本を連れて行きたくなるお店

どれだけクタクタな時も、温かい郷土料理が家族をつなぐ 伊岡瞬『悪寒』

カフェや居酒屋で、ふと目にとまる、ひとり本を読んでいる人。あの人はどんな本を読んでいるんだろうか。なぜその本を選んだのだろうか……。本とお酒を愛する編集者で鰻(うなぎ)オタクの笹山美波さんは、本の中の物語が現実世界とつながるような、そんなお店に連れて行ってくれます

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日本の勤め人にとって秋は、春に次いで人事異動が増える季節だ。最近、新しい仲間を迎えたばかりの人もいるだろう。

ただし、異動は、当事者にとってはめでたい話とは限らない。希望と異なる配属で落胆したり、これまでのキャリアとは無縁の部門や、見知らぬ土地への転勤を突然命じられ、左遷されたと感じている人もいるかもしれない。

けれども、辞令が出てしまえばあとは受け入れるしかない。

会社に人生を翻弄される、一人の男の物語

伊岡瞬のミステリー小説『悪寒』の主人公・藤井賢一も、人事異動に苦しめられた一人だ。

賢一は東京の大手製薬会社に係長として勤めていたが、会社の不祥事の責任を一方的に押し付けられ、山形にある関連会社へ出向させられる。

伊岡瞬のミステリー小説『悪寒』

作者は大学卒業後、広告会社を経験していることもあるせいか、勤め人としての葛藤の描き方がとてもリアル

賢一は、妻、娘、祖母を東京に残して単身赴任する。役職は「支店長代理」だが、実態はハードな配置薬販売の営業と管理職の兼任だ。業務が誰よりも多いうえ、毎日嫌味をつけてくる上司の支店長がいる。

仕事はストレスフルだが、プライベートも散々だ。山形へ赴任して以来、心当たりがないのに娘には「話したくない」と避けられ、妻には旅費がかかるからなどと真っ当な理由をつけられて、「戻ってこなくていい」と言われてしまう。

温かいごはんを食べる暇も一度しかなく

そんな厳しい状況に置かれた賢一は、まともな食事も取れずにいた。初めての土地で良い店も知らず、支店内で気まずい立場だったので同僚に聞くこともできなかったからだ。

けれども一度だけ、山形であたたかなご飯を口にすることができた時がある。後輩社員・高森久実の飲みの誘いに応じた時だ。

高森は上京したいので、本社へ戻るといううわさのある藤井に媚びを売るような後輩だ。はじめは藤井も警戒していたが、ストレスが溜まっていた時に優しく声をかけられたので、誘いに乗った。

そして連れていかれた山形料理屋は、東京・神田で見かけるような家庭的な雰囲気を感じさせた。そして、高森は、賢一の娘の冷たい態度を「特別気にすることでもない」と慰めてくれた。

賢一は生ビールを飲み、山形料理に口をつける。寒ダラを丸ごと使った地の鍋料理「どんがら汁」を「うまい」と感じることができた。

私の勝手な解釈だが、賢一がやっと食事を口にできたのは、店の趣に東京を近くに感じられ、高森の言葉のおかげで、気を揉んでいた家族の問題にも気持ちが落ち着いたからだろう。

しかし、妻から送られた「家の中でトラブルがありました」から始まるメールをきっかけに、賢一を取り巻く状況は、さらに悪化する。なんと、妻が賢一の出向を画策した本社の南田常務の殺人容疑で逮捕されたのだ。しかも、どうやら不倫のもつれの末の殺人らしい。

賢一がイメージした神田の居酒屋にピッタリのお店「このじょ」

以降は最後まで緊張感あるシーンが続き、食事のシーンはほぼ出てこない。だからこそ、賢一が一瞬だけリラックスできた山形料理屋が気になった。

イメージに合う店を神田で探してみると、ぴったりのお店を見つけられた。山形料理屋の「このじょ」だ。山形県民が山形料理を提供する、「神田あたりの裏路地で見かけるような、家庭的な雰囲気のこぢんまりとした店」という描写の通りの店が、神田にちゃんとあったのだ。

このじょ

「このじょ」は、山形出身の女将(おかみ)さんが作る家庭的な雰囲気と、庄内地方から取り寄せた食材で作った郷土料理と豊富な地酒が魅力の、2010年に開店したお店。カウンター8席、テーブル3卓の広すぎない店内には、山形出身の常連客も多く、そこかしこから山形弁が聞こえて来る。メニューには定番の「玉こんにゃく」や「芋煮汁」をはじめ、東京の普通の居酒屋では見慣れない郷土料理が並ぶ。

玉こんにゃく

イカの足も一緒に炊かれてうま味たっぷりの「玉こんにゃく(530円)」。甘辛い味付けにカラシがピリリと効く

店名の「このじょ」は庄内地方の方言で「このあいだ」という意味。このじょには、いつ来ても、初めて来ても、つい「このあいだ」も来店したような安心感がある。山形出身でなくとも、東京に馴染みのない方には気が休まる場所だろう。温かな雰囲気につい遠い我が家を思い出してしまう。

お料理は女将さんがこしらえる。庄内名物のえぐみのなく柔らかな「孟宗筍(もうそうだけ)と牛肉煮(700円)」は、しっかりと甘辛い東北らしい味付け。東京では珍しい山菜「青ミズのカラシ和え(500円)」は、シャキシャキ食感が楽しい。初めて食べる食材でも食べ慣れた味付けにノスタルジーを感じる。

孟宗筍と牛肉の煮物

「孟宗筍と牛肉の煮物」。孟宗筍がえぐみがなくおいしいワケは山の雪解け水で育つためだそう

青ミズ

見た目から葉野菜にも見えるが、山菜というのが意外な「青ミズ」。葉も茎も食べられる

秋口から旬になる「ムツコ」はのどぐろの子供のこと(卵巣を指すこともある)。開きでいただくと、ふっくらしていて、脂も乗っていておいしい。秋が深まると身も大きくなるらしく、これからの季節が楽しみだ。飲み口のスッキリとした酒田のお酒「上喜元 猩々(しょうじょう)本醸造」とともにいただくとぴったり。

ムツコの開き

「ムツコの開き(730円)」。鮮度が落ちやすいのどぐろだが、直送なのでおいしさが保たれている

日本酒「上喜元」

日本酒は「上喜元(580円)」をはじめ「出羽の雪」など、お店には鶴岡から取り寄せた地酒が常時10数種類並ぶ

「サッポロビール」の赤星

ビールはうれしい「サッポロビール」の赤星。この日のお通しはくるみ豆腐。山形ではよく食べられているそうだ

温かい料理を食べ、家族を思う時間が持てたら

繁忙期に、特にトラブルが続くと、仕事は何とかこなせていても、気持ちの余裕もなくなって、生活も蔑(ないがし)ろになり、大切な人とのつながりも疎遠になりがちだ。

物語では賢一がまさにそうだった。急によそよそしくなる妻や娘のことを、変だと悩んでいながらも、忙しさを理由に声をかけることはなかった。妻の不倫と殺人容疑についても、慌てふためいてばかりで原因を究明しようともせず、ほとぼりが冷めるのを待つしかなかった。

そんな賢一も、少し休息を取った後は、状況を整理するゆとりもでき、腹をくくって解決のために自ら行動し始める。

「このじょ」でおいしい料理をいただきながら考えた。もし、あの山形料理屋で過ごせたように、温かい汁をすすりつつ、家族のことを思う時間が週に一度でも持てていたなら、事件は起こらなかったかもしれないし、起きたとしても解決はもっと早かったかもしれない。

物語はフィクションだが、他人事とは思えなかった。

             ◇

このじょ
東京都千代田区内神田3-5-5大同ビル1階
03-3254-7358
営業時間
17:00~23:00
土日祝休

連載

本を連れて行きたくなるお店
本とお酒をこよなく愛する編集者で、鰻(うなぎ)オタクでもある笹山美波さんが、本の中の物語が現実世界とつながるような、そんなお店や場所を紹介してくれるコラムです。

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PROFILE

笹山美波

「東京右半分」に生まれ育つ。編集記者を経て、外資マーケティングサービスのWebプロデューサー、マーケター。ライター。鰻オタク。東京と食に関連する歴史/文化/文学/お店を調べるのがライフワーク。

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