「どれが卵の味かわからない」……作詞家いしわたり淳治が“絶対に思いつかない!”と驚いた一言
文: いしわたり淳治

音楽バラエティー番組『関ジャム 完全燃SHOW』(テレビ朝日系)で披露するロジカルな歌詞解説が話題の作詞家いしわたり淳治。この連載では、いしわたりが歌詞、本、テレビ番組、映画、広告コピーなどから気になるフレーズを毎月ピックアップし、論評していく。今月は次の5本。
1 “どれが卵の味かわからない。”(Burnout Syndromes 石川大裕)
2 “パプリカ 花が咲いたら”(Foorin『パプリカ』歌詞/作詞:米津玄師)
3 “強い力で消毒した結果、何も住まなくなった感じ。”(伊集院光)
4 “アゴが外れるほど怖い”(映画『ブライトバーン/恐怖の拡散者』CM)
5 “2時間くらいは残像が働いてくれる”(ローランド)
最後に日々の雑感をつづったコラムも。そちらもぜひ楽しんでいただきたい。
いしわたり淳治 今月注目の五つのフレーズ
先日、デビューの頃からプロデュースをしているBurnout Syndromesというバンドとレコーディングをしていた。ベースの石川は幼い頃から卵のアレルギーがあって、スタジオで頼む弁当選びにいつも慎重になっていたのだけれど、最近になって改めて病院で検査したところ、突然、卵のアレルギーが治っていたのだという。
皆がおいしそうに食べていた卵を、ついに自分も食べられるのだと意気込んで、彼が最初に選んだ卵料理は親子丼だった。さぞかし食べたら世界がひっくり返るくらいの感動があるのかと思いきや、その感想はいたって冷めたもので、「どれが卵の味かわからない」だったという。「出汁(だし)とかしょうゆとかの味でおいしいのはわかるけど、で、どれが卵の味?」と。
すごい。もし仮に自分が小説を書いていて、卵アレルギーが治った人物を登場させたとしても、このセリフは思いつかない。“事実は小説より奇なり”とはよく言ったもので、素晴らしい“リアル”が詰まったコメントである。
彼はその後、生卵に挑戦するため、すき焼きを食べたらしいのだが、その感想もまた冷めたもので、「味が薄くなった」としか感じなかったそう。いやはや。斜め上をいくコメントである。
彼はその後も色々な卵料理を食べた結果、「自分にとって卵は、“食べられないもの”から“苦手な食べ物”に昇格しただけでした」と報告してくれた。切ない話ではあるが、大人になってから、これほどまでにピュアな“初体験”を経験できた彼が少しうらやましいと思った。
『パプリカ』が流れると反射的に子供たちは歌い、踊る。以前からうわさには聞いていたけれど、私自身も街中でその光景を何度か見かけたことがあるので、これは日本中で普通に起こっている現象なのだろうなと思う。
この歌のサビの「パプリカ」という言葉は、それまでの文脈からすると結構唐突に出てきて、何事もなかったように消えていく印象がある。「パプリカ」の意味について、ネットなどでは花言葉がどうだとか、それらしい考察がいくつもヒットするけれど本人による解説はまだないようで謎のままだ。
子供はパピプペポの破裂音が好きだから、お菓子の名前に多く使われると聞く。「ポッキー」「プリッツ」「パピコ」。たしかに、例をあげたら枚挙にいとまがない。「パプリカ」が子供にうけているのは、そんなシンプルな理由もあるのかもしれないなと思う。
ひとつ不思議なのは、かつて『だんご3兄弟』が大ヒットした時はだんご屋が大盛況だったと聞くのに、『パプリカ』がヒットしたからパプリカの消費量が劇的に増えたという話は聞かない、ということである。
子供たちの嫌いな野菜の代表格であるピーマンとパプリカが似ているからだろうか。そうだとしたら、名前にしっかりと“ピ”が入っているのにこんなにも嫌われ続けているピーマンのラスボス感たるやものすごいなと、あらためて思うのは私だけかしら。
伊集院光さんがTBSラジオ「伊集院光とらじおと」で、最近のテレビがつまらなくなったという話をしていて、「結局、強い力で消毒した結果、何も住まなくなった感じ。最近のテレビがつまらなくなったって人は離れていくし、たぶん抗議してやめさせた人たちもそれではなれていくわけでしょ、結局。消毒しきった結果、その池には何も住まない、誰も寄らない」と言った。ものすごく的確な表現だなと感心した。
でも、私はテレビがつまらないと思ったことは一度もない。むしろ、いつも面白いなあと思って見ている。というのも、今も昔もテレビは“世の中”を映す箱だと思っているので、仮にそこに映っている番組がつまらなかったとしても、それは今の世の中のつまらなさを反映しているのだから、こんな形でつまらなさが現れるのだな、という感じで面白がっているのである。
強い力で消毒されているのは別にテレビの世界だけではない。私たちの身の回りも同じだと思う。会社ではパワハラだのモラハラだの時短ハラスメントだのと〇〇ハラスメントが増え続け、友人関係でも常に空気を読まねばならず、自分がやりたくてやっているはずのSNSも他人の目を気にして投稿して、そんな、誰もが誰かの審査員と化した現代において “世の中”を映す箱であるテレビが、強い力で“消毒”されてしまうのは当然のことだろうと思う。それを面白がるか、ただつまらないと嘆くか、その選択肢しか私たちには残されていないのだから、私は前者でありたいなと思うのである。
私たちに正義の心がある以上、それはつまり皆が心に消毒液を持っているということだと思う。大事なのは、その消毒液を“心の潤い”でどれだけ希釈できるかで、間違っても原液のまま振りまくような人間にはなりたくないものである。
新作映画のCMといえば「全米が泣いた!」とか、「今年度アカデミー賞最有力候補!」とか、試写会に来た人の感想を編集してつなぐようなものが多かったけれど、さすがにそればかりではもうインパクトがないご時世である。
新作ホラー映画『ブライトバーン/恐怖の拡散者』は、CMの最後で、唐突に「アゴが外れるほど怖い」というナレーションが入る。なんともクセの強い表現で、この文言を初めて聞いた時は爆笑してしまった。ガチで怖い映画なのか、オモシロ系のホラーなのかわからなくさせる感じはあるけれど、言葉のインパクトとしては最高だなと思う。ただ、誇大広告に厳しい昨今、「見たけどアゴが外れませんでしたよ?」なんてクレームを言う人が出てこないだろうかと少し心配になる。
それとは対照的だなと思うのが、アン・ハサウェイが出演している「ラックス スーパーリッチシャイン」のCMで、彼女が廊下の先で扉を開けて光の中に飛び出していく瞬間、画面の隅に「*CM上の演出です」という文字が出るのだけれど、この「演出」がいったい何のことを指しているのかがまったくわからない。
扉の先に床がないのに飛び込むのは危険なのでまねしないでくださいという意味なのか、人間が空を飛ぶこと自体が演出ですという意味なのか、はたまたシャンプーだけではこういう髪質にはなりませんという意味なのか、その文言が何を指しているのか、まるで見当がつかないのである。
ラックスはこのシャンプーに限らず、どの商品のCMもそんな調子で、一瞬では到底読みきれない量の注意書きが画面の隅に秒刻みで出ては消えていくのである。
こうして百歩先まで読んでクレームに備えるCMもあれば、唐突に「アゴが外れるほど怖い」と言い切るCMもある。面白い時代だなあと思う。
ホスト界の帝王ローランド様。彼の名言が大好きである。彼が一般の人の悩み相談にのるという企画の番組で、「忙しくて時間が足りない」と話す女性に、「自分が輝きまくれば、早上がりしても、あと2時間くらいは残像が働いてくれる」とアドバイスしていた。
さすがである。もちろん、日々タイムカードを押して働いている人にとっては、このアドバイスは笑い話で、あまり有効ではないのかもしれないけれど、ステージに立つ人にはおそろしくためになるのではないかと思った。
というのも、私は音楽業界に身を置くようになって20年以上が経つけれど、ライブやコンサートを観(み)に行って、アンコールがなかった公演をほとんど見たことがない。どこへ行っても最後に必ずアンコールをやるのである。
思えば、自分がバンドをやっていた時も、ワンマンライブでは必ずアンコールをやっていた。デビューして間もない頃は「アンコール」という欄が、リハーサルのごく初期の段階からデフォルトでセットリストに設けられていることにものすごく違和感を覚えたけれど、 すぐに“アンコールは一度ステージを下りてからもう一度上がるという会場の空気のリセット感を利用する演出”みたいな認識になっていった。おそらく、多くのアーティストの皆さんもそんな感覚でアンコールをやっているのだと思う。
でも、どうだろう。たしかに、「ステージで輝きまくったら、あと3曲分くらいは残像が働いてくれる」はずである。そうなると、アンコールなんてものは必要がないのではないだろうか。いや、もっと言えばワンマンライブなど年にそう何回もできるものではないから、少なくとも次にやるまでの向こう1年くらいは、お客さんの目に焼き付いた“残像”に働いてもらわなければ、次のライブに来てもらえないかもしれない。この「残像に働いてもらう」という発想は、ステージに立つ者にはものすごく有効なアドバイスなのでは、と思った。
<mini column> サンタに願いを
今、コカ・コーラのクリスマスCMで流れているLittle Glee Monster『愛しさにリボンをかけて』の歌詞を書いている頃、世間はまだ半袖で歩いている人もたくさんいたのだけれど、我が家では少しでもクリスマス気分を出そうということで、ハロウィーンなんかよりもずいぶん先に、早々にリビングにツリーを飾った。
あまりにも早く出しすぎたせいで、もうツリーはすっかり部屋の風景の一部になってしまって、誰も明かりをつけなくなってしまったけれど、それでもクリスマスムードは何となく漂っているから、子供たちはサンタさんに何をお願いするかを、もうかれこれ長いこと考えている。
何カ月もの間、その時々に思いついた一番欲しいものを聞かされて、それが数日後にはいとも簡単に変わっていく様子を眺めていると、ああ、もはやクリスマスに何をプレゼントしても、どうせすぐに飽きるのだろうな、という予感しかしない。でも、あらためて子供という生き物はものすごいスピード感で生きているのだなと思う。
まるで、長いマラソンの途中、給水地点でボトルをつかんだランナーがほんの数秒で飲み干してボトルを投げ捨てるかのように、子供たちは待ち焦がれたおもちゃをクリスマスに手にしては、すぐに手放していくのだろう。
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