RADWIMPS・野田洋次郎は「言葉の角度を変えて耳新しさを出す天才」
文: いしわたり淳治

音楽バラエティー番組『関ジャム 完全燃SHOW』(テレビ朝日系)で披露するロジカルな歌詞解説が話題の作詞家いしわたり淳治。この連載では、いしわたりが歌詞、本、テレビ番組、映画、広告コピーなどから気になるフレーズを毎月ピックアップし、論評していく。今月は次の5本。
1 “愛にできることはまだあるかい”(RADWIMPS/作詞:野田洋次郎)
2 “交番の前でも同じことをできるのか” (ずん・飯尾和樹)
3 “松本、動きます。” (松本人志)
4 “なんそれ!”(ZAZY)
5 “アイスクリーム頭痛”
最後に日々の雑感をつづったコラムも。そちらもぜひ楽しんでいただきたい。
いしわたり淳治 今気になる五つのフレーズ
どこを歩いていても、どこからともなくRADWIMPSの「愛にできることはまだあるかい」が聞こえてくる、そんな夏。キャッチーなワードである。野田洋次郎という人は本当に良い曲を作るなとあらためて思った。
作詞には「どうして空は青いの」「どうしてあなたはそばにいないの」みたいに、自分でも分かっていることをあえて疑問形にして尋ねることでインパクトを出す、という手法がある。
歌というのは不思議なもので、切なくて悲しいからといって、「切なくて悲しいわ」とストレートに書けばいいというわけではなく、「どうして空は青いの」と遠回しに書いた方が、切なさや悲しみが表現できたりする。同様に、どうして別れたかを分かっているとしても、「どうしてそばにいないの」と書く方が心にぽっかりと空いた穴の大きさが表現できたりするのである。
RADWIMPSの「愛にできることはまだあるかい」というフレーズ。歌の中の「君」に向かって尋ねている。インパクト十分だ。これがもし「今でもまだ愛しているよ」なんて表現では、なんとも凡庸な歌になっていただろうなと思う。彼はこういう風に同じ意味であっても、言葉の角度を変えて耳新しさを出す天才である。
毎年、夏が来るたびに目にする24時間テレビの「愛は地球を救う」という言葉も、いっそ今年は「愛にできることはまだあるかい」の方がいいのではないかしらと、ぼんやり思ったのは夏の暑さのせいかしら。
ずんの飯尾さんが、インターネットの記事でいじめについてのインタビューを受けていて、その中で「“いじめ”と“いじり”の違い」について聞かれたとき、「結局、交番の前やその人の家族の前でも同じことをできるのか、って話ですよね。僕らはテレビと同じようにいじることができます。一方で、学校でいじめているような人らは、どうせ同じことできないだろうって感じ」と話していた。たしかに、と思った。“いじめ”と“いじり”の境界線についてかなり明確な線引きを聞いたような気がした。
これまでも“いじめ”と“いじり”の違いについて、「そこに愛や信頼関係があるかどうか」みたいな話はよく耳にした。でも、一見的を射ているようでいて結局、愛とは何か、信頼の考え方は人それぞれ、みたいな話になってしまって、どうもぼんやりしてしまう。その点、「交番の前でもできるか」というのはなんとも明快である。
もしかしたら、別に学校でのことなんだから、交番じゃなくても「先生の前でも同じことをできるか」というのと一緒なのでは、と思う人も中にはいるかもしれないけれど、それはたぶん少し違うと思う。先生は、目の前で行われていることがたとえ“いじり”であったとしても、その行為や発している言葉が行儀が悪ければ、たぶん普通に怒るのだ。だから「先生」による裁きだけでは、“いじり”と“いじめ”の境界線はむしろあやふやになるような気がするのだ。
難しいのはこの線引きが分かったからといって、直接のいじめの解決策にはならないという点だけれど、それでも多くの人が“いじり”と“いじめ”の線引きについて考えるきっかけを投げかけるだけでも、こういう記事の存在は大変意味がある気がした。
誰もが自分の勤めている会社の内情より、吉本興業の内情について詳しくなってしまうのではないかしらと思うくらい、吉本興業関連の報道が続いていた。私はそれほど興味はないのだけれど、いつか松本人志さんがツイートした「松本、動きます」という言葉には大変興味を持った。
この「〇〇、動きます」という言葉に、自分の名字を入れて実際に声に出してみると、妙に面白い。「アムロ、行きます」の比じゃない、というか。最近は、これを無理やり毎日の生活の中で使ってみている。
例えば、頼まれごとの「了解です」の返事の代わりに「〇〇、動きます」のように。待ち合わせ場所に「今から向かいます」の言葉の代わりに、飲み会の店を探す時のグループLINEへの書き込みに。そんな風に、結構、いろんなことが「〇〇、動きます」へ変更可能であることに気づかされる。
いや、だからどう、ということもないのだけれど、旬が短そうな言葉なので、何かにつけて使い倒してみている今日この頃である。
先日、とあるショッピングモールにひょっこりはんがイベントで来るというので、見たいと騒ぐ4歳と2歳の息子を連れて行くと、どういうわけか二人ともひょっこりはんではなく一緒に出ていたZAZYさんの方にどはまりしてしまった。それ以来、我が家では毎日30分、家族でZAZYさんのネタの動画を見るという謎の時間ができた。
おかげで子供たちは、パンを食べたいときには「きぬえにパンパン!」としつこいくらいに歌い、遊び疲れたときは「ホエールウォッチングタ〜イム」と歌ってひと休みし、食卓に中華料理が出てくれば「すんすんすんすん」と騒ぎ、何かにつけては「なんそれ!」とつっこんでは騒いでいる。こんな4歳児、大丈夫なのだろうか。きっと幼稚園でも浮いているに違いない。
ZAZYさんを知らない人は何のことか分からないと思うけれど、松任谷由実さんもMEGUMIさんの一家(降谷家)も大好きだとテレビで言っていたから、ハマる人はハマる、強い中毒性があることは間違いない。現に我が家は、皆がほとんどのネタを暗記してしまうほど見ている。
それにしても「なんそれ!」というフレーズは使い勝手がいい。誰かから何か嫌なことをされたり言われたりした時、行こうと思った店が定休日だった時、良かれと思って誰かにしてあげたことが裏目に出た時、みたいな日常生活の中のちょっとした不快感に、思いっきり顔をしかめて「なんそれ!」と叫ぶと、嫌な気分がすうっと消えて笑えてくる。我が家ではかなり多用されている魔法の言葉である。
ストレス社会で働くみなさんも、ぜひ毎日の生活の中に少しのZAZYタイムを取り入れてみてはいかが。
アイスクリームやかき氷を急いで食べた時に頭がキーンと痛くなるあの感じ。医学的な正式名称も「アイスクリーム頭痛」というのだそう。あまりにもストレートなネーミングにも驚かされるけれど、この症状、頭痛が数分程度で収まるために発症のメカニズムなどはまだ正確には解明されていないのだそう。
夏が来れば思い出す、アイスクリーム頭痛。どこか、ひと夏の恋と似ているのかもしれない、とふと思った。短い期間で消えてしまったから、どうして恋に落ちたのか自分でも分からないままの恋のひとつやふたつ、誰しもあるのではないだろうか。
アイスクリームを食べてキーンとするたび、「あの人今頃どうしてるかな」なんて思い出すのも、ちょっとした夏の楽しみ方のひとつかもしれない。
<mini column>
さんきゅ。
先日、青森の実家に帰省した。母親と二人で遠出する用事があって、レンタカーを走らせていると、孫に何かを買ってあげてお礼を言われるのはすごくうれしい、みたいな話の流れで、母親が父親への愚痴を言い始めた。
「オヤジは何をしてやっても“ありがとう”の一言もないんだもの」
「ははは。でも、まあ、そんなの今始まったことでもないじゃない」
「お礼言うくらい2歳の子供だってできるのに」
「いや、逆に何十年も一緒にいると照れ臭い部分もあるんじゃない?」
「だからって、お茶を出してあげたら、“おう”の一言くらい言えばいいべよ?」
「無視か……。たしかにそれはつらいね」
「この前、薬飲まねばなんないのに、手に薬持ったまま何も言わないで黙って座ってるから、仕方なく水持って行ったら、それでも何も言わないのよ。頭にきて、とうとう言ってやったのよ。“あんた、私に何かひとことくらい言うことないの?”って」
「で? オヤジ、何か言った?」
「言ったのよ……。“さんきゅ”って。それがまた腹が立つのなんのって!」
「ははは。何が腹が立つの?」
「だって、どう見たって、ありゃあ、“さんきゅ”のキャラじゃねえべよ! 英語も出来ない田舎もんの80歳近いじいさんが。人をバカにしたような言い方で、“さんきゅ”だって。腹が立つったらありゃしない」
「ははは。じゃあ、“さんきゅ”は止めろって言えばいいじゃん」
「でも、“何か”言えって言ったのはこっちだしよ。また文句言うのも面倒臭いし」
「ははは。何も言わないのと“さんきゅ”だったら、どっちがいい?」
「そりゃあ、もちろん何も言わない方がよっぽどマシだ」
「えーっ、マジで? あの口下手でカタブツのオヤジが、頑張ってお礼を言おうとして、ちょっと照れ隠しをしたせいで、何も言わないよりも相手をムカつかせてるの? こんな切ない話ってある? はははは」
「だって、あの顔で、“さんきゅ”だで? 考えただけでムカムカする」
話を聞いていると、この“さんきゅ”はもう半年ほど続いているそうで、最近は何かしてあげるたびに内心で「また“さんきゅ”が来るぞ……来るぞ、来るぞ」とビクビクして構えているらしい。そして案の定、“さんきゅ”が来たら、ぐぐぐっと奥歯をかみ締めてこらえているらしい。
父親はそんなこととはつゆ知らず、今日も“さんきゅ”を連発しているのだ。彼なりの感謝を込めて、良かれと思って。
照れ隠しって、この世でいちばんいらないものなのかもしれない。照れ隠しで隠しきれている「照れ」なんか、この世に何一つないのかもしれないなと思った夏である。
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