20代ミュージシャンが語る“譲れない価値観”

Daichi Yamamoto 自分を縛る「他者の視線」から抜け出す戦い

Daichi Yamamotoは1993年に京都で生まれたアーティストだ。父は老舗クラブ「METRO」のオーナーで、母はジャマイカ人。昨年発表した1stアルバム『Andless』が高く評価され、Spotifyによる2020年に飛躍が期待される10組の日本人アーティストの1人に選ばれた。さらにアパレルブランド「ヘリーハンセン」のコレクションでルックモデルに抜擢(ばってき)されるなど、ファッションの分野からも注目を集める。

その華麗な活動からは想像がつかないほど、苦労を重ねてきた。多感な時期に他人の偏見で心を乱され、大学時代にはすさんだ生活からパニック障害を経験したことも。苦しい日々の中で己と向き合った末に開けた表現者としての道。アーティストDaichi Yamamotoが生まれるまでの戦いの日々を追う――。

もやもやした感情を表現したくて知識を求めた

「子供の頃はすごく活発でした。バスケ、サッカー、空手……スポーツはいろいろやっていましたし、絵を描くのも大好きで、自分でストーリーを考えたマンガを描いて、両親に見せたりもしていました。小学校の同級生とは、良くも悪くもどこか感覚が合わなかった気がします。自宅に遊びに来た父の知り合いと幼い頃から話していたからかもしれません。いろんな大人がいたし、彼らは少なからずクリエーティブなマインドを持った人たちでした」

Daichi Yamamoto 自分を縛る「他者の視線」から抜け出す戦い

Daichi Yamamotoは柔和な口調で半生を振り返る。アルバム『Andless』の収録曲「Be Good」には「昔女の子が俺の肌さわりたくないってさ / だってなんか汚ねえじゃん / 俺それで傷ついた」というリリックがある。

10代の頃から容姿をからかわれることは少なからず経験した。当時は感情を言葉にできず、暴力を振るってしまうこともあった。絵を描くのが好きだったのも、気持ちをそのまま抽象的に表現できるからだ。

周囲の視線が怖くなり、人との関わり合いに後ろ向きになっていた高校時代、小学校時代の親友から、ヒップホップをはじめ多様な音楽を教えてもらった。中でも影響を受けたのがShing02。90年代後半から活動するバイリンガルラッパーだ。

「当時の僕には自分の内にあるもどかしさを表現したいという強い欲求がありました。だから日本語や英語を複雑に駆使して、ユニークでカッコいいラップをするShing02に夢中になりました。一番好きな作品は『400』です」

2002年2月22日に発表されたShing02の2ndアルバム『400』は、Shing02のディスコグラフィーの中で最もストレートに社会への違和感を表明した作品だ。「400! / 字詰めに煮詰めて己を見つめて言葉を沈めて / 400! / 世の中の嘘800真っ二つに切る言葉」というタイトル曲で歌われるリリックは日本のヒップホップ史上屈指の名ラインとして知られる。その豊富なボキャブラリーに導かれる圧倒的な表現力にDaichi Yamamotoは憧れた。

Daichi Yamamoto 自分を縛る「他者の視線」から抜け出す戦い

激動のロンドン留学生活と、恩師との出会い

Daichi Yamamotoの人生を大きく変えたのは、ロンドン芸術大学への留学だ。浪人時代、ふと海外に興味が湧いて、勢いで決めたというロンドンでの生活は、想像を超えるほど大変だった。

まず苦労したのがコミュニケーション。アメリカ英語に慣れていたDaichi Yamamotoにとって、発音やアクセントが異なるイギリス英語は聞き取りが容易ではない。最初の3カ月はコミュニケーションを取ることで精いっぱいだった。だが一番苦労したのは経済面だ。

「うちは貧乏ではないけど、裕福なわけではない。父は、“貧乏は若いうちに経験しとけ”みたいな教育方針で、仕送りの額も本当にギリギリ。ビザの関係で滞在1年目は週10時間しか働けず、バイト先も見つからない。当然まともなところには住めません。麻薬の取引に使うような家だったり、常に知らない誰かと相部屋だったりして、最初の1年で8回くらい引っ越しました。正直、あの時期は家と呼べる場所はなかった」

Daichi Yamamoto 自分を縛る「他者の視線」から抜け出す戦い

Daichi Yamamotoは居場所を大学に求めた。学習環境として優れていたことに加え、ロンドン芸術大学には世界各国から学生が集まり、互いを支え合う文化があったことも大きい。

学内のパブには教授を含め誰もが気軽に集まり、多様なコミュニケーションを交わす。講義の疑問点に始まり、芸術、音楽、政治、哲学といったアカデミックな話から世間話にいたるまで。

一時期人付き合いから遠のいていたDaichi Yamamotoも、いつしかパブに通い始め、学生や教授らと交流を図るようになっていた。だが、過酷な生活環境に心を蝕(むしば)まれた彼は、大学1年の終わり頃パニック障害になり、学校に行けなくなってしまった。

“よく見る顔”がパブにも姿を見せなくなったものだから、懇意にしている教授は心配した。そして彼を呼び出し、人生に関するアドバイスを与えた。

「特に印象に残っているのは“今、この瞬間を悲観的に生きていることは、君の人生にとってすごくもったいないことだ”ということ。そして先生は僕に二つの課題を出してくれました。ひとつは古代ギリシャの哲学者、エピクロスについて調べること。彼は“人間は幸せになるのが一番簡単なんだ”という考え方を提唱していたんです」

Daichi Yamamoto 自分を縛る「他者の視線」から抜け出す戦い

「もうひとつは昨日自分を幸せにしてくれたことを毎朝三つ書き出す、ということ。本当に小さなことなんですよ、健康なうんこが出たとか。でもそれを毎日続け、さらに専門家のカウンセリングも受けることで、徐々にマインドシフトすることができました。なんだかんだ1年半くらいかかったかな」

Daichi Yamamotoは様々な支援のもとで、徐々に回復していった。だが、良くなりかけた頃に再び彼のメンタルを悪化させる事態が起きてしまう。ポンドが高騰して経済的なダメージを受けたのだ。普通の生活すらも送れなくなり、大学も学費を払えるかわからず帰国を余儀なくされた。

「ようやく前向きに大学で勉強したい気持ちになっていたので、これは本当にキツかった。日本に帰っても、大学のことが気になって仕方がない。在学してる仲間の作品をネットでチェックしたりしながら、やっぱりどうしてもあの大学でもっと勉強したいと思いました。それでさらに学生ローンからお金を借りて、大学に戻ることにしました。もう借金まみれですよ(笑)。

でもそこで何かが吹っ切れたんです。後がないというか、二度も借金して留学してるんだから、時間を100パーセント有効に使わなきゃって。毎日学校が閉まるくらいまで勉強し続けました」

創作とは自分と向き合うこと

ロンドン芸術大学ではインタラクティブアートを専攻した。見る人を巻き込むことで成立する芸術表現だ。音楽や映像にも興味があったので、自分を表現する上ではもってこいだった。Daichi Yamamotoはこの頃から音楽を制作するようになる。自分で作曲し、ラップし、映像科の友人にPVを撮ってもらい、作品として展示していたという。

「大学の先生は“ものを作ることは自分と向き合うことだ”としつこいくらい言っていました。僕は自分なりに考えて、自分の日本人的な感性を表現したいと思った。それは例えば、鈴虫の鳴き声を美しいと思える感覚です。海外の人には、それは当たり前の概念ではないから」

Daichi Yamamoto 自分を縛る「他者の視線」から抜け出す戦い

創作と向き合う日々を送る中、ロンドンに息づく文化はDaichi Yamamotoに大きな影響を与えた。特にロンドンの音楽シーンで活動するアーティストたちの姿勢からは学ぶことが多かった。

「彼ら彼女らは自分たちの音楽に誇りを持っていました。例えば、最近アメリカでも人気があるストームジーやスケプタというラッパー。ヒップホップといえばアメリカが中心で、イギリスではまだまだマイナー。同じヒップホップだけど、ラップもトラックもかなり違います。

ロンドンではいろんな国の音楽が複雑に混じり合っています。レゲエ、アフリカ音楽、ロック、ポップス。ストームジーやスケプタはそんなロンドンの街の雰囲気を表現していました。彼らは有名になる前も、なった後もとにかく地元で愛されていた。イギリスのラッパーはアメリカっぽいスタイルに変えて向こうで売れる人もいるけど、彼らは地元愛全開のスタイルのまま、アメリカで評価されたんです。これはすごいことだと思う。

そういう活動を見てきたから、(日本で育った)僕も最初から日本で活動したいと思っていました。そこで、在学中から僕が共感するアーティストや音楽関係者に作品を送っていたら、その中からKOJOEさんやJJJとかが反応してくれた。あと『Andless』をリリースしてくれたレーベルのJazzy Sportも。実は高校の頃から大好きなレーベルだったので、返信があった時は本当にびっくりしました。大学を卒業して帰国したその日にレーベルの人と会ったんです(笑)」

自らの手でつかんだ1stアルバムのリリースのチャンス。その制作にあたって、Daichi Yamamotoは過去の自分の作品を振り返った。それは自分の姿勢を問い直す苦しい時間であり、気づきを与えてくれるポジティブな時間でもあった。

Daichi Yamamoto 自分を縛る「他者の視線」から抜け出す戦い

「僕は子供の頃から常に人と違うという意識があったし、誰かに見られている感覚がありました。だから何かを表現するにも、『こんなふうに言ったら相手にどう伝わるのかな……?』と自分で無意識にブレーキをかけていたんです。言いたいことにフィルターをかけすぎたせいで、学生時代に作った作品は僕の純粋な考えが反映されないものになってしまった。当然そういう表現は人の記憶に残らない。

だから1stアルバムの『Andless』は、なるべく正直に、これまで自分があまり言ってこなかったことを言おう、いろんな面を見せようというコンセプトで作りました。『Andless』というタイトルは、『undress(ドレスを脱ぐ)』のアルファベットを変えた造語です。制作では本当に自分と向き合いました。大学の先生が言っていた“ものを作ることは自分と向き合うことだ”という言葉の意味を思い知りましたね」

自身と真摯に向き合ってアルバムを制作したことで、Daichi Yamamotoにひとつの信念が生まれた。それは今、創作の幅を広げる大切な価値観として心の中に根を張り、彼を力強く支えている。

「自分の気持ちを正直に表現して、なんとか形にしてみると、わかってきたことがありました。それは結局、自分を一つのとらえ方で定義することなんて不可能だということ。子供の頃は、自分が日本人とジャマイカ人のどちらなのかを考えたこともありました。容姿について切ない言葉を浴びせられたりもしたし、その一方で僕を日本人より日本人らしいと言ってくれた人もいた。さらに優しいと言う人もいれば、短気と言う人もいる。きっとどの側面も僕の一部なんだと思う。それに僕自身の考えですら、1日ごとに変わってしまう。だとしたら、自分はこうだと定義しようとする行為は無意味だなと思うようになったんです」

Daichi Yamamoto 自分を縛る「他者の視線」から抜け出す戦い

「僕は常に柔軟でいたい。自分はこうだと決めつけてしまうのは、自分で可能性を潰しているように感じます。こういうことしなきゃダメとか、自分は人とあまり喋(しゃべ)れないキャラだからと決めつけちゃうと、そこから一生抜け出せないような気がして。だから僕はいつも状況を読みつつ、なるべく固定観念は取り払って生きていきたい。そしてそれを表現して作品に残していきたいと思っています」

Daichi Yamamotoの活動はまだ始まったばかり。豊かな感受性と柔軟な思考を持ってこの先どのような作品を制作していくのだろうか。彼のアーティストとしてのイメージを軽やかに超えていくような、驚きに溢れた作品に出合える日が今から楽しみだ。

(文/宮崎敬太 写真/寺沢美遊)

プロフィール

Daichi Yamamoto
1993年京都府生まれのラッパー。19歳からラップとビートの制作を開始。大学留学を経て、インターネットで自身が制作した楽曲を発表。2018年にSTUTSのアルバム「Eutopia」の収録曲「Breeze」に参加したほか、Aaron Choulaiと共作したEP「WINDOW」などを発表。19年9月に1stアルバム「Andless」をリリース。

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PROFILE

  • 「20代ミュージシャンが語る“譲れない価値観”」ライター陣

    宮崎敬太、阿部裕華

  • 宮崎敬太

    1977年神奈川県生まれ。音楽ライター。ウェブサイト「音楽ナタリー」「BARKS」「MySpace Japan」で編集と執筆を担当。2013年に巻紗葉名義でインタビュー集『街のものがたり 新世代ラッパーたちの証言 (ele-king books) 』を発表した。2015年12月よりフリーランスに。柴犬を愛している。

BiSH アイナ・ジ・エンドの抱える悩み・葛藤・弱さは、人間らしさに満ちあふれていた

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