共感にあらがえ

<05>「共感する自由/共感しない自由」が生み出す残酷さ――格差拡大を防ぐ“自由の制限”は必要か?

テロ・紛争解決活動家の永井陽右さんが「共感」の問題点を考察する当連載。第5回のテーマは、「自由」です。私たちは社会で困難をきわめる人たちに共感して手をさしのべる自由も、そうしない自由も持ち、その選択が格差を生み出す一因となっています。 

そうした問題を生まないためには、共感の有無にかかわらず、誰に対しても基本的人権を認める理性的な姿勢が大切である――。そう説いてきた永井さんは、今回、権利として認められている「自由」と人としての「理性」との兼ね合いをどう考えるべきか、問いを投げかけます。

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「基本的人権」の尊重は世界共通の規範

先日、『矛盾社会序説:その「自由」が世界を縛る』(イーストプレス)の著者、御田寺圭さんと、共感について話をする機会を得た。2時間に及ぶ議論における一つの大きな論点は「自由」についてであった。この社会には様々な問題があり、解決していかなければならない。ただし、問題解決のための行動を個人に強制することはできない。社会にどのような問題があろうとも、それに対して何もしない自由もあるからだ。

本連載ではこれまで4回にわたり、共感が持つ欠点を指摘してきた。社会問題に光を当て、その解決を前進させる力を持つ一方、「共感されやすさ/されにくさ」があらゆる分野で格差を生み、時に分断を招く。そんな両刃の剣である「共感」の対義語は「権利」であると主張し、権利が保障されているかどうかという視座を持ち、その射程を拡大することの重要性を説明した。

全ての人間は生まれながらにして基本的人権を持っている――。それを初めて公に宣言し1948年に国連総会で採択された「世界人権宣言」(とその後採択された国際人権規約)が、現代の「人権」に対する世界的な共通意識と考えていいだろう。

日本国憲法でも基本的人権として、一定の自由が認められている。「人を殺したい」などという法に触れ、公共の福祉に反する行為をしない限り、我々の行動や思想が制約されることはない。だが、その一定の自由があることで顕在化してきている問題もある。私が注目しているのは、この自由が招く排除や分断、格差の問題があるということだ。

自由が生み出す格差を是認すべきか?

国語辞典「大辞林」によれば、差別は「偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること」と定義されている。社会的な文脈では、「本人の努力によってどうすることも出来ない事柄で不利益な扱いをすること」と考えられている。 では、次のような例は差別にあたるだろうか。

例えば個人の好みとして、アフリカ系の人よりも白人のほうが好き、という人がいるとしよう。前者への嫌悪や敵意は表には出さないものの接触機会を減らし、好みである後者と接する機会を増やそうとした場合、これは差別になるのだろうか?

少し問題の設定を広げて考えてみたい。個人によって好みが多様であることは大前提として、一般的な傾向として、外見が整っていない人よりも外見が整っている人に、より多くの好意が向けられると思われる。他にも性格の良さや社会的ステータスなどが好意のファクターに含まれるだろう。逆に、外見が整っておらず、性格も悪く、社会的ステータスも持たない人はあまり好意を持たれない傾向があると言える。

個人の価値観に基づき他者に好意を寄せないことを差別とは一般的には言わない。しかしながら、個人の好みが集合体となったとき、「モテる人/モテない人」などのある種の偏りを生み、まさに不当な扱いをされてしまう側の人が出てきてしまうのは事実ではないだろうか。

その状況を差別的とするのは言いすぎかもしれないが、容姿や頭脳、体力など生まれ持った条件は努力でどうにもならないところは確実にあり、それゆえに他者から好意を持たれない人や機会に恵まれない人もいるだろう。詭弁(きべん)に聞こえるかもしれないが、実際問題、私たちはこうした状況について、どの程度まで「自由がもたらす許容可能な結果の範疇(はんちゅう)」と考えるべきなのだろうか。

自由が生み出す格差や残酷さは誰の責任か

もう一つ例を考えてみたい。真冬にもかかわらず路上で生活を営まざるを得ない人が少なからずいるが、私を含め、多くの人は町中で彼らを見つけたときに、目を背ける。なんだか居心地が悪いというか、気まずさを感じ、そそくさとその場から逃れようとするだろう。問題を感じたとしても、私たちには何かを施す義務もない。なので、彼らを見ていないフリをしても何ら問題にはならない。言い換えれば、私たちには手をさし伸べない自由がある。

あるいは、もし目の前にいる人に手をさし伸べ、その近くにいる同じ境遇にいる人には手をさし伸べないとしたら、これはどう考えるべきなのだろうか。「共感」という気持ちの総量に限らず、金、時間、体力……私たちが持つものはおしなべて有限である。その中から捻出した善意を受け取ることができた人と、そうでない人の違いを私たちはどう認識すればいいのだろうか。

法的義務の強制力が及ばない人々の自由の範疇において様々な問題が起きていたりする。国際人権規約しかり法律しかり、規範の内容には抽象的な面があり、その解釈は時と場合による。けれども、考えや解釈は人それぞれなのに、ある程度の傾向が生まれ、それが問題になりえる。

個人が自由に行動することで生まれる格差やある種の残酷さは、果たして誰の責任なのだろうか? 格差是正に向けた制度的な再分配は常に必要とされており、それは往々にして政府など大きな公組織によって実行される。本能をあるがままに解放してもよい世界だと、それこそ「リバイアサン」の世界(編注:トマス・ホッブズが同名の主著で指摘した、国家や社会ができあがる前の、人同士が際限なく争う無秩序な状態)の世界になってしまうので、どうにか全体で平和、平等、公平な社会に向けて合意形成をしてルールを作ろうとするわけである。

とはいえ、なんでもかんでもルールで規制することも難しいし、国家や国際組織による富の再分配にも限界はある。地道な個人レベルでの合意形成の活動に期待したいところだが、重ねて言うと、私たちは基本的に自由な存在なのである。社会的な正論をただ単にたたきつけてもあまり意味がない。むしろムカつかれ、逆効果になるだろう。

他方、社会的に恵まれていない人々が自分たちの不幸を無視させないために強硬手段でルールを変えようと試みた例も過去の歴史では多数あるが、それが必ずしも良いわけではない。その論理を突き詰めるとテロに行きつくことになりかねないからである。

では、私たちはどのようにして社会的な合意を形成するべきなのか。そもそも形成できるのか。それは個々人の自由とどのような関係性を保つことになるのか。もし形成できないとしたら、何が必要になるのか。本連載は「共感にあらがえ」というタイトルであるが、次回からは具体的にどのようにあらがっていくべきかを検討していく。そしてその取っ掛かりは、「自由」という概念となる。

(筆者写真:ミネシンゴ)

共感にあらがえ

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PROFILE

永井陽右

1991年、神奈川県生まれ。NPO法人アクセプト・インターナショナル代表理事。国連人間居住計画CVE(暴力的過激主義対策)メンター。早稲田大学教育学部複合文化学科卒業、London School of Economics and Political Science紛争研究修士課程修了。テロと紛争の解決に向けて活動中。著書に「ぼくは13歳、任務は自爆テロ。: テロと戦争をなくすために必要なこと」(合同出版)など

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