パパ友がいない

「息子には同じ道を辿ってほしくない」自分本位の性欲と罪悪感

連載「パパ友がいない」は、3歳と0歳の二児を育てる小説家・白岩玄さんが、新しい父親像を模索するなかで感じたことを思いのままにつづります。自分と同じように、親として悩みや葛藤を抱えるパパたちに呼びかけるように――。

#06 息子にしたい性教育

自慰を覚えたのは中学3年生の頃だった。ぼくはエロ話が飛び交わない女家族で育った上に、中2くらいから同級生たちが口にするようになった下ネタにもなじめなかったので、性的なことにかんする詳しい知識を仕入れたのが遅かったのだ(当時はインターネットもまだ普及していなかった)。そのため、男友達がエロ話で盛り上がっているときも、わかったような顔をして笑っていたのだが、あるとき、ぼくの受け答えがどうも曖昧(あいまい)なことを怪しんだ同級生が、ぼくが自慰の仕方を知らないのを見抜いて、「おまえ、それはさすがにやばいぞ」とやり方を教えてくれた。ぼくはその日、初めて自慰行為に及んだのだが、やはり慣れていないだけあって、なかなかイケなかったのを覚えている。

それ以来、ぼくは性欲を持つごく一般的な男性として定期的に自慰行為をしてきた。こんなことをあけすけに書くのもどうかと思うが、別に悪いことではないし、自分の性欲とうまく付き合っていくためには必要だったのだ。そしてもちろん、自慰行為をする際には、性的興奮を高めるための「おかず」が不可欠だった。ぼく自身がAVやエロ本やエロ画像などで消費してきた女性の数は、(あまり考えたくはないが)それなりの数になるだろう。

ただ、そうしてアダルトコンテンツに親しんできたことで、ぼくは画面や紙の向こう側にいる女性の体を消費することに、罪悪感を持たなくなってしまったように思う。本来なら、そこで裸(や裸に近い格好)になっている女性も、ぼくと同じ尊厳を持つ一人の「人間」であるはずなのだが、そうしたことは考えずに、単に自分の性欲を満たすための「モノ」として見てしまうわけだ。

もちろん、アダルトコンテンツというものは、そういったことができるから商品になっているのだが、問題は、その自分本位な感覚が、知らず知らずのうちに身近な女性にも適用されてしまうことだ。特に、普段はそうじゃなくても、性欲が湧いた途端に回路が切り替わり、まるでアダルトコンテンツを見るように、目の前の女性が自分の性欲を高める「モノ」へと変わってしまうように思える。

実際、ぼくは20代の頃、そのことにずっと罪悪感を持っていた。当時付き合っていた彼女とセックスをする際も、ぼくはどこかで、アダルトコンテンツを消費するように彼女を「消費」していたと思う。そこに至るまでの時間、たとえば食事をしたり、くだらないことを話したりしているときは、彼女のことを自分と同じ人間として見ることができているのだが、いざ行為が始まって性欲が高まっていくと、相手の胸や尻が、アダルトコンテンツで見たものと同化していってしまうのだ。そうなるともう、セックスの相手が彼女である必然性が薄まるというか、目の前にあるのが欲情できる女性の体であることの方が重要になって、その人の体を、他でもないその人の体として抱く、ということが難しくなってしまう。

最低なことを書いているなと自分でも思う。でも実際にそうだったのだ。ぼくは付き合っている彼女の体を、替えのきかない唯一のものとして見ることができなかった。ぼくのセックスには、いつも他の女性たちの性的なイメージがノイズのように混ざり込んでいた。それはやっぱり変だと思い、切り離そうとしたけれど、うまくいかなかったのだ。

もちろん常にイメージが混濁していたわけではないし、その人じゃないとダメだと思えたことだって何度もあるが、結局のところ、多くの場合において、ぼくは交際している女性の体をちゃんと抱いていたわけではなかったのだと思う。

そういった個人的な感覚を、他人の目にも見える形にしてみたくて、昔、短編小説を書こうとしたことがある。とある男が付き合っている女性の胸が、他の誰かの胸と入れ替わってしまうという話だ。女性はそのことに気づかず、主人公の男だけが驚き戸惑うのだが、入れ替わった胸が男の好む形や大きさだったため、男は途中から口を閉ざして、彼女とのセックスをより楽しむようになる。自分の交際相手の胸が、モンタージュ写真のように他人の胸と入れ替わっても、セックスが問題なく成り立ってしまうわけだ。

最終的には、女性の胸は元に戻るのだが、男は一度そんなことがあったがゆえに、自分が彼女の胸に欲情していたのではなく、世の中に蔓延(まんえん)している「イメージとしての胸」に欲情していたことに気づいてしまう。そしてすべてが元通りになった生活の中で、以前と同じように女性とセックスをしながら、自分が今まさぐっているこの胸は、いったい誰の胸なんだ? 俺は純粋な彼女の体を今まで抱いたことがあったんだろうか?と悩むようになるのだ。

バカな話だとあきれるだろうか? でも、男性の中には「わかる」と共感する人もいると思うのだ。というか、アダルトコンテンツなどによって、イメージで性欲を満たすことを良しとする土壌で育った男性は、多かれ少なかれこういう感覚に陥ってしまうのではないかと思う。少なくともぼくはそうだったし、年を重ねてそうした感覚から距離が取れるようになった今でも、頭のどこかにその回路が残っているように感じる。

さて、なぜこんな話を長々と書いているかというと、それはもうごく単純に、ぼくの3歳の息子には自分と同じ道を辿(たど)ってほしくないからだ。自分の中の認めにくい感情を認められるようになった今だからはっきりとわかるのだが、相手のことをしっかりと見ていないセックスなんていうのは、女性の体を使った自慰行為に過ぎない。しかも、どこかでそれに気づいていながら抗(あらが)おうとしなかったぼくは、交際相手にすごく失礼だったし、人間としても情けない奴(やつ)だったと思う。自慰そのものを否定するつもりはないが、その独りよがりな感覚は、かなり意識して、恋人とのセックスに持ち込まないようにするべきだったのだ。

ただ、どうすれば息子が自分のようにならないのかは、ぼくにもよくわからない。AVやエロ本といったアダルトコンテンツを性の入り口にするのではなく、最初にきちんとした性教育を受けていれば、女性をモノのように見てしまう感覚が薄まるのかもしれないし、ひょっとしたら、すべてはぼくの人間性の問題で、別に何もしなくても大事な恋人とのセックスを楽しめるようになるのかもしれない。

でも、何度も言うように、「イメージとしての女性」が蔓延したこの世の中で、すべての男の子が自慰と恋人(あるいはパートナー)とのセックスを切り分けるのは、かなり難しいことだと思う。ちゃんと別物だと理解できるように、父親として関わっていきたいと思うし、いずれにしても息子には、ぼくのしてきたことに「は? お父さん、アホじゃねぇの」とあきれることができるような大人の男性になってほしい。

(イラスト・Tomomi Takashio)

★次回記事「子どもの死生観を作るもの」はこちら

【連載目次】

PROFILE

白岩玄

1983年生まれ。京都市出身。2004年、小説『野ブタ。をプロデュース』で文藝賞を受賞し、小説家デビュー。同作は芥川賞候補作になり、テレビドラマ化。70万部のベストセラーになった。著書に『空に唄う』『愛について』『未婚30』『ヒーロー!』『たてがみを捨てたライオンたち』など

時間にもお金にも余裕がないけれど……子育て中も続ける二つの趣味

一覧へ戻る

人が死ぬとはどういうことなのか―― ぼくは誰かに説明してほしかった

RECOMMENDおすすめの記事