質量への憧憬」

『質量への憧憬』展イメージ

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「僕しか美しいと思わなそうなモノが世の中いっぱいある」
落合陽一が個展で表現する“質量”

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