この1点に会いにいこう

全長約280キロの真っ赤な糸で染め上げられた圧倒的な空間 塩田千春の代表作「不確かな旅」

《不確かな旅》 2016/2019年 鉄枠、赤毛糸 サイズ可変 Courtesy: Blain|Southern, London/Berlin/New York 展示風景:「塩田千春展:魂がふるえる」森美術館(東京)2019年 撮影:Sunhi Mang 画像提供:森美術館

《不確かな旅》 2016/2019年 鉄枠、赤毛糸 サイズ可変 Courtesy: Blain|Southern, London/Berlin/New York 展示風景:「塩田千春展:魂がふるえる」森美術館(東京)2019年 撮影:Sunhi Mang 画像提供:森美術館

せっかく展覧会に行ったのに、作品の魅力をいまいち実感できないまま美術館を後にした……という経験をしたことがあるのでは? そこで、本連載では開催中、もしくは近日開催予定のアート展を取り上げ、出品作品の中からその展覧会や作家の魅力が凝縮された1点を紹介していく。たった1点だけでも、見に行く価値がある! そんなアートの新しい鑑賞スタイル。さぁ、この1点に会いに行こう。

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ベルリンを拠点に活躍するアーティスト、塩田千春。25年間にわたるその活動を網羅する過去最大規模の個展「塩田千春展:魂がふるえる」が、東京・六本木の森美術館で開催されている。なかでも空間いっぱいに糸が張り巡らされた《不確かな旅》は、塩田を象徴する作品。そこには、美術とともに生きてきた彼女の切実な思いが込められているという。本作について、森美術館副館長兼チーフ・キュレーターの片岡真実さんに話を聞いた。

糸とボートは、塩田作品の代名詞

一歩足を踏み入れると広がる、真っ赤な糸で染め上げられた空間。空間の奥行きは約25メートル、使われている糸の長さはこの1作品だけで約280キロメートルにもおよぶ。

《不確かな旅》は、「塩田千春展:魂がふるえる」の展示室で最初に出合う大型作品だ。

1972年大阪生まれ、ベルリン在住の塩田千春は、国内外の美術館や国際展、ギャラリーなどで、これまでに300を超える展覧会に参加してきた。日本では2001年の第1回ヨコハマトリエンナーレで注目を集めて以降、数々の展覧会で作品を発表している。2015年には、イタリアのベネチア・ビエンナーレ国際美術展で日本館代表を務めた。このときに展示した《掌の鍵》もまた、赤い糸を使った作品。空間に絵を描くように糸を張る、塩田の代表的なシリーズだ。

「塩田が糸を使った最初の作品は、1994年に発表したパフォーマンス/インスタレーション《DNAからDNAへ》。以降、赤い糸や黒い糸を使った作品を制作してきました。塩田いわく、赤い糸は、毛細血管など身体の中のミクロコスモスのようなイメージ。血縁や“赤い糸”といった、人のつながりと考えることもできると言っています。反対に黒い糸は、どんどん重なって空間が埋まっていくと遠近感がわからなくなり、広大で真っ暗な宇宙へ連れて行かれるような感覚をもたらします。塩田にとって、相反する意味を持つ赤と黒は重要な色です」(片岡さん)

《静けさのなかで》 2002/2019年 焼けたピアノ、焼けた椅子、Alcantaraの黒糸 サイズ可変 制作協力:Alcantara S.p.A. Courtesy: Kenji Taki Gallery, Nagoya/Tokyo 展示風景:「塩田千春展:魂がふるえる」森美術館(東京)2019年 撮影:Sunhi Mang 画像提供:森美術館

《静けさのなかで》 2002/2019年 焼けたピアノ、焼けた椅子、Alcantaraの黒糸 サイズ可変 制作協力:Alcantara S.p.A. Courtesy: Kenji Taki Gallery, Nagoya/Tokyo 展示風景:「塩田千春展:魂がふるえる」森美術館(東京)2019年 撮影:Sunhi Mang 画像提供:森美術館

《静けさのなかで》は、隣の家が夜中に火事で燃えたという塩田の幼少期の記憶から制作された。焦げたグランドピアノと観客席をつなぐ黒い糸は、かつて奏でられていた美しい音色の広がりを表しているよう

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糸を使ったシリーズを含め、塩田の作品には舟のモチーフが頻繁に登場する。《掌の鍵》ではベネチアの伝統的な木製の舟が使われていたが、その翌年に発表された、この《不確かな旅》ではフレームだけの形状になった。

「輪郭だけの舟は、舟そのものというよりは、もう少し抽象化された、象徴としての意味合いが強いと思います。大洋に1隻の舟が浮かんでいて、向かう先の水面もゆらゆら揺れて見えにくい感じ……つまりは不確かさの象徴なんです。それが指しているのは個人の人生かもしれないし、各国の社会状況かもしれない。より広く考えれば、地球環境の未来かもしれません。現代は、あらゆることが不確かだと思うんですね。そういう時代に、我々が心の中に抱える、すぐには答えの出せない不安感や、ざわざわした気持ち、そういうものを表現していると言えます」(片岡さん)

揺れ動く不安のなかを進むボートと、人とのつながりを連想させる糸。それは、不確かな旅の先にある多くの出会いを示唆しているかのようだ。

塩田千春 《どこへ向かって》 2017 / 2019年 白毛糸、ワイヤー、ロープ 展示風景:「塩田千春展:魂がふるえる」森美術館(東京)2019年 Courtesy: Galerie Templon, Paris/Brussels 撮影:木奥恵三

塩田千春 《どこへ向かって》 2017 / 2019年 白毛糸、ワイヤー、ロープ 展示風景:「塩田千春展:魂がふるえる」森美術館(東京)2019年 Courtesy: Galerie Templon, Paris/Brussels 撮影:木奥恵三

展の入り口で来場者を出迎える《どこへ向かって》。高さ11mの天井からつられた65艘(そう)の舟が、展覧会という旅へいざなう

「不安」を糧に作品をつくり続ける

塩田が数々の作品で主題にしているのは、「記憶」「不安」「夢」「沈黙」「人とのつながり」など、かたちのないもの。片岡さんは「不安は制作の原動力」だと語る。

「塩田は、自分がこれからどうなっていくのか、もしくは、自分とはなんなのかという、自分自身の存在に対する不安を糧にして作品をつくっています。それに対する答えや真実を求めることそのものが、彼女を作家として前に進ませている。ですから、決して不安を取り除きたいと考えているわけではないと思うんです。作品タイトルにもなっている、“不確かな旅”の先になにがあるのかを求めることも同義。不安や不確かさは、彼女にとって大事なテーマです」(片岡さん)

幼い頃から絵を描いていた塩田が「画家になる」と決めたのは、弱冠12歳のとき。「『私には、ほんとうに美術しかないんです』と語るほど、塩田は美術への思いが人一倍強い。表現すること、そしてそれを発表することは、塩田にとって生きる術のようなものです」と片岡さんは語る。そんな彼女の作品が、なぜこれほどまでに世界の人々をひきつけるのか。それは、ごく個人的な体験を出発点にしながらも、「アイデンティティー」「境界」「存在」といった、誰しもがもつ普遍的な概念を問うてきたからだ。

「理論的に説明するのではなく、人間の原初的な部分に刺激を与えるから、鑑賞者の心が動くのだと思う」と片岡さん。今回の展覧会では、これまでの軌跡をまとめたクロノロジー(年表)と舞台美術のセクションを除いて解説の文章をつけておらず、オーディオガイドもあえて用意していない。その代わり、作品のテーマにつながるような塩田の言葉が随所に掲げられている。説明するのではなく「作品がもたらす身体的な体験と、塩田の限られた言葉がつながるだけで十分」(片岡さん)という判断からだ。

片岡さんは本展を企画するにあたり、塩田の空間に対する力を最大限発揮できるよう、“巨大なスケール”を重視した。そこに立ったときに感じるのは、塩田の心の揺らぎと、それに呼応するようにふるえる鑑賞者自身の感情。圧倒的な空間に、写真を超える美術体験が待っている。

塩田千春。撮影:Sunhi Mang

塩田千春。撮影:Sunhi Mang

<展覧会概要>
塩田千春展:魂がふるえる
過去最大規模であり、最も網羅的な塩田千春の個展。ダイナミックな体感型インスタレーションをはじめ、立体作品やパフォーマンス映像、写真、ドローイング、舞台美術の関連資料などを網羅。がんの再発と向き合って生まれた新作も披露されている。「不在のなかの存在」を一貫して追究してきた塩田の集大成となる本展を通して、生きることの意味や人生の岐路、魂の機微を実感できる。
会場:森美術館
会期:2019年6月20日(木)~10月27日(日)
開館時間:10:00~22:00(最終入館21:30)。火曜日のみ17:00まで(最終入館16:30)。ただし10⽉22⽇(⽕)は22:00まで(最終⼊館21:30)
休館日:会期中無休
https://www.mori.art.museum/jp/

ほか出品作品はこちら

PROFILE

平林理奈

1984年生まれ。武蔵野美術大学出身。Web制作会社と編集プロダクションを経て、2016年よりフリーエディター&ライターに。アートやデザイン、カルチャー、ライフスタイル分野を中心に、書籍、雑誌、Web、広告物などで編集と執筆を行っている。アートとサブカルが交差したような表現が好き。

画家・歯科医・教授……前衛であり続けた中原實の傑作 東京都現代美術館リニューアル記念展の中核

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