インタビュー

「責任を取る――」万能な言葉が歪めた歴史認識を南京事件から問う 劇団チョコレートケーキの新作『無畏』

今年も8月がやってきた。

終戦から75年目の夏、コロナ禍で規模は縮小されながらも、各地で戦争体験を語り継ぐ催しが開かれている。新聞にも、老齢に達した語り部たちの艱難辛苦(かんなんしんく)の体験が載っている。行間にあふれる、おそらくこれで最後になるであろう証言を後世の平和の礎にしたいという切実な思いに触れるたび、厳粛な心持ちになる。と同時に、えも言われぬやるせなさを抱いてしまう。「加害」よりも「被害」のエクリチュールの方が圧倒的に多い、という理由だけでもない。

8月という月は、私たち日本人をどこか運命論者のようにしてしまう。連日の無差別空襲、抑圧体制、おびただしい家族・友人の死、人類初の核兵器の地獄、見渡す限りの廃墟、食糧難……。心底からの「戦争はこりごりだ」から戦後をスタートした日本にとって、8月は国を挙げての鎮魂の月であり、さきの大戦について思いを馳せる時期とされている。だがそこでは、抗いがたかった、という諦念として受け入れてしまった歴史の渦をもう一度遠心分離、解析し、そこで個々人が果たした役割や責任を自ら追及しようという意思は、なぜかいつも、飛び交う「平和」「自虐」「誇り」「過ちは繰り返しません」といった大声とともに、真夏の空気のなかに蒸発していってしまう。

そんななか、過去に向き合った1本の舞台作品が東京・下北沢で上演されている。いまなお未解決の「戦争責任」の問題だけでなく、我々がことあるごとに口にし耳にする「責任」という言葉とその意味に迫った秀作だ。

(取材・文=石川智也)

A級戦犯 松井石根は悪者か、悲劇の将軍か

史実を基にした骨太な社会派エンターテインメント作品で定評ある劇団チョコレートケーキが新作『無畏』で取り上げた題材は、1937年の南京事件の責任者、松井石根(まつい・いわね)。

松井は陸軍きっての親中派で、日中が協力して欧米列強の植民地を解放しようという大アジア主義を持論としながら、蔣介石の国民政府打倒を目指し、中支那方面軍司令官として上海から進軍、その過程で配下の部隊はいわゆる「南京大虐殺」を起こす。それが訴因となり戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯として起訴され死刑判決を受け、絞首刑に処される。

南京に入城した陸軍大将・松井石根軍司令官(中央)=1937年12月17日、朝日新聞データベースより

南京に入城した陸軍大将・松井石根軍司令官(中央)=1937年12月17日、朝日新聞データベースより

実は松井は後方で指揮を執っていたため南京入城は陥落後のことだった。大規模な捕虜殺害、放火、略奪、暴行があったと知るのは後のことだったとされる。退役後の1940年、日中双方の戦死者を弔うため熱海に「興亜観音」を建立し、参詣と読経の日々を送った。

今作では、敗戦後に収監された巣鴨プリズンでの弁護士や教誨(きょうかい)師との対話を軸に、1930年代の中国大陸での軍部内の駆け引きや蔣介石との因縁の挿話を挟みながら、南京事件の背景を浮かび上がらせる。

『無畏』より(撮影:池村隆司)

『無畏』より(撮影:池村隆司)

作家として歴史修正主義と闘わなければならない

脚本を書いた劇作家の古川健は、これまでも大正天皇、アウシュビッツ、731部隊などタブーとも言えるテーマに切り込んできた。数年前から、次は歴史修正主義について扱おうと考えていたという。政治家や表現者、そしてSNS上のふつうの人々の中にも広がりつつある言説に強い危機感を抱いたためだが、切り口に悩んだ。そんなときに松井が日中友好論者で中国通だったことを知り、ピンときた。

「史実を否定したり解釈をねじ曲げたりするというよりも、事実に向き合いたくない、自分のメンタルを安心させてくれる心地よい言説に飛びつくという病状は、明らかに悪化しています。慰安婦問題や南京事件を題材に取り上げるだけで『パヨク』などとレッテルをはられる。でも、そういう人たちにも見てもらわないと意味がない。右からも左からもきちんと理解されていない松井を中心に据えた物語なら、一方的な立場からの作品と誤解されることなく、『南京事件などなかった』と信じ込んでいる人も含めて多くの人に届くかもしれないと考えました」

配下の将兵の独断と暴走を防ぎ得なかったゆえに極刑というかたちの責任を取らされた悲劇的人物かのようにも描かれる松井だが、南京攻略を参謀本部に進言したという史実は消しようがない。軍規粛正の徹底を命じながらも早期の入城式にこだわり、それがさらなる犠牲拡大につながった面もあり、その人物像も歴史的経緯も単純ではない。

演出した劇団主宰の日澤雄介は「司令官の松井がなぜ軍を統率できなかったのか、あるいはやはり松井には逃れようもない罪があったのか。人格者でも悪者でもない、その実像に少しでも迫りたいと思いました」と語る。

劇作家の古川健(左)と演出・劇団主宰の日澤雄介(撮影:石川智也)

劇作家の古川健(左)と演出・劇団主宰の日澤雄介(撮影:石川智也)

「責任はすべて私に」はただの責任逃れではないか

「責任はすべて私にある」と繰り返す収監中の松井に、対話相手である弁護士は、やがて法廷戦術や弁護方針の範疇を逸脱した問いを発し、追及を始める。それは、客観的史料からでは計り知れない人間の内心と「真実」の追究でもあり、フィクションならではの大胆な試みでもある。

「事件を防ぐためにあなたにできたことは」「徴発と略奪の違いはなにか」「何が起きていたのか、本当に知らなかったのか」……迫真の丁々発止と俳優の生身の肉体を通じて、松井の本音や苦悩があぶり出されていく。そして弁護士はついに宣告する。「責任はすべて私にある――それは魔法の言葉ではないですよ」

ここで多くの人は、似たような言葉を繰り返す政治家が現代にもいることを思い起こすだろう。「私はこれまでも政治は結果責任であると申し上げてきた」「責任を痛感している」「すべての責任は首相である私にある」……。

古川は「そう言う人が実際に責任を取ったことがあったのか。そもそも責任を取るとはどういうことか……けっきょく今も変わらない問題だということです。そう分かったとき、この作品で何を描くべきか、答えが見えたように思います」と言う。

トップとして責任を取る、とは潔い姿勢に見えてその実、部下が引き起こしたことで自分に直接の責任はない、と言い逃れているに等しい。それこそ検証を避けようとする思考停止の言葉ではないか――古川は弁護士にそう言わしめる。

『無畏』より(撮影:池村隆司)

『無畏』より(撮影:池村隆司)

東京裁判の意義はどこに 不毛な対立を超えて

「無責任の体系」(丸山真男)は今なお日本の意思決定場面において毎度毎度あらわれる宿痾(しゅくあ)であり、なんら清算されていない桎梏(しっこく)であり続けている。ではその原因はどこにあるのか。それは日本人の心性の問題などではなく、この芝居のもう一つの主題でもある東京裁判に一因があるように思える。

東京裁判については、訴因の立証や政治の介入、事後法の適用などをめぐって様々な批判があるが、その国際法上の意義と課題が学術的に認められ検証されている。にもかかわらず、頭に血がのぼった「勝者の裁き」の全否定か、諦念のような丸呑みのいずれかが、基本的反応になっているようだ。国際法を単に道徳と捉えその規範性を認めない態度は、右派だけのものでもない。

哲学者ヤスパースは、戦争の罪を「刑事上の罪(国際法違反)」「政治上の罪(国民としての政治的責任)」「道徳上の罪」「形而上の罪」の四つに腑分けし、この順番で問うていくことが必要だと説いた。日本での戦争責任論が常にあいまいで不毛なすれ違いの論争が続くのは、この最初の段階が不十分で先に進めていないからではないか。それは、その名において戦争が遂行された最高責任者が免責されたということと無縁ではないし、日本人が自らを裁いていないことによるのだろう。

その意味で、「国家の犯罪」「総懺悔」などという総括ではなく、いつ、だれが、どのような動機でそれを決定し、実行したのか、個々の役割の軽重はどうだったのかをしつこく不断に検証することの意義は、なお失われていない。

松井石根が1940年に寄進した興亜観音像。戦場の土を混ぜて造ったという像は、眼下の太平洋とその先のアジアを向いている=静岡県熱海市(撮影:石川智也)

松井石根が1940年に寄進した興亜観音像。戦場の土を混ぜて造ったという像は、眼下の太平洋とその先のアジアを向いている=静岡県熱海市(撮影:石川智也)

先人の意思を継ぎ、生涯をかけて「日本の戦争」を追う

「日本の戦争というものは人生をかけて追わなければならないテーマだと思っています」という古川は、特に井上ひさしの姿勢から多くを学んだという。

「戦争を知る世代の偉大な劇作家たちは、同時代性として戦争の悲劇を描く作品を生みだし続けてくれた。それを僕たちの世代がやめてしまっては、先輩方に申し訳がたたないという使命感があります。何よりも、この問題は解決していないし、変わっていない、むしろ後退している。おそれずに、あらゆる角度から日本の戦争を追いかけ続けたい」

「無畏」(おそれなし)に難題と格闘する。それが古川にとって、戦後生まれの日本人として自分が引き受けるべき「責任」ということなのだろう。

次作では、歴史の分岐点で文官の近衛文麿、松岡洋右が果たした作為と不作為を問う。

(敬称略)

公演情報

「責任を取る――」万能な言葉が歪めた歴史認識を南京事件から問う 劇団チョコレートケーキの新作『無畏』

『無畏』
東京・下北沢の駅前劇場で8月10日まで上演
http://www.geki-choco.com/
電話080-9080-1861(劇団チョコレートケーキ)

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PROFILE

石川智也

1998年、朝日新聞社入社。岐阜総局などを経て2005年から社会部でメディアや教育、原発などを担当した後、2018年から特別報道部記者、2020年4月から朝日新聞デジタル&副編集長。慶応義塾大学SFC研究所上席所員を経て明治大学感染症情報分析センターIDIA客員研究員。著書に『それでも日本人は原発を選んだ』(朝日新聞出版、共著)等。オピニオンサイト「論座」等にも論考や記事を多数執筆している。

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