共感にあらがえ

<10>「不快な共感」から「深い共感」へ—— 傷つけ合うことで生まれるもの(東畑開人×永井陽右)

苦難の就職活動の末に沖縄の精神科デイケア施設に職を得た、京大出身の心理学ハカセ。カウンセラーとしての職能を遺憾なく発揮すべく沖縄に乗り込むが、求められたのは毎日「ただ座っていること」だった――。

臨床心理士・東畑開人さんが2019年2月に出版した『居るのはつらいよ』(医学書院)は、著者の実体験をもとに、知られざる「居場所型デイケア」の内情をつづった話題の書。

舞台となるデイケア施設には、精神を病んで社会生活を維持できなくなった人たちが集まり、職員たちと日々を過ごします。そこには茶飲み話があり、遊びがあります。

そうした日常を通じて“ただ居ること”を肯定する「ケア」の本質を示す同書は、“共感できない(されない)人同士の共存”の在り方を描いた一冊ともいえます。

テロ・紛争解決の専門家である永井陽右さんが、「共感」を重要視する社会の問題点を考察する連載「共感にあらがえ」。今回は東畑開人さんが考える「共感」に永井さんが迫ります。

TOP画像:東畑開人さん(左)と永井陽右さん(右)

共感には「不快な共感」もある

永井 この連載では、いま様々な領域でもてはやされている「共感」が持つ問題点を考察してきました。臨床心理の世界では、共感はどのようなものと考えられてきたのでしょうか。

東畑 カウンセリング業界では「共感」は最重要タームです。人が人を「わかる」ことがいかに人を支えるかは、いくら強調してもし足りないくらいです。ですから、カウンセリングが日本に入ってきた1950年代から「共感が大事」ということはあふれんばかりに言われてきましたし、クライエント(患者)に共感できないカウンセラーは「へたくそ」なカウンセラーと言われていました。共感はカウンセラーがなすべき至上命令だったわけです。

ところが、1970年代に共感論は進化します。「共感すべし」という考えから、「なぜ共感できないのかを考えよう」という流れになった。いくら共感しようとしても、共感できないときもあるからです。そのときに、「共感しなさい」と怒られても、できないものはできない。そもそもカウンセリングに来られるのは、簡単には共感してもらえなかった人たちですからね。

だから、共感が難しいときに、なぜ共感できないのかを考えながら相手を理解していくことが、心理士の専門性だと考えられるようになりました。実際、簡単には共感できない部分って、まさにその人らしさがあるところですから。

東畑開人さん

今はさらにもう一段階進化しています。共感できないときに起こるカウンセラー側のさみしさやつらさ、もどかしさなどのネガティブな感情が、実は共感の結果なのではないかと考えられるようになっているんです。永井さんの本でも、ソマリアでギャングとやり取りしているときの複雑な感情がつづられていますよね。

永井 ギャングと揉(も)めたり裏切られたりすることは、今でも変わらずよくあります(笑)。

東畑 裏切られると、僕らはみじめな気持ちになる。こっちはこんなに頑張っているのに何でだよ!って。だけど、実はその気持ちこそ、ギャングたちがいつも感じているもので、それが永井さんに投げ込まれているのではないかと、現代の臨床心理学は考えます。つまり、裏切ることを通じて、ギャングたちは日々自分が感じているみじめな気持ちを、永井さんに味わわせているということです。これを「不快な共感」と呼んでもいいかもしれません。自分が感じている不快さに、実は相手の心が宿っているということです。似たような例はよくあります。

例えば、職場の上司から「お前は馬鹿だ」と言われたら、僕らは「俺は馬鹿なんだ」と思ってつらくなりますが、それはもしかしたら上司自身が日々、自分のことを馬鹿だと思っている気持ちをぶつけられているのかもしれない。

永井 共感というと普通、強い快感や憐憫(れんびん)を伴う感情をイメージしますよね。それこそ社会的にしくじった人をSNSでたたくことなどもある種の快感ですし。でも「不快な共感」というものも存在するわけですか。

<10>「不快な共感」から「深い共感」へ—— 傷つけ合うことで生まれるもの(東畑開人×永井陽右)

東畑 不快を感じるということは、相手と接触しているから起こることです。遠巻きにして、かかわりを持たなければ、不快を感じることもありません。

クライエントは、カウンセリングを始めたばかりの頃はカウンセラーと距離がありますが、何カ月か経つと、徐々に普段の社会生活では出さないような自分を出すようになります。それはもちろん、その人の弱々しい部分や苦しいところが率直に出てくることもありますが、逆に普段は隠されている尊大な部分や攻撃性、不信感が出てくることもあります。それはある意味で、気持ち良くない部分ですね。

そういう部分を出してしまうと、日常の人間関係は破綻(はたん)しがちですが、カウンセリングではそういう部分が展開されていくことも大事だと思っています。そこにこそ、その人のつらさがあるわけですからね。そのとき、カウンセラーは別に仏ではないので、攻撃されれば、当然苦しい思いをします。怖くなったり、気持ち良くなかったりします。だけど、そういうときこそ、まさにその人らしさに触れていると思うのです。不快な共感についてじっくり考えることで、相手の抱えている苦しさが見えてくるし、2人でそのことについて話し合うことができるようになってくる。もちろん、それは簡単なことではないけれど。

永井 関係性が深くなるほど不快なものが出てくるというのは、普通の人間関係でもある話ですよね。例えば、家族や恋人といった身近な人たちから自分勝手とも思えるさまざまな要求がなされたとき、どこまで自分は相手に向き合わないといけないのかという問題が出てきます。ケアの必要性は理解できていても、それ以外のことを思い浮かべてしまい、要求に応じたくないと思ったりすることもしばしばある気がします。そうした事情から、地球の裏にいるテロリストよりも隣県にいる親のほうが、ケアが難しかったりするのです。

<10>「不快な共感」から「深い共感」へ—— 傷つけ合うことで生まれるもの(東畑開人×永井陽右)

東畑 そういう事態について、『居るのはつらいよ』では「ケアとセラピー」という二分法を導入して考えてみました。簡単に言ってしまうと、「ケア」は傷つけないようにすること、「セラピー」は傷つきに向き合うことです。あるいは、ケアはニーズを満たすことで、セラピーはそのニーズが満たせないことに向き合うこと、といってもいいかもしれません。

このとき重要なのは、基本的にはケアが先で、セラピーが後ということですね。永井さんのお話で言えば、大切な人から何かしらの要求がなされたとき、僕らはまずはそのニーズに応えようとします。そしてうまく応えられれば、それでOKです。

だけど、どうしても相手のニーズを満たしきれないときがあるわけです。それは近い関係であればあるほど生じることですよね。すると、そこには傷つきがあふれます。気持ち良くないことが起きます。相手は無理な要求をすることで永井さんのことを傷つけるし、永井さんも要求に応えられないことで相手を傷つける。そのときに、きちんと話し合い、ニーズを満たしきれないという現実と向き合おうとするのがセラピーです。

そういう意味では、セラピーには気持ち良くない時間が含まれています。不快なことを不快なままにきちんと話し合おうとすると、当然しんどい。だけど、そういう気持ち良くない話を避けてしまうと、結局2人のつながりは失われ、ただの他人同士になってしまいます。だって、気持ち良くないことをなくすには、遠く離れちゃうのが一番ですからね。でも、そうすると、寂しくなってしまう。

永井 なるほど。ただ、相手のためとはいえ、傷つくことになるわけですよね。それはそれでしんどい。大したインセンティブもなく自分が傷つくだけなら、関わらなくていいやと思うほうが自然な気もします。究極的にいえば、関心のない社会問題をスルーしようとすることも、似たような心理が働いているのではないかと思います。

東畑 いまは不快なことから簡単に撤退できる世の中です。ただでさえ狭いSNSの世界で、ブロックやミュートをしてさらに引きこもる。これは不快な共感を拒否する行為です。そうすると、ひとまずその人の世界は平和になるのだけど、実は見えない世界のことはますます理解できなくなって、嫌悪感が強まります。ですから、気持ち良くない相手と一緒にいること、そして感じている不快さについて考えることで、知らない世界を学ぶことも、ときには必要だと思うのです。

<10>「不快な共感」から「深い共感」へ—— 傷つけ合うことで生まれるもの(東畑開人×永井陽右)

永井 どうしたらそのような不快な共感に耐えられるのでしょうか。東畑さんは著書で、沖縄のデイケアでカウンセラーとして働いていたとき、デイケアに集まる人たちにいわゆる「不快な共感」を抱くこともあったけど、彼ら、彼女らとただその場に「いる」ことを肯定していました。

東畑 身もふたもない言い方になりますが、「慣れる」ですね。一緒にいたくない人といなくていい自由があるのが市民社会。だけど、その自由を行使しすぎると、孤立します。そうすると、生きるのが苦しくなってしまう。世界のすべてが自分の敵のように思えてくるからです。だからこそ、デイケアは大事なんです。家にひとりでいると世界はどんどん恐ろしくなるから、彼らは人と一緒にいることに「慣れる」ためにデイケアにやってきます。

当然、彼らにとってはそこに集う他者を不快に感じることも多いし、援助者の側だって不快なことはあります。だけど、一緒に居続ける中で、少しずつお互いの不快感は消化されていきます。それは「ネガティブ・ケイパビリティ」と呼ばれたりもしますが、負のものに耐え、消化する力です。そうやって、人と一緒にいることができるようになる力です。バイトの初日とか、それですよ。ネガティブ・ケイパビリティによって、徐々に気まずい職場に馴染(なじ)んでいく。

自己責任社会の功罪

永井 先ほど近い人間関係の人へのケア、セラピーの考え方についてお話がありましたが、全く関係のない人に対するケアやセラピーについてはどう考えればいいのでしょうか。例えば道ばたで苦しそうな高齢者と目が合った場合、僕はどうあるべきなのだろうかとよく考えてしまいます。

東畑 要は“おせっかいを焼く”ということですよね。これがまた難しい。おせっかいには勇気が必要です。電車で席を譲るのも勇気がいるじゃないですか。相手が座ってくれたらいいのだけれど、「いや、いいんで」とキッパリ断られたら傷つく。一方で、相手も席を譲られそうになったことに傷ついているかもしれないですしね。現代にあって「おせっかい」とは冒険です。

それだけ人に頼るのは難しいことだと思います。おせっかいを焼かれると、弱者になった気持ちがしたり、他者が侵入してくる感じがしたりしますから。もしかしたら、僕らは「助けてもらう力」を鍛えた方がいいかもしれないですね。弱い部分を人にゆだねる力、馬脚をあらわす力、油断して素を漏らす力。それらは小学校で全否定されちゃう力ですが(笑)。

永井 僕たちは基本的に頼る、助けてもらうことが苦手というのはその通りだと思います。そして同時に実は頼りたい、助けてほしいと心の中で思っていたりもする。だからこそ、簡単に他人に頼っている人のことを見るとつい許せなくなってしまう。頼らないで生きることをよしとする自己責任の社会だから、頼りにくい、頼ることに罪悪感を抱くということもあるのかもしれません。

<10>「不快な共感」から「深い共感」へ—— 傷つけ合うことで生まれるもの(東畑開人×永井陽右)

東畑 自己責任社会は批判されがちですが、いいところもあります。それは「自由」ということです。そして、僕らは自由が好きですし、自由を奪われると深く傷つきます。難しいのは、頼ることが自分を不自由にすることでもあることです。そうですよね、人の肩を借りたら、その人のペースでしか動けなくなってしまう。だから、僕らは頼るのが苦手なのでしょう。

自由を謳歌(おうか)している人ほど人に頼るのが苦手で、その代わりに仕事とか、酒とか、あるいは薬物とかに頼ってしまって自滅してしまう。

永井 安心して頼れる場所もないので、どこかに吐き出そうという発想も出てきそうです。SNSで裏アカウントを作って、すべてを吐き出してスッキリしている人もいれば、ネット上で誰かを一心不乱にたたく人もいる。

東畑 そういうのは逆にメンタルを悪くすることがあるのではないかと思うんです。吐き出すと一時的にスッキリした感じはするけど、現実はあまり変わらないから、吐き出したものが倍になって戻ってきてしまう。だから、何かを吐き出すなら、それを受け止めてくれる人に吐き出した方がいいと思います。

<10>「不快な共感」から「深い共感」へ—— 傷つけ合うことで生まれるもの(東畑開人×永井陽右)

夕日に向かって「バカヤロー」と叫んでも空しいのは、夕日はこっちのことを気にかけていないからです。それから、本当に叫びたかったのは、「バカヤロー」じゃないかもしれない。僕らは自分が何を吐き出したいのかを、実はよくわからないんだと思います。時間をかけて吟味してみると、本当に吐き出したかったのは「さみしい」という小さな声だったとわかるかもしれない。吐き出すのも簡単じゃないんですね。

永井 確かに「時間をかける」は、自分のままならない感情を理解し、それに振り回されないためのカギのように思います。ただ、現実問題として、いま特にネットの世界では時間をかけることは許されない。そして僕らは扇情的な情報に感情を揺さぶられ、半ば反射的に行動してしまう……。こうした潮流に一石を投じるためにはどうしたらいいと思いますか。

<10>「不快な共感」から「深い共感」へ—— 傷つけ合うことで生まれるもの(東畑開人×永井陽右)

東畑 現実として、仕事も非正規雇用が増えていて、1年後はどうなっているかわからないと感じておられる方はとても多いと思います。社会が個人をじっくり抱えてくれるという保障がなくなっているから、生き残るために、僕らは短期的な思考をせざるをえない。先のことを時間をかけて考えるのが難しくなるほどに、社会が貧しくなっている。

80〜90年代、日本社会が豊かだった頃の臨床心理学は「じっくり心の深い部分を考えよう」と語っていました。それが2000年代に入って短期で成果が出る心理的援助の重要性が盛んに語られるようになりました。

財源に限りがある中で、悠長なことをやっている余裕がなくなったということだと思います。日本社会の急激なシュリンクを背景にして、僕らは短期でサバイブすることを考えざるをえなくなったんだと思います。そういう意味ではあまり個人を責めることができない。

永井 それは僕の分野でも人ごとではありません。例えば紛争地における元テロリストの脱過激化一つとっても、成果を可視化するのが非常に難しい活動にもかかわらず、それを求められる傾向にあります。それゆえ、予算をもとにKPI(重要業績評価指標)を設定し、測定できる指標を置いて成果をチェックし、「最終的には○○人に脱過激化プログラムを提供した」などとわかりやすい数字をはじき出す。そしてそれがさらなる予算獲得のために語られていく。

発言内容から本心を読み解く最新のテキスト分析であっても、人の内面を丸裸にすることは難しい。分析結果の通りに元テロリストが過激な行動をやめるとは限らないのに、そうした不確実性が低くない分析結果ですら、成果の可視化のために使われてしまう現状があります。

東畑 お金がないのも、何事も単純な評価基準に頼ってしまうのも、社会の仕組みの問題です。だけど、逆説的なことに、そういう貧しい時代ほど、自己責任が要求されることになり、人は「社会が悪い」とはなかなか思えなくなってしまう。何か問題があったときに、どうしても自分を責めてしまうんです。

<10>「不快な共感」から「深い共感」へ—— 傷つけ合うことで生まれるもの(東畑開人×永井陽右)

例えば、就職活動がうまくいかないとき、「自分に能力がないからだ」と思ってしまうんですね。でも、そもそもそういう雇用状況にしている国や企業にも問題があるはずなんです。だから、僕は心理学科の学生にも、社会学の本を読んだほうがいいと言ってます。心理学の本だけだと、どうしても自己責任に帰結してしまうから。

永井 この自己責任社会において、「社会が悪い」と思っていい、ということは一つ救いのように聞こえます。どうしても自己責任論というのは“潰し合い”のような側面が見受けられますし。

東畑 経済格差が広がっていることも背景にあるかもしれませんね。格差によって、異なる人同士が互いを不快に感じる程度が増しているように思います。そして、その不快さを避けるためにそれぞれ自分と同じ人たちのコミュニティーに逃げ込んでいます。すると、大きな社会の問題が見えなくなり、潰しあいになってしまう。ここでも、不快な共感に持ちこたえないといけないんでしょうね。それは普段の自分には見えない世界と接触することなのですから。

永井 確かに価値観が多様化するいま、コミュニティーの異なる人だったり、価値観が違ったりする人に対して、いわゆるポジティブな共感を寄せることは難しいと思います。けれども、考え方の異なる相手を攻撃するのではなく、まずその違いをありのままに理解する。“不快との共存”には、そうしたスタンスが必要な気もしますが。

東畑 誰しも不快を避ける権利があります。だけど、不快を避けるだけになってしまうと、人は孤独になってしまう。他者とは自分と異なる存在なので、必ず不快なところがあるものです。だから、不快と向き合わずに、他者と深い関係を築くのは難しい。

あらゆる人と深い関係を築く必要はないけれど、付き合いを大切にしたい人とは深い関係があったほうがいい、と僕は思っています。そのとき、不快な思いをして互いに傷つけ合うプロセスを避けては通れません。誰かと一緒にいて不快な思いがするとき、僕らはその人と深く接触していることを忘れないでほしい。「不快な共感」は「深い共感」への入り口です。「共感」とは、お互いに傷つけ合うなかで、それでも相手を理解していくタフな営みだと思います。

(構成/安楽由紀子 撮影/林紗記)

<10>「不快な共感」から「深い共感」へ—— 傷つけ合うことで生まれるもの(東畑開人×永井陽右)

プロフィール

東畑開人(とうはた・かいと)
1983年生まれ。2010年京都大学大学院教育学研究科博士課程修了。沖縄の精神科クリニックでの勤務を経て、現在は十文字学園女子大学准教授。2017年に白金高輪カウンセリングルームを開業。専門は臨床心理学、関心は精神分析・医療人類学。著書に『美と深層心理学』(京都大学学術出版会)、『野の医者は笑う』『日本のありふれた心理療法』(以上、誠信書房)、『居るのはつらいよ──ケアとセラピーについての覚書』(シリーズケアをひらく、医学書院)、監訳書に『心理療法家の人類学』(ジェイムス・デイビス著、誠信書房)がある。

共感にあらがえ

<10>「不快な共感」から「深い共感」へ—— 傷つけ合うことで生まれるもの(東畑開人×永井陽右)

<09>感情に流されるSNSの世界 多角的な視座を持つには……?(永井陽右×春名風花)

<08>共感で連帯するのは危険! 価値観が異なる人同士の協働(内田樹×永井陽右)

<07>感動ポルノはいい気がしない キャンベルさんの本心(永井陽右×ロバート・キャンベル)

<06>路上生活者を助ける義務は? 自由と理性のあり方を考察(永井陽右×御子柴善之)

<05>自由が生み出す残酷な現実 共感する自由/しない自由

<04>「共感」が生み出す攻撃性 集団心理の背景にあるもの

<03>加速する「共感の奪い合い」 国際協力の場で広報合戦が拡大

<02>見過ごされる“共感されにくい人たち” どう救うべきか?

<01>世界最悪の紛争地から考える「共感」の限界

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「&M(アンド・エム)」はオトナの好奇心を満たすwebマガジン。編集部がカッコいいと思う人のインタビューやモノにまつわるストーリーをお届けしています。

PROFILE

永井陽右

1991年、神奈川県生まれ。NPO法人アクセプト・インターナショナル代表理事。国連人間居住計画CVE(暴力的過激主義対策)メンター。早稲田大学教育学部複合文化学科卒業、London School of Economics and Political Science紛争研究修士課程修了。テロと紛争の解決に向けて活動中。著書に「ぼくは13歳、任務は自爆テロ。: テロと戦争をなくすために必要なこと」(合同出版)など

<09>感情に流されるSNSの世界 多角的な視座を持つには……? (永井陽右×春名風花)

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