オトナたちに捧げる、現代インターネットのススメ。

発信者の人格が問われる場に変化したTwitterの光と暗黒面
りょかち×たられば

ょかちさんが、インターネットに詳しい皆さんと一緒に「平成のネット文化」を振り返る企画。2回目のテーマは「Twitter(ツイッター)」です。Twitter Japanによると、日本での月間アクティブユーザー数は4500万超(2018年10月時点)という巨大なSNSへと成長を遂げています。

そのTwitter上の有名人のひとり「たられば」さん@tarareba722が、りょかちさんとTwitterというSNSの特徴や、二人がこれまでどうやって使ってきたかを自由に語ります。今回の対談が初対面のお二人でしたが、お互いの投稿をリツイートし合うなどアカウント同士では旧知の間柄ということで、とてもなごやかなトークに。世代も性別も超えて、アカウント同士で認め合うという、平成のネット文化を象徴するような対談になりました

 

Twitterでは“良い人”でいるほうが絶対に得?

りょかち Twitterが2008年に日本に上陸してから10年以上が経ちましたが、その人気は衰える様子もなく、完全に日本の文化として定着した感があります。それほど受け入れられる理由は何なのか? 日本人の気質や日本語との相性の良さがあるのだろうか? そんな疑問もあって、Twitter有名人のおひとりであり、古典に関するツイートも多い「たられば」さんに、Twitter文化についてお聞きしたいと思っています。まずはお互いのTwitter遍歴を振り返っていければと思いますが、たらればさんはいつからTwitterを使われてますか?

たられば 東日本大震災後の情報収集手段として2011年5月に始めたので、セカンドジェネレーションという感じでしょうか。震災はTwitterが広く普及するきっかけになりましたよね。あのときインフラとしての重要性や、情報発信を通じて誰もが社会の役に立つ可能性のあるツールと認知されたと思います。

りょかち 私は、登録は2011年ですが、皆さんに知ってもらうような活動を始めたのは2015年頃からです。昔からTwitterを使っている人たちから「昔のTwitterは牧歌的だった」とよく聞きますが、たらればさんはTwitterカルチャーの変化をどう感じていますか?

たられば 圧倒的にユーザー数が増えましたよね。2013年頃までは、Twitter発の有名人や出来事、発言がメインメディアで取り上げられるとき、サブカルチャーというかアングラっぽい扱いでしたが、もはやそういう印象もなくなってきています。当時(5年くらい前)、例えばわたしが働いている出版社の人間や新聞社、テレビ局の人たちは、まだどこかで「Webコンテンツ制作者よりも自分たちのほうが偉いんだ」と、わりと本気で思っている人が多かったんですよね。今にして思えば甚だしい勘違いで、お恥ずかしい限りなのですけれども(苦笑)。

りょかち 言われてみれば確かに昔は”ネットカルチャー”はもっとサブカルでしたね。炎上も局地的な出来事として片付けられていましたし。今はだんだんマスメディアに近づいていますよね。炎上すらもわかりやすいエンタメとして消費する空気というか、悪意を込めた投稿に力を注ぐ人たちがいろんないさかいを起こして、それを傍観する人がたくさんいる……そんな構図が広がっているように感じます。

たられば それだけ使う人が増えたということでしょうね。良い人も悪い人も。

りょかち その二つでいうと、たらればさんはものすごく良い人ですよね。

たられば いやー……。あるとき「あれ、Web上では、良い人として振る舞ったほうが得なんじゃないかな……」と思って、それからはある程度作り込むようになりました。例えば著名人が不祥事を起こしたり、救いようのない事件が起きたりしたとき、社会的に批判されている側について、「これ、自分ならもっと強い言葉で手ひどく叩けるよな……」という考えが脳裏をよぎることってありませんか。叩きやすい状況で叩きやすい相手に、より辛辣な批判を浴びせることは社会的な意義があると実感できるし、(ほめることに比べると)わりと簡単で、そういう「厳しい時により厳しい言葉を使うこと」を喜ぶ人は多いですから、つい誘惑(?)に駆られやすい。ただ、ひとたびそういう言葉遣いが得意な“ダークサイド”のキャラクターに染まってしまうと、失うものも多いと思うんです。

りょかち えっ、なんですか、それ?

発信者の人格が問われる場に変化したTwitterの光と暗黒面<br>りょかち×たられば

たられば 「良い人(のように振る舞う)側」、光の側”にいないと届かない言葉があったりコミュニケーションを取れない人たちがいたり、回ってこない情報があったりすると思っていて、いったんダーク側に回ると、そうしたものを手放すことになるんじゃないかって思うんですよね。臆病なだけかもしれないし、単なる向き不向きの問題かもしれませんけれども。

りょかち そうなんですか!? それはきちんと広めましょう! 一時的にフォロワーが増えるからってダークサイドに回る人は少なからずいると思いますので。

たられば 今の時代、「コミュニケーション」と「コンテンツ」と「クリエーター」、それぞれの垣根が低くなっていて、発信者の人格がコミュニケーションやコンテンツの評価に及ぼす影響が、かつてないほど大きくなっているように思います。

例えばクリエーターが自分の作品を発信する場合、その人の人格がやわらかくないと、いくらコンテンツが良くても受け入れられづらくなっている気がするんです。発言と発言者、作品と作者の距離がすごく近くなっている。その空気が広がるほど、ダークサイドにいてはコミュニケーションが取りづらくなる人が増えるし、“良い人”や“コードを踏まえた振る舞いができる人”の価値はどんどん上がっていく……といいなぁと思いながら、できるだけ良い人を演じています(笑)。

りょかち 言われてみれば私も最近は、友人たちが「これは良い」と紹介したものばかり使うようになりましたね。それも彼女たちの性格を知っていて、その価値観を信頼できるからこそ受け入れられるわけだ。SNS上での人格の重要性はどんどん強くなっているように感じます。

たられば おそらく「りょかちさんの本名は知らないけど、りょかちというアカウントは知っている」という人のほうが世の中には圧倒的に多いでしょう。ネット上の人格しか知らない相手とのコミュニケーションも当たり前の時代になりましたし。なにより「他人の人格についての情報」がすごく増えた時代になったなと思います。

りょかち そこには使い分けがあって、「りょかち」では自分が見せたい部分を見せているし、それを受け入れてほしいと思って発信を続けています。一方、本名の自分は、「りょかち」とはキャラクターが違いますが、そのキャラで築いてきた現実の人間関係の中で受け入れられればいいかな、と。

分人主義(※)というか、人間関係ごとのキャラクターの使い分けは、昔から誰もが自然とやっていたことだと思いますが、SNSの普及でキャラを高速に入れ替えることが日常になるにつれて、リアルとネットの人格を意識するようになった気がします。それによって、人格の使い分け方も上達していっている。

※編集部注)作家の平野啓一郎さんが提唱した概念。人間の内面を一つに帰着すると捉える「個人」という概念に対し、人間はもともと分割可能な存在で対人関係ごとに異なった自分があるとする考え方

 

たれらばさんとりょかちさん

たられば りょかちさんの「インカメ越しのネット世界」(幻冬舎)には“本当の自分”といった言葉が何度か出てきましたよね。いくつもの人格を使い分けるからこそ、そうした発想に至ることは理解しますが、私なりの結論としては、“本当の自分”を探すのは諦めたほうが生きやすいんじゃないかなと思いながら読んでいました。

りょかち 本を書いていた当時、“本当の自分”(=リアルの自分)に強い劣等感を持っていたんです。新入社員で仕事は全然できなかったくせに、それとは対照的に「りょかち」というキャラクターが世間から注目され始めていた時期だったので、二つの距離に悩んでいました。盛れている私は「りょかち」で、盛れていないのが本当の自分、みたいな。一方で、キャラが二つあることが救いになっている面もあって、リアルの自分が調子悪くても「りょかち」は調子良いからまあいっか、と。

たられば 生きる上での軸足が増えているということですよね。わたしも職場では中間管理職ですが、上司と話すときと部下と話すときは別人のようにトーンが違いますし、仕事の休憩中に「たられば」としてリプライに返信しているときなども、ああ、これはまた別の自分だな……なんて考えたりします。でもそれは全部「本物の自分」なんだと思うんです。

Twitterでは、リアルでは絶対に言われないレベルの罵詈雑言を浴びせられることもあるじゃないですか。しかも一昨日作ったばかりのアカウントとかに。そういうときにしっかり傷ついている自分がいる。それを乗り越えていくには、「たられば」も今話しているわたしも、どれかひとつが“本当の自分”というわけではなくって、ただ単に人生の中に複数の軸足がある状態と受け止めるのがいい。それが人生の苦しい状況での救いにつながることもあるでしょうし、複数の人格を所有する可能性を広げられることは、テクノロジーの本領発揮だと思います。

デジタルコミュニケーションで抜け落ちがちな“付帯情報”

りょかち 日本は世界的に見てもTwitter人気が高いと言われていますよね。その理由として日本語との相性の良さを指摘する意見がありますが、文章を見るプロで古典にも造詣(ぞうけい)が深いたらればさんはどう見ていますか?

たられば まず、漢字と平仮名とカタカナが使える日本語は、その点で140字しか書けないTwitterに向いていると思っています。例えば「月がきれいだ」という一文、「きれいだ」は「キレイだ」とも「奇麗だ」ともニュアンスが違うし、そのことが受け手にもわかる。私はこれを「(日本語の)“圧縮・解凍”の効率の良さ」と呼んでいますが、日本語は表記の選択肢が多いのと解釈の余地が大きいので、少ないフレーズで多様なニュアンスを表現できるんじゃないかと思っているんです。

りょかちさんは、自撮りを通じて“盛る”ということのハードルを一気に下げましたよね。それに救われた人はたくさんいると思いますが、ビジュアルを盛るのって工夫と訓練の積み重ねじゃないですか。角度を決めたり、照明を気にしたり。それと同じように、テキストも“盛る”ことができるんですよね。時間をかけたり訓練を積めば、うまい具合に自分を装飾できる。日本語の、そういう工夫の余地があれこれあるところが、Twitterのような短い文字量で複雑なコミュニケーションをする場にも向いているのだと思います。

りょかち まあ、その解釈の大きさが時に誤解を招いて、炎上したりするわけですけど(笑)。そういう直接的に書かれていない情報をわかりやすく示したのが絵文字やLINEスタンプだったのかもしれません。「ありがとう」の一言にもいろんな温度感があるわけで、スタンプなどによって送り手の感情が目に見える形になりました。

たられば そこは、デジタルコミュニケーションを考える上で非常に大事な視点ですよね。「伊勢物語」の冒頭に、道行く男性が美しい姉妹を偶然見かけて、とっさに着ている服の裾をビリビリと破いてその布に歌を書いて贈るシーンがあります。服を破るって、ものすごくとっぴな行為に映りますが、紙に書くよりも突発的な思いが伝わるし、渡した生地の質から送り主がどういう身分の人間かもわかります。当時は香りを焚(た)く習慣がありましたから、生地の香りや柄で書いた人の趣味まで伝わるのです。もちろん筆跡や筆圧や文字間のバランスで、教養やセンス、丁寧さなども伝わる。要は、歌の内容以外が全てスタンプの役割を果たしているわけですね。

一方でメールなどのデジタルコミュニケーションでは、このあたりの付帯情報がごっそり抜け落ちている恐れがあります。フォントも文字間隔も送受信の方法もだいたい均一でしょう。だからこそ、記号でも絵文字でもガンガン使ったほうがいい。それで初めて手書きの「ありがとう」と同じくらいの情報量になると思います。

りょかち すごく納得できるお話! それにしてもパッと伊勢物語のエピソードを出せるあたり、やっぱり知識量がスゴいです(笑)。

たられば これはタモリさんがおっしゃっていたんですが、物知りに見られるコツは、知っていることしか話さないことだそうです。隙あらば得意分野へ。ともあれ、それに近い話なんですが、SNSでのコミュニケーションの割合が増えるほど、相対的に紙の書籍の価値が上がる面もある……と思っています。世の中の人がSNSを使えば使うほど、ネットにしかない情報に接触する時間が増え、紙の本にしかない情報に触れる機会が減っていく。その一方で、いまだにWeb化どころか電子化すらされていない書籍はたくさんあって、極端な話、そういう本を例えばある分野だけ集中的に3~5冊くらい読むだけで、「レアな情報にアクセスした人」というポジションになれるんですよね。

りょかち 情報があふれているのに、情報の価値が上がる時代……いや、情報があふれているからこそか。すごく面白いですね。ちなみに私もネットでの情報収集が多いとはいえ、紙の雑誌や新聞での情報収集はこれからも必要だと思っています。そこには出版社や新聞社が提供する情報への信頼感もありますが、それと同時に、ネット上ではどうしてもパーソナライズされた情報ばかりに触れることが多くて、「自分の興味の外」の情報に触れられないのではないか?という不安もあります。やっぱりプロがキュレーションした情報に触れる価値って絶対にあると思うんですよね。書店でセレンディピティを感じて本を買ったらすごくよかった、みたいな。

ネットは人を幸福にした もしなければ「枕草子」好きな人とつながれない

りょかち 最後に、インターネットは個人を、そして社会をどう変えたと思いますか? この質問は今回の特集で対談相手のみなさんに必ず聞こうと思っています。

たられば 全体的に見れば、それはもうめちゃくちゃ幸せにしたと思いますよ。ホンダが製造するバイクの「カブ」は、世界中に普及した移動手段として、人々の住む世界を広げましたが、それでも「革命」とは呼ばれませんでしたよね。しかし、ネットの普及は革命と呼ばれています。製造業が果たしている役割と同等か、ことによるとそれ以上に人々をハッピーにしたのではないかと思います。

苦しまなくてもいい人が苦しまなくて済むようになった機会もあるだろうし、実力がありながら活躍できなかった人が活躍できるような場面も増えていると思います。ネットでの交流がキッカケで結婚した人もたくさんいるし、離婚に踏み切れた人もいて、ひとりでも充分楽しいやと思えた人もいるでしょう。ブラック企業の違法性やDVなども告発しやすくなりました。ネットによって、家族、学校、会社といった特定の人間関係に縛られない、開けた世界にアプローチすることが可能になり、コミュニケーションの幅が広がったことで、非常に多くの人がその恩恵を受けている。もちろんそれに伴うマイナス面もあって個別に不幸なケースが存在するにしても、おそらく社会全体、人類全体で考えれば、プラスの影響のほうがはるかに大きいでしょう。ネットがない時代に、「枕草子」が好きな人とつながるのは大変ですよ。街角に立って頑張って小冊子を配っても、きっと怪しまれて終わりですから(笑)。

発信者の人格が問われる場に変化したTwitterの光と暗黒面<br>りょかち×たられば

(文・&M編集部 下元陽、写真・野呂美帆)

PROFILE

りょかち

1992年生まれ。京都府出身。神戸大学卒。学生時代より、ライターとして各種ウェブメディアで執筆。「自撮ラー」を名乗り、話題になる。新卒で某IT企業に入社し、アプリやWEBサービスの企画開発に従事。現在では、若者やインターネット文化について幅広く執筆するほか、若年層に向けた企業のマーケティング支援も行う。著書に『インカメ越しのネット世界』(幻冬舎)。

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