共感にあらがえ

「感動ポルノの題材にされるのは、いい気はしない」 今求められる“安易な共感”の無効化 (永井陽右×ロバート・キャンベル)

「私自身、“感動ポルノ”の題材にされ、消費されるのは全くいい気がしません」

日本で30年以上暮らす日本文学研究者ロバート・キャンベルさんの言葉です。「感動ポルノ」とは、身体障害者が物事に取り組み奮闘する姿が健常者に感動をもたらすコンテンツとして消費されていることを批判的にとらえた言葉。今や「共感」「感動」を呼ぶストーリーで社会的弱者を受け止めようとする風潮は様々な方面に広がり、珍しいものではなくなっています。

かねて共感への強い問題意識を持つキャンベルさんは、昨年、ブログで自身がゲイであることと同性パートナーと結婚したことを公表し、ハフポスト日本版のネット番組でLGBTに対する共感のあり方についても持論を展開しました。

「共感」が生み出す分断や格差、偏見などの問題とどう向き合うべきか――。紛争解決活動家・永井陽右さんが識者と語り合うシリーズの第二弾は、ロバート・キャンベルさんとの対談です。

「罪を憎んで人を憎まず」のドイツ、「加害者は一生加害者」の日本

「感動ポルノの題材にされるのは、いい気はしない」 今求められる“安易な共感”の無効化 (永井陽右×ロバート・キャンベル)

永井 僕はいま、紛争の続くソマリアなどでテロ組織の投降兵やギャングたちの更生支援をしていますが、更生キャンプを出た彼らを受け入れる社会の側に「元テロリストなんて、頼むから社会に戻さないでくれ」という雰囲気を強く感じます。僕たちが準備したプログラムを受けてもらったとしても、「じゃあ更生したってどう証明できるんだ?」と言われてしまう。

けれども紛争とテロをなくすためには、憎しみの連鎖を断ち切って、彼らを社会復帰させないといけない。その際には、情動的な「共感」だけではなく、どうしてももう少し「理性」を働かせることが必要になる。いまは日本でも「共感」がムーブメントになっているので、「果たして共感だけでいいのか」ということを、この連載で考えていければと思っています。

キャンベル 私はこの国は、「罪を犯した人を受け入れる」ということにかなり後ろ向きの社会なのではないか、と感じています。

「感動ポルノの題材にされるのは、いい気はしない」 今求められる“安易な共感”の無効化 (永井陽右×ロバート・キャンベル)

ベルリン在住の作家・多和田葉子さんとお話しして感じたのが、ドイツでは、罪を犯してしまったとしても「人を憎まず」という感覚が浸透している、ということでした。日常会話でも前科があることを隠しませんし、償った上で、ひとつの属性として社会のなかで受け入れられている。彼女の小説にもそうした文化が描かれています。

一方で日本はというと、去年公開された『友罪』という映画があります。主人公がとある町工場で出会った同僚が、実は過去に大変な罪を犯した人で、それを日常のなかで知る……というお話です。ある女性が劇中で「私はそもそもそういう人がいる場所に、足を踏み入れたことがない」という意味のことを言うんですね。

つまり、日本でも犯罪歴のある人はすぐそばにいるわけですけど、それが全然、可視化されていない。刑期を終えて出所しても、隠れるように生きるしかないわけです。おまけに、そうやって誰かが困っているとしても、なかなか言い出せない雰囲気がある。だからマジョリティーは気付かない。

これは罪を犯した人だけでなく、生活保護受給者やセクシュアルマイノリティーなども同じですね。この国において「共感」の振れ幅が狭いものになってしまっているとしたら、そういう感覚が横たわっているからじゃないかと思います。

永井 「加害者は一生加害者」という感覚は、もしかしたらソマリアと比べても日本のほうが強いかもしれないですね。僕自身、ソマリアへの支援を始めたきっかけとして「過去のいじめ加害経験とその償いの意味がある」ということを公言しています。でもそれがきっかけで「お前、いじめをやってたんじゃないか。なに偉そうなこと言ってんだ」と言われてしまう。会ったこともない人にそのことを強い言葉で指摘される。これは冷静に考えると、独特な社会だと感じます。

「感動ポルノの題材にされるのは、いい気はしない」 今求められる“安易な共感”の無効化 (永井陽右×ロバート・キャンベル)

キャンベル 拭えないシミのようになって、それを持って生き続けないといけないわけですね。加害者と被害者を並べたら、圧倒的に被害者の方に「共感」が向けられる。

日本における死刑制度の存在が象徴的です。私自身は廃止論者なのですが、世論調査などを見ると今も80%近い人たちが死刑を容認している。それは被害者側に感情移入しているからです。制度の有効性を実証するには、死刑を執行したことで被害者側の生活や精神的な状態が良い方向に向かったのかを、きちんと効果測定しなければいけないのですが。

「共感」はできなくても「理解」はできる

永井 僕は法のもとで人権が保障されているのであれば、何事においてもその人のパーソナリティーよりも権利が重視されるべきではないかと思います。しかし実際には、まったく同じ行為、あるいは同じ状況に置かれたとしても、「こいつは気に入らない」という人よりも、「こいつはかわいそうだ」という人が「共感」を集める。そこで「権利は平等ですよね。気に入らない人にも共感してあげましょうよ」と無理強いすることはできない。「共感しない自由」も当然あるわけですから。なので、共感しない自由がある中で、では何をもってその点をカバーするのかという問いが発生します。

キャンベル 感情のあり方までを強要することはできないし、私だって強要されたくありません。嫌いなものは嫌い。私自身、ものすごく凝り固まった思考が色々あると思います。

ただ、共感できなくても、その人が置かれた状況や立場を想像することはできる。そして、その人が社会に溶け込もうとしているのであれば、その権利を邪魔しないことがすごく大事なのだと思います。

「感動ポルノの題材にされるのは、いい気はしない」 今求められる“安易な共感”の無効化 (永井陽右×ロバート・キャンベル)

私はLGBTの権利拡張のために頑張っている人たちとよく話しますし、彼ら彼女らが書くものもたくさん読みます。そして私自身もゲイです。ただ、レズビアンの友達に心から共感しているかと言われれば……おそらくできていません。でも、たとえばレズビアンの家庭で子育てしている人がどれぐらいの不条理に遭っているのか、差別に遭っているのか。その状況全体を「理解」することはできる。多様性を尊重するというのは、「共感はできなくても理解はする」ということに他なりません。

永井 「理解」の話で言うと、実際、投降兵や元テロリストの人たちが社会に戻っていくとき、一番うまくいくのは「彼らも被害者なんだよ」というファクトを積み重ねて、丁寧に説明してあげると、「あぁ、あいつらも被害者だったのか」と理解され、受け入れられやすくなります。

「感動ポルノの題材にされるのは、いい気はしない」 今求められる“安易な共感”の無効化 (永井陽右×ロバート・キャンベル)

もちろん彼らが100%被害者なのかというと、そうとも言い切れないケースもたくさんありますが、実際に一人ひとりに聞くと、脅迫されて加入せざるを得なかったり、子供のころに誘拐されて洗脳されてしまったりだとか、過酷な状況に置かれていた人たちは少なからずいるわけです。

しかし、最も大切なことは、そのような人たちが擁護しようのない純然たる加害者だとしても、彼らの権利は常に意識する、尊重するということだとやはり思います。許せなくても、信用できなくても、保障されている権利は守られなければならない。

「感動ポルノ」は全くいい気がしない

キャンベル イェール大学の心理学の教授、ポール・ブルームさんの『反共感論』でも指摘されていたように、共感――英語でいうempathy――によって近代の戦争・紛争が引き起こされてきたことは歴史的にも明らかです。だから、争いや分断を生まず、多様な社会を創造するには、empathyに頼らずに、ファクトとエビデンスの丁寧な積み上げによって、小さなコミュニティーからでも合意を作っていかないといけないですよね。

でも、そうした議論を展開していく上で、新聞にせよテレビにせよ、発言者の顔が出ていないと、声が届く範囲が限定的になってしまう現実がある。それゆえ、たとえば新聞社の取材を受けて記事が出るとき、手が動いていたり口が開いたりするような、決して美しくないと感じる写真が掲載されてしまいます。それは喜怒哀楽が極に達したように見える写真が読者の「共感」に訴えるから。“入り口”として共感が必要というわけです。

「感動ポルノの題材にされるのは、いい気はしない」 今求められる“安易な共感”の無効化 (永井陽右×ロバート・キャンベル)

ただ、私もテレビ番組に出演するなどメディアに関わる立場の人間として、「障害者や困窮者の人たちに勇気をもらう」という形で共感をいざなう、いわゆる「感動ポルノ」には強い違和感を覚えています。もちろん視聴者であればシャットアウトすればいいだけですが、私の場合は自分が加担しているととられかねない場所にいるので、共感を煽(あお)り、消費するような風潮には抗議し続けなければいけない。

永井 『反共感論』、私も読みました。以前の連載でも書きましたが、社会貢献系のNPOでは寄付金を集めるために、小さな女の子の難民の写真を使ったり、Photoshopでしっかり加工したりして、広報・マーケティング視点で「共感」を集めざるを得なかったりします。

テレビで「ソマリアのことを取り上げましょう」という話があっても、僕らがやっている仕事は“絵”として地味といえば地味なので、「もっと派手にドンパチやってる映像はないんですか」と言われてしまうこともこれまで多々あったのでよくわかります。

「感動ポルノの題材にされるのは、いい気はしない」 今求められる“安易な共感”の無効化 (永井陽右×ロバート・キャンベル)

キャンベル それも共感を引き出すためですよね。ただ、私自身はいくら共感される側とはいえ、感動ポルノの題材として消費されるのは全くいい気がしません。そんなものより、「正直、僕は同性婚って気持ち悪くてよくわからないけど、そういう人がいてもいいんじゃない」などと言われるほうが、よほどうれしいです。自虐的と言われるかもしれませんが、そういう気持ちを持つ人は一定数いるし、相手の立場を理解した上で自然な気持ちを表明しているのだから、感動ポルノよりはるかにリアルですよ。

「感動ポルノの題材にされるのは、いい気はしない」 今求められる“安易な共感”の無効化 (永井陽右×ロバート・キャンベル)

「偏見を逆手に取る」という戦略

永井 「感動ポルノで共感されても、いい気はしない」とお話がありましたが、僕らが社会復帰の支援をしている投降兵やギャングたちも同様の思いを持っているような気がします。僕も自分たちの活動を広げて行く上で、安易な共感に訴えない方法を探っていきたいと改めて思います。

「感動ポルノの題材にされるのは、いい気はしない」 今求められる“安易な共感”の無効化 (永井陽右×ロバート・キャンベル)

キャンベル 「ドラァグ・クイーン」という、男性が女性装をしてパフォーマンスをする文化があります。イギリスではダウン症の人たちがドラァグ・クイーンの劇団を作って、BBCで大きく取り上げられました。

これは感動ポルノのまったく逆バージョンで、ダウン症の人たちへのステレオタイプとして「イノセント」「優しい」というイメージがあるけれど、ドラァグ・クイーンになるとすごい毒々しく見える。そのときに私たちは、今までずっと見ないふりをしてきた彼らのセクシュアリティー(性的指向)について考えざるをえなくなる。つまり彼らの取り組みは、セクシュアリティーを誇張表現することで、逆に人々の偏見を無力化しているわけです。

「感動ポルノの題材にされるのは、いい気はしない」 今求められる“安易な共感”の無効化 (永井陽右×ロバート・キャンベル)

あえて加害者やマジョリティー側の偏見を、自分たちの日常に取り入れ無力化する試みは、「クィア」(セクシュアルマイノリティーの総称)などもそうです。「クィア」は、もともとは男の子なら一番言われたくない蔑称だったのですが、それをゲイ男性たちが耳にタコができるぐらい使うことによって意味の範疇(はんちゅう)を拡大し、さげすみを無力化、フラット化していきました。

永井 偏見を逆手に取っていくわけですね。まさにアフリカ系アメリカ人同士が親しみを込めて「nigga」と呼び合うのと同じように思えます。情動的に共感しにくい点を相対化するナラティブ(語り口)とも言えそうです。

キャンベル いまNHKでも「バリバラ」という、障害者をはじめ様々な生きづらさを抱える人たちのための情報バラエティー番組をやっていて大変素晴らしい出来ですし、話題にもなりましたよね。日本にはびこる「共感」の消費を変えていくには、感動ポルノを無効化するコンテンツを増やしていくことも重要でしょう。この国には、そういった表現を受け入れる土壌がちゃんとあると思います。

(構成・中野慧 撮影・野呂美帆)

PROFILE

永井陽右

1991年、神奈川県生まれ。NPO法人アクセプト・インターナショナル代表理事。国連人間居住計画CVE(暴力的過激主義対策)メンター。早稲田大学教育学部複合文化学科卒業、London School of Economics and Political Science紛争研究修士課程修了。テロと紛争の解決に向けて活動中。著書に「ぼくは13歳、任務は自爆テロ。: テロと戦争をなくすために必要なこと」(合同出版)など

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