インタビュー

平野啓一郎「等身大のつまらない人間には誰も共感しない」 芥川賞作家が問うこの時代の「カッコいい」のあり方

「カッコいい」とは何か――。「日蝕」「マチネの終わりに」などで知られる小説家・平野啓一郎さんの新著は何ともストレートなタイトルだ。本書は「カッコいい」という概念が誕生した背景をたどった450ページを超える大作。今の時代に「カッコいい」を論じる意義を平野さんに聞いた。

辰吉丈一郎は「カッコいいのか?」問題

ある夜、男2人がバーで軽い口論を始めた。2人はボクサー辰吉丈一郎の評価を巡って言い争っている。よくある光景だ、と思いながらバーテンダーはその様子を見守っていた。

「何度引退勧告を受けても現役を続ける辰吉こそ、男の中の男だ」

「いや、いくら不満があっても、日本ボクシング・コミッション(JBC)のルールに従わないのは間違っている。散り際を考えず、無様な姿をさらし続けるのもいかがなものか」

1993年に「網膜剝離(はくり)」が発覚し、JBCの規定で、国内で試合ができなくなった辰吉丈一郎。今も語り継がれる薬師寺保栄との一戦(94年)は、JBCが「特例」として認めたもので、ここが引き際と考えていたファンも多い。だが、その後もJBCからの引退勧告を退け、辰吉は現役を続行した。その生き様はカッコいいのか、カッコ悪いのか――。

2人の言い争いはどんどんヒートアップし、ついには今にも殴りかからんばかりの大ゲンカへと発展。見るに見かねたバーテンダーが止めに入った。

「この出来事はずっと記憶に残っていました。2人がなぜあれほど熱くなったのか。とても不思議でしたが、後から気づきました。『カッコいい』は、大のオトナが本気でケンカするくらい、個人のアイデンティティーに根ざした大切な価値観なのだと。それ以来、この概念を強く意識するようになりました」

平野さんは新著の着想についてこう振り返る。そう、このバーテンダーは学生時代の平野さんである。

「カッコいい」を批評した本が全然ない!

“辰吉事件”から20余年、平野さんは長年温めていたテーマを一気にまとめた。「カッコいい」の語源や変遷の検証に始まり、18世紀以降の西洋美術における価値基準の変化や、「クール」「ヒップ」「ダンディー」「粋」といった美学や規範からの影響なども考察。新書にして450ページを超える大作が完成した。

それにしても、なぜ今「カッコいい」を論じる必要があったのか。

「そもそも『カッコいい』をきちんと批評した本が全然見当たらなかったんです。この言葉は1960年代に定着しましたが、当時は一時的な流行語と思われていた節があるし、今でもどこかチャラチャラした軽い印象がある。だから、まともに論じる対象と見なされなかったのでしょう。

けれども『カッコいい』は、音楽、ファッション、プロダクトデザインなど、とりわけ20世紀後半以降の日本の文化に大きな影響を与えてきた重要な概念です。それにもかかわらず、その視点が抜け落ちているため浅い議論にとどまっている問題が散見します。そうした現状を踏まえて、一度『カッコいい』について整理しておきたかった」

平野啓一郎さんのインタビューカット

似て非なる「カッコいい」と「共感」

「カッコいい」とは何か――。この問いには各人各様の答えがあるだろう。平野さんが示した定義はおおむね次の通りだ。

未知あるいは非日常の物事に接したときにもよおす「しびれる」「鳥肌が立つ」などの生理的興奮を発端として、「この人のようになりたい」「それを身につけたい」などと興奮した対象への同化、模倣の願望をいざなう感情――。

つまり、「カッコいい」は物事の良しあしを体感で決めるところにその特徴がある。

「カッコいい」の語源は「恰好が良い」とされるが、本書は「恰好が良い/悪い」が「定められた基準に適合している/していない」の意味で使われていた言葉であることから、60年代に急速に広まった「カッコいい」とはニュアンスが異なることを指摘し、時代の流れとともに物事の良しあしを測る基準が変化したことを明らかにする。

また、ジャズやロックをはじめ、欧米発の「カッコいい」カルチャーが日本でも受容され始めた60年代、「カッコいい」は若者たちの「自分探し」の原動力となり、20世紀後半の消費や動員に多大な力を発揮し、ビジネスシーンに大きな影響を与えたことも強調する。

こうした経緯を見て、ふと思う。個人の行動基準や消費、動員に大きな影響を与えている概念といえば、最近はもっぱら「共感」だ。かつての「カッコいい」に匹敵する力を持つものが、今は「共感」なのだろうか? 平野さんは首を横に振る。

「共感も必要ですが、それだけでは不十分です。小説を例に説明しますが、たとえば僕の『マチネの終わりに』という作品は、主人公がクラシック・ギタリスト、ヒロインは通信社に勤めるジャーナリストで、2人とも、少々、浮世離れしています。最近の『共感が大事』みたいな文脈に乗っている人たちからすると、『もっと等身大の登場人物にしたほうがいい』という発想になるでしょう。でも、読者は、『憧れる人の中にも自分と近い感覚がある』ということを発見したときに感動するのであって、等身大のつまらない人には共感しないんです」

平野啓一郎さんのインタビューカット

「『カッコいい』とは、憧れの存在でありながら、ものすごく共感できる部分を併せ持つ人に対して抱く感情です。その共感できる部分が、『自分もそうなりたい』『もっと知りたい』と対象に近づこうとする気持ちを引き出す。つまり、『カッコいい』は一度そう思った対象のリピーターになります。

これが完全に等身大だと『わかる』で終わってしまって、そこからポジティブなアクションが生まれません。事後にポジティブな時間の使い方が生まれるような共感が大事なのであって、その視点を欠いたまま『共感が何より重要』とする言説はフォーカスが甘いと言わざるをえない。問題は誰に共感するか。どうせなら自分より高い存在にしないと」

ナチスの軍服は「カッコいい」と言っていいのか?

平野さんは「カッコいい」という視点を用いて考察すべきこととして、こんな例も挙げた。ナチスドイツの軍服は「カッコいい」と言っていいのか否か、という問題だ。

2016年、アイドルグループ「欅坂46」がナチスドイツを想起させる衣装を着用したことが国内外で波紋を呼び、ユダヤ系人権団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」が抗議声明を発表、海外メディアも批判的に報じたことは記憶に新しい。

国際的なファッションデザイナー、ヒューゴ・ボスがデザインしたその軍服を見て、直感的に「カッコいい」と感じることは誰にでも起こりうる。その一方で、軍服の背景にはユダヤ人を大量虐殺した負の歴史が存在する。その二つの要素のみを並べて、「服に罪はある/ない」といった二者択一の議論が至るところで展開されていることに平野さんは疑問を抱いていた。

「軍服にせよ、『意志の勝利』(ナチ党大会を記録したドキュメンタリー映画)にせよ、ナチスが『カッコいい』を意図的に利用していたことは明らかで、いまだに影響力がある。この軍服を褒めることは悪用された『カッコいい』を認めることにもなります。それを踏まえず、『服に罪はあるか、ないか』などと問うのは、議論として粗雑すぎます。

僕は、『カッコいい』という概念は、真善美(認識上の真、倫理上の善、審美上の美)の一体性が理想とされているのではと思います。だからこそ、『カッコいい』は悪用可能な概念として常に批判的な視線を向けるべきものとも思います」

平野啓一郎さんのインタビューカット

悪用以外にも、「カッコいい」対象が負の側面を持つケースはある。たとえば、バロック絵画を代表する画家カラヴァッジオが殺人を犯していることや、多くの人を感動させた作品の作り手たちのセクハラが明るみに出た「#MeToo」など。「表層と本質」「外見と中身」「作者と作品」は果たして切り離せるのか否か――。

「カラヴァッジオにしたって、作品が素晴らしいことは否定しようもありません。むしろ、これほどの素晴らしい絵を描く人が人を殺しているという事実をどう受け止め、議論していくかが重要です。

それを踏まえ、これまでに起きた『カッコいい』が絡む問題については、発生当時の社会の仕組み、問題の程度、被害者が存命かどうか、謝罪の有無、時間の経過などの観点から、個別に扱い方を考えていくべきではないでしょうか。その積み重ねが社会的な線引きとして定着していくのではないかと思います」

「カッコいい」「カッコ悪い」の見分け方

平野さんが定義する「カッコいい」とは、意図せずもよおした生理的興奮に対する事後的な解釈の一つに過ぎない。心理学の世界には恐怖心を恋愛感情と混同してしまう「つり橋理論」という有名な学説があるが、それと同様に、恐怖や不安が引き起こした生理的反応を「カッコいい」と誤解することは誰にもあり得る。

また、先に挙げた「作者と作品を切り離せるか」問題のように、社会的な状況を踏まえて「カッコいい」と言うことがはばかられたり、容姿はしびれるほどカッコいいのに生き様がダサい人を見て複雑な気持ちになったりすることもあるだろう。

つまり私たちは常に堂々と「カッコいい」と言えるものばかりに触れているわけではなく、むしろその判断に迷うことのほうが多いように思える。そんな不安定な概念だからこそ、ケースごとに自分なりの基準で「カッコいい/悪い」を判断していくしかない。

平野啓一郎さんのインタビューカット

「僕の場合は、『カッコいい』の判断基準として、名言の有無に注目しています。やはりカッコいい人は強い言葉を残している。ル・コルビュジエの『住宅は住むための機械である』とか。斬新な名言の多くは、心のどこかで思っていながら言語化できなかったことや、リスクを恐れて口にしなかったことをずばり言い当ててくれるので、共感できるし、しびれる。また、ライブで音楽やアーティストのパフォーマンスにしびれているときほど歌詞が染みこんでくるように、強烈な体験と言葉がセットになると、その世界により深く入り込んでいくことができる。

逆に輝かしいパフォーマンスや成績を残しているのに、発言がダサかったり、しびれるような言葉がなかったりする人は、カッコいい人になりきれない。やはり言葉はすごく大事だと思います」

平野さんはさらに、「カッコいい」とうまく付き合うために、「分人」という概念を用いることを勧める。「分人」とは、場所や人間関係に応じて現れる様々な「人格」「キャラクター」のことで、その集合体を一人の人間とする考え方だ。ここでは、分人=それぞれのキャラクターが持つ「価値観」や「『カッコいい』の種類」と考えても差し支えない。

「たとえばジャズ好きがパンクも好きなんて言おうものなら、『裏切りもの』とか『あいつは本物じゃない』とか、かつてはののしられたものですが(笑)、何に対してしびれるような生理的興奮を感じるかは本人にだってわからないし、はたから見ると矛盾しているような価値観を同時に持つことができるのが人間です。

重要なのは、人には複数の分人があることを前提に、どういう分人の構成、比率で生きていくかを考えること。『オレのカッコよさはこれだ』などと一つの価値観で自分を縛ろうとすると人生が窮屈になるので、そのときどきで心地良いと思う分人(=カッコいい)の比率を大きくしていくのが望ましいのではないでしょうか。それと同時に、自分が今重視している『カッコいい』は、真善美を体現しているのだろうかと批判的な視線を絶えず注ぐことが、バランスの取れた『カッコいい』との付き合い方だと思います」

インタビュー終盤、「この話題は必ず盛り上がるんですよ」と平野さんは笑っていた。人の数だけ「カッコいい」論は存在し、そこには「普通」なんて存在しない。だからこそこのテーマは面白い。

(文/&M編集部 下元陽 撮影/小島マサヒロ)

平野啓一郎さんのインタビューカット

平野啓一郎

1975年愛知県蒲郡市生。北九州市出身。小説家。京都大学法学部卒。1999年在学中に文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により第120回芥川賞を受賞。以後、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。2004年には、文化庁の「文化交流使」として一年間、パリに滞在。著書に、小説『葬送』『滴り落ちる時計たちの波紋』『決壊』(芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞)『ドーン』(ドゥマゴ文学賞受賞)『かたちだけの愛』『空白を満たしなさい』『透明な迷宮』『マチネの終わりに』(渡辺淳一文学賞受賞)『ある男』(読売文学賞受賞)、エッセー・対談集に『私とは何か 「個人」から「分人」へ』『「生命力」の行方~変わりゆく世界と分人主義』『考える葦』『「カッコいい」とは何か』などがある。

書籍情報

平野啓一郎「等身大のつまらない人間には誰も共感しない」 芥川賞作家が問うこの時代の「カッコいい」のあり方

「カッコいい」とは何か (講談社現代新書)

講談社/平野 啓一郎/1080円(税込み)

著者が小説を除いてこの10年でもっとも書きたかったテーマという「カッコいい」について、その語源から、幅広いジャンルの現代文化への波及までを考察した一冊。

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