本を連れて行きたくなるお店

不遇な運命を背負った女性死刑囚に、温かい手料理が与えられていたなら 早見和真『イノセント・デイズ』

カフェや居酒屋で、ふと目にとまる、ひとり本を読んでいる人。あの人はどんな本を読んでいるんだろうか。なぜその本を選んだのだろうか……。本とお酒を愛する編集者で鰻(うなぎ)オタクの笹山美波さんは、本の中の物語が現実世界とつながるような、そんなお店に連れて行ってくれます。

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東海道新幹線車内殺傷事件、農水省の元事務次官による息子殺害など、聞くとやりきれない気持ちになる悲しいニュースが相次いでいる。ひと昔前なら「残忍」と一刀両断されることも珍しくなかったが、今は加害者の心理を読み解きながら、なぜ事件が起きたのか議論されることが増えたように思う。

この流れをきっかけに、加害者や事件の背景に思いを巡らすことがあれば、読んでみてほしいミステリー小説がある。『イノセント・デイズ 』(早見和真・著)だ。

『イノセント・デイズ』は、主人公の田中幸乃(30)が、自分を捨てた元恋人・井上敬介へのつきまといの末に敬介の家に放火し、その妻と双子の子供をあやめた罪で、死刑を宣告される衝撃的なシーンから始まる。事件の背景には何があったのか。本当に彼女が火をつけたのか。彼女の家族や知人の回想とともに、真実が明らかになっていく。

2015年に日本推理作家協会賞を受賞した本作は、2018年にテレビドラマ化もされ、竹内結子さんが幸乃を演じた

2015年に日本推理作家協会賞を受賞した本作は、2018年にテレビドラマ化もされ、竹内結子さんが幸乃を演じた

不幸が不幸を呼ぶ、痛ましい半生

幸乃の人生は悲惨だった。生まれつき神経系の病気を持ち、幼少期に母が死に、家庭は崩壊。継母代わりの祖母には虐待を受けていた。貧しく、暗く物騒な街に住み、学校ではいじめられ、敬介にも暴行されていた。そうした半生が、今にも消えてしまいそうなほど精神を危うくした。

愛情を十分に与えられなかった幸乃は、見捨てられ不安が強かったのだろう。いじめに巻き込まれる不安から、条件付きでしか一緒にいてくれない友達に優しくし、とある罪までかばったり、DVをする敬介には手料理をけなげに振る舞い、金の無心まで応えたりと、自身が我慢することによる行き過ぎた優しさを見せた。

だから、長く付き合った敬介に一方的に振られた時には強く執着した。唯一の心のよりどころがいなくなってしまうのだから。放火殺人の容疑で捕まってからは、これ以上誰かに裏切られるのが怖いと、強く死を願った。

舞台の中心となったのは横浜市中区の野毛、曙町、寿町や山手。野毛は今は新しい店も増えて観光地化していることもあり、場所によっては物語ほど薄暗い雰囲気はない

舞台の中心となったのは横浜市中区の野毛、曙町、寿町や山手。野毛は今は新しい店も増えて観光地化していることもあり、場所によっては物語ほど薄暗い雰囲気はない

とはいえ、野毛とその先を結ぶ都橋を渡ると、昼間でも撮影がはばかられるような、高級車や眼光鋭い男性が見受けられた。幸乃はそういった街のスナックで育てられた

とはいえ、野毛とその先を結ぶ都橋を渡ると、昼間でも撮影がはばかられるような、高級車や眼光鋭い男性が見受けられた。幸乃はそういった街のスナックで育てられた

我を忘れてむさぼるほど、家庭の味に飢えていた

幸乃が愛情に飢えていたのが分かる象徴的なシーンがある。普段は遠慮がちで、周囲を気にする性格の幸乃が、友達の家で振る舞われた夕食をむさぼるように食べたのだ。どんなに願っても家では食べられなかった手料理。切なくて、おいしくて仕方がなかったのだろう。

その日食べた肉じゃがは、敬介に振る舞う手料理の定番メニューになったほどだ。数少ない誰かに与えられた愛情を、彼氏にも与えたいと思ったのではないか。とことんDVを働いてきた敬介が別の女性と家庭を持てたのは、そうやって愛情を注がれ続けたお陰かも知れない。敬介に与えられたように、彼女も与えられるべきだった。

愛情を感じられる手料理に心安らぐ

小説の舞台となった横浜市の野毛に「月読(つきよみ)」という小料理屋がある。昭和の懐かしい和食を中心に、管理栄養士の女将(おかみ)が栄養価の高い料理を振る舞うお店だ。コンセプトは食生活の乱れがちな独身・単身の人が通えるお店というだけあって、値段もボリュームもちょうどいい。この店を見つけた時、幸乃を連れて行ってあげたいと思った。

カウンター越しに女性店員さん方の柔らかくもはつらつとした働きぶりを見ると、家族や親戚を見ているような気持ちになる

カウンター越しに店員の柔らかくもはつらつとした働きぶりを見ると、家族や親戚を見ているような気持ちになる

お通しには、日替わりおばんざい(京都で日常的に食されている総菜)が提供される。この日は鶏肉のテリーヌ、自然薯(じねんじょ)のトンブリのせ、春雨のあえ物の3種の冷菜に、熱々の鳥豆腐の小鉢と盛りだくさん。

おなかをすかして実家へ帰り、次々に作りおきの料理を出してもらった時のような興奮を覚えた。料理で伝えられる歓迎の気持ちに胸がいっぱいになった。

お店のこだわりは一切添加物を使わないこと。味の決め手になるだしは、昆布とかつお節のほか、野菜をたっぷり使ってふくよかな香りと甘みに仕上げている。

イチオシはそのだしに揚げ物のフライを浸した「だし汁フライおでん」。一番人気のアジフライをいただくと、意外な組み合わせにもかかわらず、すぐにとりこに。甘いだし汁を吸ったふわふわの衣に、フライ由来の強いコクが口いっぱいに広がった。

塩っぱいものや酸っぱいもの、味付けがひとつひとつ違うお通しに心配りを感じる

塩っぱいものや酸っぱいもの、味付けがひとつひとつ違うお通しに心配りを感じる

サクサクでなくふわふわ食感のフライに驚き。最近話題の「コロッケそば」が好きな人はすぐに気に入るはず(490円)

サクサクでなくふわふわ食感のフライに驚く。最近話題の「コロッケそば」が好きな人はすぐに気に入るはず(490円)

おいしくてあれもこれも食べてみたくなり、メニューを決めかねる。こんな時は女将にお任せしてみようと「おばんざいのおまかせ2品」を注文。具だくさんのおからの煮物とアツアツのサバのしょうが煮を出してくれた。ちょっぴり濃いめの味付けで、ビールもご飯も進むうれしい味。

月読にいると優しい気持ちになれる。工夫を凝らしたたくさんのメニューと、食べる人が少しでも栄養を取れるようにと野菜をふんだんに使った料理に、作り手の心遣いを感じるからだろう。月読の料理には、食べた誰しもの心が女将の愛情で満たされる、そんな力がある。

)ふんだんに野菜を入れたおからの煮物。月読がオープンする前、同じ場所に店を設けていた老舗居酒屋に作り方を教わり、少しアレンジを効かせたそうだ

ふんだんに野菜を入れたおからの煮物。月読がオープンする前、同じ場所にあった老舗居酒屋に作り方を教わり、少しアレンジを利かせたそうだ

冷えに効くしょうがたっぷりのサバのしょうが煮。おからと合わせて898円とリーズナブル

冷えに効くしょうがたっぷりのサバのしょうが煮。おからと合わせて898円とリーズナブル

ギリギリで生きている時、心の支えになるのが手料理

大なり小なり、一筋縄ではいかない事情を世の中の誰しもが抱えている。悲惨な生活をしていたことが、罪を犯していい理由にはならない。中には立派に暮らしている人もいるのだから。

けれども、自力では状況を変えられず、愛に飢え、死にたいと願う幸乃のような立場の人も少なくない。支援やサポートを自ら受けに行けるくらいになるまで、少しでも力を与える方法はないか。

手料理が手段の一つにならないだろうか。温かな手料理を食べると、誰かが自分のために尽くしてくれた喜びで満たされる。心がやすらぎ、明日への活力になる。幸乃が手料理を心ゆくまで食べられていたら、運命は少し違っていたかもしれない。彼女のような人が少しでも多く、手料理を食べに通えるお店に出会えますように。

「月読」は、温かな光を灯して迎えてくれるので、伺えば不思議と「帰ってきた」気持ちになる

「月読」は、温かな光を灯して迎えてくれるので、訪れると不思議と「帰ってきた」気持ちになる

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横浜おばんざい 月読
神奈川県横浜市中区野毛町3-133-1
050-5595-9491
営業時間
平日:16:00~22:00(金曜のみ23:00)
土:16:30~23:00
日・祝日:16:30~21:00

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PROFILE

笹山美波

「東京右半分」に生まれ育つ。編集記者を経て、外資マーケティングサービスのWebプロデューサー、マーケター。ライター。鰻オタク。東京と食に関連する歴史/文化/文学/お店を調べるのがライフワーク。

初めて行ったカフェで過ごす時間が、大きな転換点になるかも 荒木源『残業禁止』

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誰かの視点で街を歩くと、見慣れた場所にも発見が 雨宮まみ、鈴木敏夫、枝優花ほか『わたしの好きな街 独断と偏愛の東京』

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