共感にあらがえ

<06>街中でホームレスを見過ごす行為をどう考えるべきか? 自由と理性のあり方について(永井陽右×御子柴善之)

人々が「共感」を判断基準に行動することの問題点を考えてきた本連載。今回から筆者・永井陽右さんが、自身の問題意識を専門家と語り合う対談篇に移ります。

初回の対談相手は、カント哲学を中心としたドイツ近現代哲学の研究者である御子柴善之さん。永井さんの大学時代の恩師です。

「善意」「尊厳」「人権」などのキーワードから社会問題を考察してきた御子柴さんは、永井さんの「共感ではなく理性を基準に物事を判断すべき」との主張に対し、どう答えるのでしょうか。

人間は頭で理解しても心がついていかないと行動できない

永井陽右×御子柴善之

永井 これまでこの連載では、共感を軸に人々が行動を選択することで、救われる人と救われない人が出てきてしまうことへの問題意識から、「共感」に頼りすぎてしまうことへの疑問について考察してきました。誰にでも共通の人権があり、「この人には共感できないな」と思う相手にもそれを認めて救いの手を差し出す考えを持つべきではないか、と考えています。

しかし、私たちには「共感しない自由」もあります。それを踏まえて、「状況を問わず理性を優先して行動すべきである」という社会的な合意をどう形成するべきなのか、それを考える必要があります。そこで、まずは権利とは何か、自由と義務の関係の本質をどう考えていけばいいのか、その視点を深めるため、学生時代に哲学のゼミ(感性と死の問題の研究)で指導していただいた御子柴先生に、カント哲学の研究者の立場からお話をうかがうことにしました。よろしくお願いします。

御子柴 久しぶりですね。連載を読ませてもらいました。まずは、「権利」という言葉が押さえている内容を確認しておきましょう。

権利の本質は「自由」です。それは「他人にほしいままにされない自由」で、この「他人」には国家も含まれます。それが憲法上で確定されるべき人権だと私は考えています。

ただ、「憲法上」と言ってしまった瞬間に永井さんの問題意識とはズレてしまう。日本国憲法が適用される人は、憲法第10条に書いてあるように国籍条項で決まるわけです。つまり、法が認める人権は国境で立ち止まる仕組みになっている。永井さんが考えたいのは、国境や制度とは無関係に、人間が誰しも持っているはずのもの(=人権)の話ですよね。

永井陽右×御子柴善之

永井 はい。基本的には、その想定でいます。

御子柴 永井さんは社会問題に対峙(たいじ)する際の姿勢として「共感ではなく理性が必要だ」と考えていらっしゃいますが、思想・哲学の世界では200年以上前から「理性こそが重要だ」とされていました。

「理性」とは、平たく言うと「普遍性(全ての物事に共通する事柄)」を求めて推理する能力のことです。その理性のみを重視して物事を判断すると、そこからこぼれ落ちる人が出てきた。例えば、自分の家族や身近な人を助けるロジックが、理性からは出てこないように見えたわけです。

そこで理性のみを重視する姿勢に対する批判が生まれ、「やはり感情/想像力/共感に優位性があるのではないか」となりました。政治哲学の言葉を使うと、「正義を語るだけでは足りない。ケア(相手を思いやり配慮する行為)を語らないといけない」というように考えられるようになったわけです。そうした流れを踏まえると、永井さんの立論は、「現代は物事の判断基準が感情に偏りすぎているので、もう一度理性のほうへ戻すべきではないか」ということですよね?

永井 ケアや共感からは、自分の家族や身近な人、そして自国民ばかりを助けるロジックが生まれがちで、何かしらの支援が必要な人がそこからこぼれ落ち、社会や世界が良くならないのではないかと思うわけです。

永井陽右×御子柴善之

ちょうど今日は3月11日(対談日)ですが、東日本大震災が起きたとき、僕は大学入学の年でした。その時、ソマリアでは飢饉が起きていました。日本中も世界も「東北が大変だ」「助けよう」となっている一方で、ソマリアには同じように向き合う流れにはなっていなかった。その断絶をどう乗り越えるのか。一時期考えていたのは、アイデンティティーを広げて「地球人」として同じ地球に起きている出来事をとらえられないか、ということ。そうすればあらゆる問題を“自分事”に感じて何かできるのではないかと考えました。しかし、そうした共感やイマジネーションには、総量としての限界があるのではないかとも思います。共感できる範囲にも、自分のリソースにも限界がある。ではどうすればいいのか、というのが今の問題意識の出発点の一つでした。

御子柴 コスモポリタニズム(*)で人権を考えるというのは、まっとうな話です。18世紀にそれを考えたのがカントです。1795年にカントが出した『永遠平和のために』という本には、「この地球上のどこかで起きた人権侵害を我々は感じ取ることができる」と書かれています。18世紀ですから、今と違ってほかの場所の情報なんて全然ない時代です。

それにもかかわらず、カントは「人権は普遍的だ。つまり、誰かの人権が侵されているということは、私の人権が侵されているということでもある。だからその痛みを感じ取れる」と言っているわけです。行ったことのない国の見たこともない人であっても、誰かの人権が蹂躙されたとき、我々が人権の名において憤るということは18世紀からある考えで、それは大いに貫くべき観点だと私は思います。

*民族や国家を超越して、世界を一つの共同体とし、すべての人間が平等な立場でこれに所属するものであるという思想。(デジタル大辞泉より)

永井陽右×御子柴善之

永井 それこそが理性の力であり、その力こそがヒトを人間たらしめる本質の一つだとも考えています。地球上にいる全ての人間がコスモポリタニズムを持つにはどうしたらいいのか、という問題意識は、『永遠平和のために』以降には生まれてこなかったんでしょうか。

御子柴 そこはこう考えるべきです。「カントは200年も前にそんなことを書いていてすごい」ではなく、逆であると。『永遠平和のために』から200年たっても、人類はそれを実現してこなかった。そこには、人間とは何者なのかが表現されていると理解すべきでしょう。理性には個別具体的な事例への不十分さ、キメの粗さが存在したため、徐々に否定的に受け止められるようになりました。そして20世紀後半以降、思想的に「ケア」というものが非常に重んじられるようになり、世間でも「共感」が大事にされるようになっていきました。もっとも、理性にも、「それがすべてか」と問い、固定的に考えられた物事を揺り動かす側面があるのですが。

永井陽右×御子柴善之

永井 個別事例に理性をあてはめたときにキメが粗くなるというのは、個別事例に対して理性的なアプローチをしたところで、あまり意味のある解決策になることが少なかった、という意味ですか? それとも共感のようには心がついていかないから、どうしても大したケアができないという意味ですか? 理性に基づいて規定されたルールもしくは合意であれば、それは心がついていこうが、いかなかろうが、それに即して行動するべきだと私は考えます。

御子柴 善悪を理性的に判断できたとしても、それを“自分事”に落とし込めないと、人は動けないものです。倫理学の世界では客観的に道徳的な善悪を判断することを「判定原理」、「これはよいことだからやろう」という主観的な動機を「執行原理」と呼びます。判定原理だけだと「わかっちゃいるけどやめられない」で終わってしまいがちで、執行原理に共感を持ち込むなどすれば、実際に動けるわけです。

つまり、「理性と共感は両方必要です」としか言えません。ただし、理性と共感が共存するとなると、今度はどの場面で理性を使い、どの場面で感性を使うか、それを判断する尺度が必要になる。その尺度はどこにあるかといったら、ない。だから、この問題はあまり容易くなく、まさに理性的に繰り返し問うしかないわけです。

永井陽右×御子柴善之

人を殺す自由とは、自分を殺す自由を認めること

永井 例えば極端な話、「人を殺せば罰せられる」ということは、社会の秩序を保つためにある程度自由を縛っているわけですよね。権利の下に私たちは原則として自由でありますが、制度として自由(感情的な選択・行動)をどの程度認め、どの程度縛るべきか、そこに義務(理性)と自由(共感)の共存を考えるヒントがある気もします。

御子柴 理性から自由をどう見るか、というお話ですよね。先ほどもお話ししたように「理性」とは、普遍的であること求めることを意味します。人がある状況下で抱く感情、例えば自分が属するコミュニティーの中で抱く感情は、そのコミュニティーにおける共通性がベースにあって、誰にでも共通の普遍性ではありません。理性的に「自由」のあり方をどんどん突き詰めていくと、特定の状況下で縛られている感情から“個”(=特殊性)をもぎはなすことになる。

永井 つまり、たとえば人を殺す自由が制限されるのは人類全体にとって普遍性がないから、ということですか?

永井陽右×御子柴善之

御子柴 そうです。誰かに人を殺す自由を認めるということは、自分を殺す自由を認めることになる。「他人を殺す自由は認めてください、でも自分は殺さないでください」というのは、自分を例外にしているから普遍的ではない。これは非常にカント的な思考法です。

永井 たとえばホームレスと呼ばれる方と町中で出会ったとき、目を背けて立ち去ってしまう自由があり、その自由を選択することがまかりとおるのは、それが不正行為と言える普遍性がないから、ということになりますか?

御子柴 人々が忙しい日々を送る中で、例えば出かけた場所の近くにホームレスの方がいたけれど、自分は行かなければならないところがあるからという理由で立ち去る自由が人間にないかといったら、緊急事態のような特殊な場合を除いて考えるなら、また、社会ではなく個人に限定して考えるなら、それは権利の名において認められるべきだと思います。でも、その時その人を動かした執行原理(当該行動の主観的な動機)は何なのか。「面倒なことには巻き込まれたくない」「嫌なものを避けたい」と思ってのことなのかは、またひとつ別の話です。これは権利における自由の問題ではなく、道徳あるいは倫理の問題になる。

永井陽右×御子柴善之

ホームレスの方から目を背けて行ってしまった人を、不正を犯した人だとは言えません。そこまではまず認めるべきだと思います。でも、じゃあ誰もがホームレスから目を背ける社会を我々が望んでいるかと問われたとき、「そうだと思う」とは言えない。なぜなら、少なくとも私たちの目の前に見えるホームレスの方の中には、助けを必要としている人がいるからです。そう認識しながら助けられない社会を我々が望めば、それはまさに普遍性に反する。自分は困ったときに助けてもらいたいと思いながら、誰も助けてくれない社会を望んでいることになるわけですから、これは矛盾です。ですので、権利のレベルで語れることと倫理で語れることに議論を分けて押さえたらいいと思います。

永井 人々の自由な道徳心に任せておくと全然まとまらないから、道徳的なものをルール化(=義務化)すべきなのか、というのもこの連載における問いのひとつでした。

御子柴 「ある人間が他の人間を教育によって道徳的にすることができるか」というのは、非常に古典的な問題です。道徳教育というものがありますが、道徳の名においてまさに「道徳」を「教育する」という形で行われるべきものなのかどうか、私は相当懐疑的です。

道徳教育でどんどん人間の心の中に介入し、「あなたは本当によく生きようとしているのか」と問い詰めていくのは一種の全体主義ですから。それよりはむしろ、文学や哲学書を読んでいろんな思想に出会い、「あなたはどういう考えを持ちますか」と問うべきだと考えます。

永井陽右×御子柴善之

永井 そうした道徳観、倫理観の底上げは、近代以降広がっていったのでしょうか。つまるところ、道徳的に人類は特に成長していないのではないかと感じるのです。たとえそれが人間の本質だとしても、その状態で誰かの人権がなおざりになるのであれば、それはどうにかしてでも変わる、もしくは変える必要があると考えます。

御子柴 世の中全体が、道徳的に悪に向かっているかどうかといえば、悪くなっている部分もあるでしょうが、あながちそうとばかりも言えないだろうと思います。たとえば、私の友人には、今ならハラスメントとして問題になるような出来事も、30年前には問題視されなかった、と指摘してくれた人もいます。同様に、LGBTという言葉で語られる事柄も、かつてはほとんど触れられなかった。より多様な生活形態が生まれ、他人の不正からの自由が制度として実現してきている。そういう意味では、人類が全然進歩していないわけでもないと思います。絶望の物語にからめとられないために、よい点をちゃんと見ていくことは必要だと思います。

永井陽右×御子柴善之

(構成・斎藤岬 撮影・野呂美帆)

■プロフィール
御子柴善之(みこしば・よしゆき)
早稲田大学文学学術院教授。専門は倫理学、カント哲学を中心としたドイツ近現代哲学。カント倫理学をひとつの手がかりとして、現代社会の諸問題と向かい合う。著書に、『自分で考える勇気――カント哲学入門』(岩波書店)、『カント哲学の核心―「プロレゴーメナ」から読み解く』(NHK出版)など。

PROFILE

永井陽右

1991年、神奈川県生まれ。NPO法人アクセプト・インターナショナル代表理事。国連人間居住計画CVE(暴力的過激主義対策)メンター。早稲田大学教育学部複合文化学科卒業、London School of Economics and Political Science紛争研究修士課程修了。テロと紛争の解決に向けて活動中。著書に「ぼくは13歳、任務は自爆テロ。: テロと戦争をなくすために必要なこと」(合同出版)など

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