共感にあらがえ

<08>共感での連帯は危険! わかり合えなくても協働できる人間関係の考え方(内田樹×永井陽右)

紛争・テロ解決活動家・永井陽右さんが、「共感」の問題点を識者と語り合うシリーズの第三弾。今回のお相手は思想家・内田樹さんです。

内田さんは今年1月、朝日新聞のインタビューで、月刊誌「新潮45」の休刊問題や、東京五輪、大阪万博などの運営方針に触れ、「(現代社会は)共感が暴走している」と指摘。理解も共感もできない人同士が社会で共生するためには、他者に敬意を持つ姿勢が必要と説きます。

今回の対談も、「共感」をテーマに、他者との距離感の考え方、関係性の築き方へと話が広がりました。

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道徳のベースとなる「惻隠の心」

<08>共感での連帯は危険! わかり合えなくても協働できる人間関係の考え方(内田樹×永井陽右)

 永井 今の日本社会では「共感」が非常にもてはやされていて、僕はその状況に違和感を感じています。小さな子どもが困っていれば多くの人が共感を寄せるけれど、例えばそれが元テロリストの成人男性や、街中にいるホームレスの人だったら、共感して手を差し伸べようという人は少ない。

僕は、情動的に共感できようができまいが、すべての人が持っている「権利」を理性的に尊重することが重要なのではないかと、この連載で書いてきました。しかしながら、すべての人には権利の下に「共感しない自由」もあります。そこをどう考えればいいのかを掘り下げていけたらと考えています。

内田 お話を聞く限り、永井さんは物事を原理的に捉えて、問題解決の糸口を見いだそうとしているように感じます。若い人だから、そうなって当然だと思いますけれども、年を取るとわかるのは、世の中のむずかしい問題は原理的には解決できないものが多いということです。

原理から導き出される結論は極端なものになりがちです。地球上の70億人全員を平等に支援することはできません。かといって、「自分が理解、共感できる人しか助けない」というのもまた不人情ですよね。現実には、この両極の間のどこかに実践可能な解がある。理解や共感の個人的な限界を超えて、どこまで支援の手を伸ばすことができるかというのは、「すべての人を救うべきだ」と「共感できる人だけ救うべきだ」の中間の「程度」の問題なんです。

<08>共感での連帯は危険! わかり合えなくても協働できる人間関係の考え方(内田樹×永井陽右)

僕たちは、ひとりひとり手持ちのリソースが違います。お金も、時間も、社会的能力も、人脈も、その他もろもろ。価値観や感情の器も異なります。その与えられた条件の下で、それぞれがベストを尽くすしかない。それによって、震災の被災者支援に福島に行く人もいれば、永井さんのように元少年兵や元海賊を支援するためにソマリアに行く人もいる。適材適所です。そこに一律なルールは適用できません。自分がやれることをやる以外にない。

永井 その個々人の自由な選択の延長に、もしくは適材適所が広がった果てに、恵まれない状況に置かれる人が出てくることに問題を感じています。身近な例として、学校の休み時間に生徒たちが自由な意思に基づいて行動した結果、ぽつんと独りぼっちになった子供がいるとしますよね。これは誰の責任とも言えないけれど、その子がその状況に何かしらの苦しさを感じているのであれば、それは問題だと僕は思います。

内田 その状況をどう捉えるかも、その状況に立ち会った個人の感情の器の大きさによるんじゃないですか? 放っておこうと思う人もいれば、可哀想だと思う人もいる。そのとき、自分ならこの子を支援できるんじゃないかと思った人が、「一緒に遊ぼう」と話しかける。大切なのは、それが計算に基づく行為ではなく、無意識の行動であることです。「何となくそうした」というのが大切なんです。「こういう場合には『一緒に遊ぼうよ』と声をかけるのが人道的に正しいから」というような英知的な判断を下した上ですることじゃないんです。それが人倫の基本になる「惻隠(そくいん)の心」というものだと思います。

<08>共感での連帯は危険! わかり合えなくても協働できる人間関係の考え方(内田樹×永井陽右)

孟子の言う「惻隠の心」とは、小さな子どもが井戸に落ちそうになっているのを見たら、何も考えずに本能的に手を差し伸べる、人間の自然な情のことです。子どもを助ければ、子どもの親からあとで感謝されるだろうとか、子どもを助けなければ、周りの人たちから「不人情」とののしられるだろうとか、そういう計算抜きで、思わず助けに走るのが「惻隠の心」です。

でも、こういう自然な行為ができるためには、それでもいくつかの条件があると思います。一つは、自分が支援しようとしている相手が、自分から見て弱者であること。もう一つは自分の力の範囲内で救うことができると確信できること。この二つです。

永井 「共感」と、内田先生のおっしゃる「惻隠の心」は違うものなのでしょうか。

内田 どうなんでしょう。助けに走った人は井戸に落ちて溺れる子どもの苦しみに、一瞬のうちに想像的に同調したわけです。「共苦」の経験と言ってもいい。それが感じられないと、「助けなければ」ということさえたぶん思いつかない。

「共感」というのは多義的な言葉ですが、僕は人それぞれ感情の受信器のようなものがあって、他者の発信するメッセージが受信できたら、それを「共感」と呼んだらいいんじゃないかなと思います。それくらい広い意味でいいと思う。「助けて」というメッセージを受信できない人もいるし、受信できる人もいる。

おそらく永井さんの目には、元テロリストの男性が「弱い人」に映っていて、かつ「自分にはその人を救う力がある」という実感があるんだと思います。それができるのは、永井さんの持つ感情の器が大きいからです。感情の器の大きさは生得的な資質です。もともと感情の器の小さい人に「大きくしろ」と言っても、難しい。背の低い人に「背を伸ばせ」と言っているようなものですから。

<08>共感での連帯は危険! わかり合えなくても協働できる人間関係の考え方(内田樹×永井陽右)

道徳は学校で学ぶものではない

永井 この連載で以前、道ばたで苦しそうなホームレスの人を見たとき、手をさしのべたほうがよいと思いつつスルーしてしまうことをどう考えるべきか、と問題提起したことがありました。これを感情の器の大きさの問題と考えると、支援できずに立ち去る自分を責める必要はない、ということになりますよね。頭では理解できますが、自分の目の前でどうにかされるべき問題が放置され続けることには強い葛藤を覚える自分もいて……どう考えるべきなのだろうかと素直に思います。

内田 もしもホームレスの人を見て、同情する気持ちはあるんだけれど、どうしても体が自然に動かないという場合には、「規範を外付けする」という手立てがあります。例えば、クリスチャンになったり、マルクス主義者になったりする。そうやって、倫理やイデオロギーを外側から装着すると、「困窮している人はためらわず救わねばならない」ということが内発的な気分として湧いてこなくても、外形的な規範がそうすることを命じてくれる。だから、手を差し伸べることが「自然」にできる。

ただ、そういう「外付けされた惻隠の心」にはいろいろと無理があるんです。キリスト教はもともと弱者への愛から始まった宗教ですが、「神の名において」多くの人を殺してしまった。マルクス主義も弱者に対する愛や不正に対する怒りから始まった政治思想ですけれど、「マルクス主義の名において」これまでにたくさんの人が殺された。外付けされた「強い惻隠の心」は善意に基づくものであるがゆえに、ブレーキが利かない、だから、いったん暴走し始めると、制御できない。それよりは、個人的な動機で、内発的な必然性があって、じわじわと湧き出す「弱い惻隠の心」の方が、トータルでは世界に及ぼす被害は少ないんじゃないかと僕は思っています。

永井 より普遍性の高い「外付けの惻隠の心」であれば、そうした問題も発生しない気がします。例えば、宗教やイデオロギーに比べれば、「人権」は普遍的なものですし、全人類に人権教育を行っていくようなことも必要なのではないかと思うのですが。

内田 人権教育ね……永井さんが言う「教育」というのは学校教育を想定されていると思いますが、僕は人権というような概念は学校で教科として教えられるものではないような気がします。人の生き方や道徳は他人が教えるものではなく、自ら学び取るものだからです。ほとんどの人は育った環境において支配的な行動規範に従います。例えば、「家風」の影響はほんとうに大きいです。それはこの年になるとしみじみ感じます。子どもの頃に身近にいた人の立ち居ふるまいやふと口にした言葉から僕たちは深く影響される。ですから、もし自分の「家風」が気に入らないから、そこから離脱しようと望むとしたら、家風をリセットする必要がある。師匠につくとか、親分に従うとか、影響力の強い友人と行動を共にするとかして、別の「刷り込み」をする必要がある。

だから、「道徳」の教科化はナンセンスだと思います。教師自身がきわだって道徳的な人で、その日常の所作からおのずと「道徳的に生きるとはどういうことか」がにじみ出て、子どもたちを感化するのであればともかく、教師自身が特に道徳的な人ではないという場合には、道徳なんか教えようがないでしょう。

<08>共感での連帯は危険! わかり合えなくても協働できる人間関係の考え方(内田樹×永井陽右)

永井 この連載で最初に対談させていただいたカント倫理学の御子柴善之先生も、道徳教育に懐疑的な立場を取られていました。そしていかなる教育も自発的でなければ大きな効果はないということは私も同意しています。

内田 永井さんが取り組まれているようなきわめて困難の多い取り組みは、個人ではなく集団であたるべきことです。そのためには、集団としてのパフォーマンスはどうやったら向上するかを優先的に考えなければならない。例えば集団の中に「人間はかくあるべき」という条件を高めに設定して、それをクリアできない人間を欠格者として排除するような人がいたら、その人は個人的には道徳的に立派な人かもしれないけれど、集団が道徳的に機能することを妨げている。

ときどき「中途半端なことならしないほうがましだ」というような潔癖なことを言う人がいますけれど、僕たちができることは、多かれ少なかれ中途半端なんです。「人権を尊重する」ということにしても、このレベルをクリアできないならそれは「人権を尊重しているとは言えない」というようなハードルを設定することに僕は同意できません。

人ができることはひとりひとり違う。器が違うんですから、規格化してはいけない。どうやったら、できるだけ多くの人に自分が達成しようとしている集団的な事業に関与してもらうか、それを考えればいい。条件を設けて、選別したり排除したりすべきではない。

<08>共感での連帯は危険! わかり合えなくても協働できる人間関係の考え方(内田樹×永井陽右)

合意形成は舌打ちとともに終わる

永井 では、社会全体の道徳の底上げや、社会課題の解決に向けて集団としてパフォーマンスを高めていくために、何が必要となるのでしょうか。

内田 普通にしていればいいんですよ。おそらく永井さんがソマリアに行って活動していると、同じように途上国支援に乗り出す若者が後に続いていきます。最初に誰かがやると、「あ、こういうことをやってもいいんだ」「こういうことができるんだ」と思えるから。誰もやらないと、それは「やってはいけないこと」「やろうとしてもできないこと」だと何となく思ってしまう。永井さんの活動によって、ソマリアに行って人道支援をすることは「日本人の若者でもやっていいこと」として社会的に認知されるわけで、そういうふうに道を切り開くことは、それだけでたいした達成だと思います。

<08>共感での連帯は危険! わかり合えなくても協働できる人間関係の考え方(内田樹×永井陽右)

個人としてできることにはおのずと限界があります。だから、どうすれば一人でも多くの人が進んで、自分の意思で、この事業に参加してくれるようになるかを考える。そして、人をひきつける一番強い力は「機嫌よくやっている」ことです。どんな困難な事業であっても、当事者が機嫌よくニコニコやっていると、人々はそれにひきつけられる。逆に、どんな立派な事業でも、暗い顔で、不機嫌に実践していたら、広がりは持てない。

あと一つお願いは、永井さんの場合は命を大事にすることですね。とにかく長生きすること。長生きして、自分の事業に加わってくる人にミッションをつないでゆく。長生きするのって、けっこう大事な仕事ですよ。

永井 集団としてのパフォーマンスを高めるために「共感」が活用できるのかどうかも気になります。というのも、昨今は社会性の高い取り組みで共感が使われがちだからです。この点はどうお考えですか?

内田 僕は「共感」という言葉は使い方次第では危険な言葉だと思います。僕の友人が大学で「誰にも言えない私の秘密」というテーマで学生に匿名でアンケートを取ったところ、100人中15人くらいが、「今付き合っている友達が嫌い」と回答したそうです。

ふだんはべったりとつるんでいて、あらゆることについて共感し合っているような「ふりをする」ことを今の日本の学生たちは強要されている。「演技的な共感」が強制されている。どんな話題でも、「そうそうそう」とうなずき合って、ハイタッチをするような人間関係に、実際は当事者たちも疲れているんだと思います。

今の若い人たちは「理解も共感も絶した他者とでも、共同的に活動して、『よきもの』を創造することは可能だ」ということをたぶん知らないんだと思います。誰からもそんなこと教わったことがないから。だから、何か集団的に行うときには100%の共感と理解が前提になければならないと思い込んでいる。でも、そんなこと、あり得るはずがないじゃないですか! 

共感よりも重要なのは「こういうルールでやりましょう」という外形的なコントラクト(契約)を取り決めて、きちんと守ることです。たいへんな仕事みたいだけれど、約束しちゃった以上守らないと……という考えをする方が関係としてはずっと健全だと思います。「共感」とか「理解」は、協動する上の絶対条件じゃないんです。

結婚だってそうですよ。結婚が万全の共感と理解の上に築かれるべきだということになったら、一度行き違いがあって「気持ちが通じない」と思ったら、すぐに離婚しなければいけなくなる。そんなことできるはずがないじゃないですか! 僕は、夫婦間で取り決めた約束を守ることは配偶者に求めますが、妻に「全面的な共感」なんて求めてませんよ。僕みたいな変な男のことを「理解してくれ」なんて、申し訳ないですもの(笑)。

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永井 そのコントラクトをどう作るかが問題ですよね。僕はもともと、集団内で合意形成をしていくにあたって、「共感」を軸に結びつくのは不可能だと思っています。誰にも「共感しない自由」があるからです。ならば法や行政の枠組みでルールを作って、皆がそれに沿って行動するしかないと考えていました。しかし、法というものはあくまで最低限度の規範ですから、それらで全ての社会問題をカバーできるわけでもなく、我々市民レベルでの合意形成が必要になってくる。それをうまく進められる鍵がどこにあるのか、ずっと考え続けています。

内田 そもそも合意形成という言葉の理解がちょっとずれているような気がします。合意形成というのを、みんなが満足し、みんなが納得するような結論に到達することだと定義していたら、そんなものが成り立つはずがありません。人の意見は全員が違って当たり前なんです。その正否を同じレベルで言い合っても、対立するしかない。

合意形成というのは実践的には「みんなが同じくらいに不満足な解を出す」ということなんです。正否とはレベルが違う。「不満足の度合いをそろえる」という、きわめて計量的で散文的な手続きなんです。

「大岡裁き」に「三方一両損」という話がありますけれど、あれが合意形成です。二人が対立しているとして、そこに第三者が出てきて、二人に譲歩を求める調停案を提示する。そのときに、その調停者も同じだけの損害を引き受けなければいけない。「損をかぶる必要がない人が損をかぶる」ことで初めて対立しているものたちが「いったい自分たちは何のために、これほど争っているのか……」と我に返るからです。Win-Winという言葉は、誰が作ったのかはわからないけれど、そんなことはありえないんです。話がまとまるのは、“Lose-Lose-Lose”なんです。三者が必要なんです。合意形成のための条件は二つあって、一つは「三人がみんな同じように不満足な解」であること。もう一つは「調停者は、損をする必要がないのに、当事者たちと同じくらいの損をかぶること」です。だから、よくできた合意形成というのは、全員の舌打ちとともに終わるわけです。

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人が強くなれる瞬間とは

永井 今までのお話を整理すると、まず、個人の道徳の基礎となるものとしての「惻隠の心」の存在や働きを理解した上で、それを理性的な社会を実現するための足場として、そこに議論を積み上げていくことが重要である、ということをおっしゃっていると感じました。

内田 自分の身内だけにしか連帯感を持てない状態から、だんだんと自分が「同胞」だと感じられるカテゴリーを広げてゆく。そういうことだと思います。一気に世界中の人に対して同胞愛を持つことなんか無理なんです。無理だけれど、やっぱりそれに向かってじわじわと進んでゆく。自分の代で達成できなかったら、次世代に任せようということでいいと思います。

永井 社会を前進させるにあたって、「万人に高い水準で同じ器の大きさになることを求めず、大きさの違いを個性と捉えた上で、社会全体でパワーアップを図っていけばいい」という考え方は、ある意味で救いがありますし、自分にとってはとても新鮮です。

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内田 やっぱり何事も一人でやっているだけでは無力感に打ちひしがれてしまいます。暗闇の中たった一人で敵陣に向かって銃を撃っているときに、遠くの方で他の誰かが自分と同じように敵陣に撃ち込んでいる音が聞こえたら、それだけで戦い続ける元気が出てくる。それは共感でもなければ、リアルなネットワークでもない。それぞれが自分の考えで、自分のルールで動いているだけです。それでも、「あそこでも誰かが頑張っている」と知るだけで、人間ってずいぶん強くなれるんですよね。

永井 僕は理性的にルールを決めてそれを守っていくことが、人間や社会が強くなることだと考えがちなので、つい「人間としての責任を果たさないと」というようなことを語ってしまうのですが、もしかしたら肩ひじ張りすぎなのかもしれませんね。

内田 あまり立派なことを言うと仲間を減らしかねないから、なるべく語らないほうがいいですね(笑)。大学で40年教えてきた中で、学生が突然知性的に“開花”する瞬間を何度か目にしました。ただ、それが僕のどのようなアクションがトリガーになっていたかはわからない。もしかしたら、他の先生や、他の友だちの一言がトリガーになったのかも知れない。そういうことは、分からないんです。でも、そういう驚きを何度か経験しているうちに、人の成長を促したり、ポテンシャルを引き出したりするということは、こちらが思い通りに計画したり、コントロールできたりするものではないということが分かってきた。そういうものなんですよ。

自分ができることを自分はしていればいい。それがどこかで誰かにとって大きく人生が変わるきっかけになるかもしれない。ならないかもしれない。なっても分からない。それでいいと思います。だから、永井さんも、自分が周りをどうにか変えなくちゃ……と気負う必要はなく、もっと気楽に構えていていいと思いますよ。

(構成/中野慧 撮影/野呂美帆)

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PROFILE

永井陽右

1991年、神奈川県生まれ。NPO法人アクセプト・インターナショナル代表理事。国連人間居住計画CVE(暴力的過激主義対策)メンター。早稲田大学教育学部複合文化学科卒業、London School of Economics and Political Science紛争研究修士課程修了。テロと紛争の解決に向けて活動中。著書に「ぼくは13歳、任務は自爆テロ。: テロと戦争をなくすために必要なこと」(合同出版)など

<07>「感動ポルノの題材にされるのは、いい気はしない」 今求められる“安易な共感”の無効化 (永井陽右×ロバート・キャンベル)

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