心にざわめきを与えてくれる聴覚と視覚の交わり 落合陽一×日本フィルVol.3《交錯する音楽会》

8月27日、メディアアーティストの落合陽一さんと日本フィルハーモニー交響楽団とのプロジェクトVOL.3の第2夜、Art《交錯する音楽会》が開かれました。第1夜に続き、レポートをお届けします。

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《交錯する音楽会》を、東京芸術劇場コンサートホールの客席で視聴した。

普通のコンサートのようにオーケストラの演奏を「聴く」だけでなく、舞台の上方に設置された映像を「視る」ことで、音楽と映像を交錯させ、さまざまな感覚に変換させていく、というものである。

入場のとき、プログラムと一緒に、小さな鈴を渡された。よくある、銀色や金色の丸いタイプではなく、緑色の小さな銅鐸のような、金物の風鈴のようなそれである。席につくと、落合さんが案内役の江原陽子さんと舞台に登場して、今日の趣旨を説明し、鈴は途中のどこかで鳴らしてもらうことになるから、用意しておいてくれという。

クラシックの演奏会に通っている人間にとっては、これはかなりのプレッシャーである。演奏中は身動きをせず、周囲に迷惑をかけないよう、音を出さないようにするクセがついているので、音が出るものを持たされると、緊張してしまうのだ。ともかくも音が出ないように手に持ち、開演を待つ。

指揮者の海老原光さんが登場し、『越天楽』でコンサートが始まった。日本古来の雅楽の曲を、近衞秀麿がオーケストラのために編曲したもの。笙(しょう)やひちりきなどのアジア風の響きが、西洋の楽器で模倣される。映像はなく、暗めの照明のなかに、玄妙な響きだけが聞こえてくる。

静かに終わると、一気に気分を変え、ヨハン・シュトラウスⅡ世のポルカ『雷鳴と電光』がにぎやかに鳴りひびく。その名のとおり、雷の音や稲妻の光を、音で表現したもの。ここではオーケストラの上にある4枚のスクリーンに加え、ステージの壁面にも青赤黄緑の色の光が目まぐるしくいれかわって、音楽のけたたましさをさらに高める。映像を演奏にあわせて操作する「映像の奏者」はWOW、照明は成瀬一裕さん。

続いて、前半のメイン・プロである小山清茂の『管弦楽のための木挽歌(こびきうた)』へ。

これは佐賀の民謡を主題とする変奏曲で、まずは昔懐かしいカセットデッキが舞台に登場して、原曲の民謡が再生され、オーケストラに引き継がれていく。弦楽器がのこぎりの響きを模倣するのにあわせて、独奏チェロが民謡の主題を歌う。スクリーンにはモノクロで、木々の枝と葉、水滴などの自然が映し出される。音楽はやがて高潮して、盆踊りの場面になる。

いま、日本人が昔ながらの日本の習俗に触れる場面は、正月と葬式を別にすると、夏祭りの盆踊りや花火、浴衣くらいしかないのかもしれないなと、これを聴きながら思う。

生活の西洋化、グローバル化はどんどんと進んで、和風の度合いは、薄くなるばかりだ。クラシックを聴く、演奏するという行為は、いうまでもなく欧米からきたもので、そこに日本風を混ぜる、交錯させる意味や意義は、まだあるのか、もはやないのか。

ふだんはそんなことすら考えずに、私はヨーロッパの作曲家たちの作品を、何の疑問ももたずに楽しんでいる。日本人の作品を聴く機会は少ないし、クラシックの曲に日本風の祭りの響きやリズムが入ってくると、何かこそばゆいような、気恥ずかしささえおぼえたりする。その不思議な、和洋のねじれ。

曲が静かに終わると、指揮の海老原さんがふり返り、客席に向かって、静かに例の鈴を鳴らす。ああ、ここかと納得して、鈴をみんなで鳴らす。舞台と客席が鈴の音で交錯して、前半が終わった。

冒頭の鈴Ⓒ平舘平

冒頭の鈴Ⓒ平舘平

休憩時にロビーに出ると、二期会合唱団の男声8人がサプライズライブとして、木挽歌の原曲と、小山清茂の『こきりこ』、松下耕の『八木節』を歌ってくれた。

客席に戻って、人の歌声から、歌詞のない、抽象的な器楽の世界へ。音楽の抽象的なイメージを、映像がふくらませてくれる。

後半は、ムソルグスキーのピアノ曲をラヴェルがオーケストラ用にアレンジした組曲『展覧会の絵』からの『プロムナード』と『小人』に始まり、マーラーの交響曲第5番の第4楽章、『アダージェット』へと続く。

4枚のスクリーンには抽象的な図柄と色彩があらわれ、変化していく。昨年のVOL.2ではスクリーンが小さくて縦長で、映像が広がらないのが残念だったのだが、その不満は解消された。オーケストラが横に広がるだけに、映像も横長のほうが安定感がでる。

アンコールⒸ平舘平

アンコールⒸ平舘平

ただ、抽象的な図柄と動きというのは、初めは音との照応を楽しんでいられるのだが、集中を保つのが案外むずかしい。特に『アダージェット』だと、この音楽を用いたヴィスコンティの映画『ベニスに死す』の砂浜と青空や、あるいはかつてみた、モーリス・ベジャール振り付けでジョルジュ・ドンがこの音楽にあわせて踊った、憧れという思いをそのまま動作にしたようなバレエなどが思い出されてきて、現実の画面がじゃまになったりした。

そうした、記憶のなかの映像と深く結びついてしまった音楽に、いいかえれば、既に物語で満たされてしまった音楽に、新たな視覚イメージを受けとることは、なかなか難しいのかもしれない。

その意味で、文句なしに音楽と映像のコラボレーションを、“交錯”を楽しめたのは、ラストのドビュッシーの交響詩『海』の第3楽章『風と海の対話』だった。これは、ドビュッシーがあまりにも見事に海の波と白い泡、風の流れと雲と光を音だけで表現していることを、映像が逆らわずに証明してくれた。だから、ひたすらに楽しむことができた。

ドビュッシーの音楽はきわめて具象的で、余計な物語をつけくわえる余地はない。ひたすらに波うち、流れ、きらめいていく。映像はそれをそのまま再現した。特にすばらしいのは、ほとんどモノクロに近く色の変化を抑え、後半に緑がかった青を加えるだけにしたことだった。それにより、オーケストラの楽器の音色のもつ色彩の変化、その多彩なパレットが描く波と風と光が、素直に、そして鮮明に、耳から入ってきたのである。

手に汗にぎるような、ワクワクする体験だった。

アンコールは、エルガーのエニグマ変奏曲から、第9変奏『ニムロド』。『風と海の対話』がもたらした胸中の大波を、静めてくれるような響きだった。

カーテンコールⒸ平舘平

カーテンコールⒸ平舘平

耳と目の交錯。それは心のなかにも、さまざまなざわめきと、きらめきを与えてくれた。このチャレンジが、これからも続いていくことを願う。

(文・山崎浩太郎 写真・平舘平)

第1夜 Diversity《耳で聴かない音楽会2019》の記事はこちらから
>>落合陽一×日本フィル「耳で聴かない音楽会」に行ってみた

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『つづくをつくる』から4話

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