今日からランナー

五輪マラソンの開催地変更 「アスリートファースト」を科学的に検証したのか?

2020年東京オリンピックのマラソンと競歩の開催地の変更が決定した。すでに多くのメディアで論じられていることなので、あえて私が書かなくてもと思っていた。今回も別のテーマを用意していた。だが、テレビのワイドショーのコメンテーターの発言などを聞いているうちに、どうしても我慢できなくなった。

それは、この決定が選手の健康を考慮した、いわゆる“アスリートファースト”でなされたものだと、いまだに多くの人が信じていることだ。札幌に変更すれば、選手は東京より快適な環境で走れると思っている。これは、科学的に検証されたことなのか。

国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長は「札幌は東京より気温が5〜6度低い。選手を第一に考えなければならない」と、気温が理由だと語っている。気象庁の観測によると、確かに東京は7月の平均気温が25.0℃(湿度77%)、8月が26.4℃(73%)なのに対して札幌は7月が20.5℃(76%)、8月は22.3℃(75%)とバッハ会長の言う通りだ。しかし、このデータがどのように測定されているかご存じだろうか。

私が子どもの頃はどの小学校の庭にも気象観測用の百葉箱というものがあった。芝生の地上1.5mの高さによろい戸の白い木製の箱があって、中に温度計などの観測装置が設置されていた。白い箱の中にあるのは直射日光の影響を受けないようにするためだ。つまり何が言いたいのかというと、バッハ会長らが判断の根拠にしたデータはあくまでも「風通しのいい日陰の温度」に過ぎないということだ。このことを指摘する人はほとんどいない。

あらかじめ断っておくが、私は札幌開催がダメだと言いたいわけではない。東京都の小池百合子知事のように「これまでの準備が無駄になる」というようなことを言うつもりもない。ただ、マラソンランナーの目線で真面目に検討された形跡が見えないことに強い違和感を覚えている。

定例会見で、マラソンの札幌移転について「合意なき決定」だと訴える小池百合子・東京都知事=2019年11月1日午後2時13分、東京都新宿区の都庁、軽部理人撮影 (朝日新聞社)

定例会見で、マラソンの札幌移転について「合意なき決定」だと訴える小池百合子・東京都知事=2019年11月1日午後2時13分、東京都新宿区の都庁、軽部理人撮影 (朝日新聞社)

選手にとって本当に東京より札幌がいいのか、ということだ。テレビに出てくる解説者の多くは、前述の気象データだけを理由に「アスリートファーストなら札幌だ」と言っているように聞こえる。本当にそうなのか? 誰かきちんと検証したのか?

「北海道は涼しくて走りやすい」は本当か?

私は、この連載のために8月の早朝6時に国立競技場をスタートして、トップアスリートとほぼ同じスピード(1kmあたり3分)で当時オリンピックで使われることになっていた42.195kmの東京のコースのすべてを自転車で走っている。

実際のオリンピックに近い条件でマラソンコースを踏査したジャーナリストは、珍しいのではないか。そこでわかったことは、気温は高いがビルが多く、短い2カ所のデンジャラスゾーンを除けば直射日光を浴びることがほとんどないということだった。

実際に走ってわかった! 早朝の東京コースは大部分がビルで日陰になる

実際に走ってわかった! 早朝の東京コースは大部分がビルで日陰になる

直射日光が当たる場所では、アッと言う間に温度計の数字が上がる

直射日光が当たる場所では、アッと言う間に温度計の数字が上がる

小池知事が自慢する遮熱性舗装やミストシャワーにどれほどの効果があるかわからない。だが、長時間炎天下にさらされることがないのはランナーにとっては非常にいい。早朝6時スタートにしたのは正解だったと強く思った。

(参考記事)日差しの強いデンジャラスゾーンを発見! 東京五輪のマラソンコースを走ってみた(自転車で)

開催地変更がアスリートファーストでないと私が思うのは、スタート時刻もコースも決まっていない中で意思決定されたからだ。私が報道を見た限り、IOC側でも日本側でもこのことを口にした関係者は一人もいない。

何時にスタートして、どこを走るか決まってもいないのに、なぜ「東京より札幌の方がアスリートファースト」と言えるのだろう? ランナーにとってより涼しい方が走りやすいのは当然だ。そこは議論の余地がない。

だがそれを比較するには、最低でも何時にスタートして、どのコースを走るのかが決まっていないと話にならない。単に「北海道だから涼しい」と判断したのだとしたら、あまりにアバウトではないか。

私たちランナーにとって「札幌」と聞くとまずピンとくるのが毎年8月に開催される北海道マラソン(通称:道マラ)だ。オリンピックもこの道マラのコースが使われるのではないかという報道がけっこうある。

私自身はまだ走ったことはないが、練習仲間が過去に何人も参加している。真夏に行われる国内唯一のフルマラソンで、過酷なことで知られている。そのつらいマゾ的な体験を求めて毎年参加している知り合いもいるほどだ。

一言でいうと、スタートの大通り公園周辺とゴール直前の北海道大学キャンパス内を除くと、ほとんどが日陰のない炎天下を走ることになる。まさに酷暑との闘いがこのレースの醍醐(だいご)味なのだ。

とくにJR札沼線を越えて折り返し地点に向かう新川通は日光を遮るものがまったくない単調で長い直線が往復13kmも続き、主催者でさえ「精神力を試される難所」(公式HPより)と言っている。「涼しくて走りやすかった」という話は一度も聞いたことがない。

東京のコースにも直射日光が当たるデンジャラスゾーンは2カ所ある。そこでは温度計の数字がぐんぐん上がり、いかに危険かということがよくわかった。だが、幸い距離はごくわずかだ。トップ選手のスピードなら時間にして最長5分程度である。

一方、道マラのコースはほとんどすべてがデンジャラスゾーンといっても過言ではない。公式ホームページのコース紹介映像をよく見てほしい。全体を通して日陰がほぼないことがわかるだろう。

東京に比べてビルの少ない札幌では、どこをどう走っても炎天下は避けられない。さまざまな暑さ対策が施された早朝のビル街の日陰を走る東京と、炎天下の札幌のどちらがアスリートファーストかということだ。

札幌はコースもスタート時刻も決まっていないのだから、このことは精査も検討されていないのだろう。もし、本当にアスリートファーストを考えるなら、札幌でも早朝スタートにして、可能な限り直射日光を避けるコース設定にした方がいい。

札幌の大通公園(axz66 / Getty Images)

北海道マラソンのスタート地点でもある札幌の大通公園(axz66 / Getty Images)

アスリートにとっての観客の重要性

だが、それでも解決できない問題がある。沿道の観客動員だ。私は世界6大マラソンを走った経験があるが、6大会中もっとも歴史と人気があるはずのボストンマラソンは沿道の応援がいちばん少なかった。

なぜなら、観戦に便利な交通機関がないからだ。同じことが札幌にも言える。東京はコースの下を地下鉄が縦横無尽に走っているが、札幌はそうなっていない。前述の新川通の折り返し地点に行くには、最寄りのJR手稲駅から50分近く歩かなければならない。

マラソングランドチャンピオンシップ(MGC)では50万人を超える観客が沿道を埋め尽くしたが、その再現は難しそうだ。それでもアスリートファーストと言えるのだろうか。

私はもともとスポーツの応援は観戦者の自己満足であって、選手にとってはあまり意味がないものだと思っていた。しかし、自分がマラソンを走るようになってそうでないことが身に染みてわかった。沿道の声援がどれほどのパワーになるか。それはプロスポーツ選手やトップアスリートにとっても同じなのか。

以来、私は取材の機会があるたびに尋ねた。結果は、誰一人として応援に意味がないという選手はいなかった。アスリートにとって観客がいて応援があることは極めて重要なことなのだ。そのことが札幌開催の決定で考慮されたとは思えない。

(参考記事)専門誌にも載っていない⁉︎東京マラソンでランナーをうまく応援するコツ 

IR_Stone/Getty Images

IR_Stone/Getty Images

IOCがマラソン札幌開催案を思いついたきっかけは中東ドーハで行われた世界陸上選手権だったと説明されている。酷暑を避けるために真夜中に行われた女子マラソンで半分近い選手が棄権したことが問題視された。それは気温と湿度のせいだけだったのだろうか。観客がいない真夜中に走らされたことは影響しなかったのか。検証されたという話は聞かない。

つまり、気温の比較だけでは不十分だということだ。選手にとって“走りやすい環境”とは、気温が高い・低いの単純方程式ではなく、日差しの有無や沿道の観客、その他もろもろを加味した連立方程式でなければ正しい解は導けない。

早朝の東京と炎天下の札幌では、本当に札幌の方が涼しいかどうかもわからない。参考までに、7月の東京の平均最低気温21.8℃に対して札幌の平均最高気温は24.9℃、8月の東京の最低は23.0℃で札幌の最高は26.4℃だ。

そもそも夏季オリンピックを7月〜8月にやらなければならない理由は、IOCに莫大(ばくだい)な放映権料を支払っているアメリカの放送局の都合であるといった類の話は他でも散々書かれているので繰り返さない。

“商業主義”だと批判する人もいるが、オリンピックを持続可能なイベントにするためにスポンサーやテレビ局に配慮するのは当たり前で、悪いことではないと私は思う。批判を恐れず、運営側の事情だときちんと説明すればいいだけのことだ。それをせずに、“アスリートファースト”などというもっともらしい言葉を使って選手をダシに使うのだけは、金輪際やめてほしいと思うのだ。

(トップ画像/MGCでスタート直後に抜け出す設楽悠太(手前)=2019年9月15日午前8時52分、東京都港区、池田良撮影/朝日新聞社)

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PROFILE

山口一臣

1961年東京生まれ。ゴルフダイジェスト社を経て89年に朝日新聞社入社。週刊誌歴3誌27年。2005年11月から11年3月まで『週刊朝日』編集長。この間、テレビやラジオのコメンテーターなども務める。16年11月30日に朝日新聞社を退社。株式会社POWER NEWSを設立し、代表取締役。2010年のJALホノルルマラソン以来、フルマラソン20回完走! 自己ベストは3時間41分19秒(ネット)。

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