国境なき衣食住

スリランカ内戦の古傷を癒やす 忘れ得ぬタミルの伝統カレー

新連載「国境なき衣食住」を本日より始めます。

国際NGO「国境なき医師団」の看護師として世界17カ所の紛争地や危険地に赴任してきた白川優子さんが、医療・人道支援活動の傍(かたわ)らで出会った人々、触れ合った動植物、味わった苦労や喜びについて、哀感を込めてつづるエッセイです。戦地や極限下であっても、日常や笑いはあふれている。非日常の隙間から見える「平和」な世界にあえて目を向け、白川さんが軽妙に筆を走らせます。

 

スリランカ内戦の古傷を癒やす 忘れ得ぬタミルの伝統カレースリランカ内戦の古傷を癒やす 忘れ得ぬタミルの伝統カレー

スリランカ内戦の古傷を癒やす 忘れ得ぬタミルの伝統カレー

白川優子(しらかわ・ゆうこ)

国境なき医師団(MSF)手術室看護師。1973年埼玉県出身。高校卒業後、坂戸鶴ヶ島医師会立看護専門学校に入学、卒業後は埼玉県内の病院で外科、手術室、産婦人科を中心に約7年間看護師として勤務。2006年にオーストラリアン・カソリック大学看護学部を卒業。その後約4年間、メルボルンの医療機関で外科や手術室を中心に看護師として勤務。2010年よりMSF に参加し、スリランカ、パキスタンなど9か国で17回の活動に参加。現在はMSF日本事務局にて海外派遣スタッフの採用を担当。著書に『紛争地の看護師』(小学館)。
 

もう二度と、あの味に巡り合うことはないだろう。

26年間もの内戦で最後まで大激戦が繰り広げられたスリランカ北部の地域。終戦直後の混乱のなか、小さな漁村で、生涯忘れることのないカレーに出会った。10年経った今でも、目を閉じれば舌にあの時が蘇る。そんなタミル人の伝統カレーをご紹介したい。

牧歌的な風景に潜む戦闘の爪痕

2010年、私が向かっていた「国境なき医師団」(MSF)の活動地はスリランカ最北部の小さな村で、最大都市コロンボから列車や車を乗り継ぐ10時間の旅だった。それを聞くととても萎えてしまうが、戦時中にはこの移動に2週間以上かかることもあったとMSFの先輩たちから聞いていた。軍事衝突や規制による道中の足止めを受けたり、時にはトリンコマリーにある軍港から船で24時間かけて北上していたらしい。

成田から直行便で入ったコロンボは、戦争の跡など全くみえず、過去に経験した東南アジア各国のバックパッカー旅行を思い出すような陽気で楽しい活気を感じた。しかしそこから北上し、スリランカ本土と最北部の半島を結ぶ「エレファントパス」と呼ばれる道路を超えると一変して戦争の跡が生々しくなった。

エレファントパスとは、とても可愛いネーミングではあるが、この先が高度警戒地域となり、政府はここで徹底的な人と物資の出入りの管理をしていた。そのため、ここを通過するには事前に許可証を取得しておく必要があった。

この辺りから先はゴーストタウン化し、荒れ果てた土地に建つ家々は空き家となっていた。その代わりに一定の距離ごとに現れる政府軍の見張り台と、完全装備をして警戒にあたる軍人たちの姿が延々と続いた

スリランカでは、東北部の分離独立を目指していたタミル人の反政府武装勢力、タミル・イーラム解放の虎 (LTTE)と、多数派民族シンハラ人中心の政府軍との間で26年にも及ぶ内戦があり、政府軍がLTTEを抑えつけるかたちで2009年に内戦が終結した。

長旅の果てにたどり着いた目的地のポイントペドロ(セイロン島北端の都市)は、素朴なタミル人の市民たちが慎ましやかに暮らしている漁村だった。手の付けられていないビーチに、パパイヤや高い椰子の木が並ぶ雑木林。ところどころに牛とヤギがいて、農道では三輪車の荷台に積まれた野菜や枝の束を乗せながら移動する村民の姿もあった。貧困の印象は否めないが、軍の兵士たちの姿さえなければ牧歌的だ。

スリランカ内戦の古傷を癒やす 忘れ得ぬタミルの伝統カレー

LTTEの最高指導者、ヴェルピライ・プラバカランがこのエリアの出身地で、私も8ヵ月の滞在の間に彼の生家と言われる場所を通りかかったことがある。1年前の彼の死亡発表により内戦が終結したのだが、政府はいまだに彼を慕うシンパによるゲリラの復活を警戒し、プレゼンス維持を徹底しているようだった。

あいさつ代わりの「何食べた?」で触れあい

私はMSFが戦時中から長期に渡って支援をしてきたポイントペドロにある現地の病院で、特に外科病棟のサポートを主に約8か月の滞在をした。慢性の看護師不足だったので大変歓迎された。

ここでは紛争で犠牲になった市民や、戦闘に駆り出されていた元兵士たちが古傷に苦しんでいた。元兵士の中には中年の患者もいたが中には青年、少年も混じっていた。LTTEは女・子どもを誘拐してまでもゲリラ兵士を増やしていたと聞いたが、ここにいる彼らがどのような経緯で戦闘に加わっていたのかは知る由もない。ただ、付き添いの家族に世話をされている姿をみると、彼らは普通の家庭の一員であり、それは日本の病棟でも日常的にみられる光景だった。

 

私はこの外科病棟に通ううちに、地元の医師や看護師、患者さん達からタミル語を習得し、いつの間にか通訳なしにみんなと会話をしていた。

彼らの挨拶(あいさつ)の中で必ず、「何か食べた?」「何食べた?」という会話が交わされるのが面白かった。

日本でいうところの「良い天気ですねぇ」「そうですねぇ」などにあたるのだろうか。常夏のスリランカは通年天気が良いので挨拶にはふさわしくないのかもしれない。そこで私は、まずは、宿舎の料理担当でコミという名前のお姉さんがいつも作ってくれる食べ物の名前を覚えなくてはならなかった。

「海老を食べたよ」「イカを食べたよ」「蟹を食べたよ」

そう、ここは漁村というだけあってシーフードの宝庫だった。

そして私も、「あなたも食べた?」「何を食べたの?」などと挨拶をしながら、人々とのコミュニケーションを深めていった。

スリランカ内戦の古傷を癒やす 忘れ得ぬタミルの伝統カレー

色とりどりのカレールーを、一斉に手で……

コミはとても料理が上手だった。たくさんのスパイスが入っている海老やイカのカレー、その他野菜のカレーもあったし、ピザなどの洋食のバラエティーもありランチや夕飯は楽しみの一つだった。中にはシーフードアレルギーのスタッフもいて申し訳なかったが、贅沢な衣食住など求めてはいけないと思っていたMSFの派遣で、まさかシーフードに恵まれるなど、なんて幸せなのだと思った。

ある日、パーティーを行う事になった。なんのパーティーだったろうか。ヒンドゥー教関連の祝日だったように記憶する。MSFが現地雇用をしているスタッフたちが主催し、みなそれぞれの家族も連れてきた。子どもも入れて50人は集まった。コミも子どもを連れてきていた。男性も女性もみなヒンドゥーの正装をしている。場所は、MSFの海外派遣スタッフの宿舎。

スリランカ内戦の古傷を癒やす 忘れ得ぬタミルの伝統カレー

レストランで注文したという大きな鍋がいくつも運ばれてきた。中身はカレーだ。それぞれ海老カレー、チキンカレー、ポテトカレー、野菜カレーなどに分かれていて、それぞれ赤や黄色、オレンジ、緑などルーの色が違う。スープ状のものもあれば、ポテトカレーはルーがほとんどない。荒くマッシュされたポテトに煮込んだルーが染みて、スパイスの黒い粒が全体に混ざっている。これはコミも良く作ってくれるのでタミルの伝統カレーの一つなのだろう。

大きなカレー鍋が並ぶテーブルに向かって長い列ができた。みんなの真似をして、1つの皿にまずはご飯をよそり、次に1つ目の鍋のカレー、そしてまた次の鍋のカレー、と大胆に全種類のカレーを盛りつける。お皿の中が色とりどりのパイチャートのようになった。こんな贅沢があるだろうか。

その日集まった50人は、宿舎の中庭に2列が対面するような形で並べられた椅子にそれぞれ座り、私も適当に空いている席に座った。さぁどのカレーからすくって食べようか、とスプーンを手にした。おかわりはたっぷりあるのだから、大好きな海老カレーから手を付けようか、と思っていた矢先に、周囲の人々が一斉にある行動に出た。

みなそれぞれ、盛り付けられたご飯とカレーの皿を自分の膝に乗せていた。そして、その皿の中のカレーとご飯を一斉に手でこね始めたのだ。

「な、何をしているの……??」

こねているというよりは、みな同じ手つきで、すくったものを少し上の高さから叩き落とす、という動作をテンポよく繰り返していた。正装をした男女50人が、膝に乗せられた皿に視線を向け、このこねくり作業をしている。皿の中の全種類のカレーとご飯は当然ぐちゃぐちゃになる。パイチャートなど跡形もない。そして全てがぐちゃぐちゃになってからのカレーを、手ですくって食べ始めたのだった。

海老カレーが美味しいのは分かっている。ポテトカレーが美味しいのも分かっている。チキンも、野菜も……。それぞれに違うスパイスを使い、別々に煮込むのに時間がかかっただろう。単体の味を楽しむという考えはないのだろうか……。別々に料理したわけは? 皿の上にわざわざ奇麗に盛り付けたのは?

スリランカ内戦の古傷を癒やす 忘れ得ぬタミルの伝統カレー

舌で、鼻で、そして手を刺激する奥深い味

別の海外派遣スタッフたちはどうしているのだろうかと気になり、見回した。アメリカ人の外科医、イタリア人の救急医、フィリピン人の産婦人科医……皿の上のパイチャートのカレーの形を崩さずに、スプーンできれいに食べている。

私はスプーンを置き、決心した。これまで何度もコミが私たちのためにカレーを作ってくれていたが、私たちは正統な食べ方をしていなかったのだ。ラーメンをすすらずに食べている人と一緒だ。これほど失礼な話はない。

私も皆の真似をして、自分のご飯とカレーをぐちゃぐちゃに、ごちゃごちゃに手で混ぜ始めた。やってみると、ポテトのボサボサ感が全体をうまくつなげてくれ、手でかたどれる固さになる。問題はここからだ。

このカレーをこぼさずに手で食べるとしたら、顔を上に向け、口を大きく開けて手からこぼれるものをキャッチする以外のスキルを私は持ち合わせていない。しかしそんなことをやっているタミル人は目の前にいない。みな姿勢を正したままキレイにこぼさずに口に運んでいる。

みんなの指の動きを良く観察した。すると使っているのは、薬指までの4本の指だ。口に入るだけの量を皿からすくい、親指が上になるように手首をひねる。その状態で口に持っていく。他の3本の指の形を崩さぬまま、親指で全体を押し出し、口の中に入れていた。

何回かの失敗を重ねたが、そのうちコツをつかみ始めた。ドリアのようなゆるさ加減のカレーご飯が口に入ってくる。舌先ですぐに感じる味、口の奥に後から広がる味。たくさんのスパイスが、それぞれ時間差で舌と口と鼻を刺激してくる。

海老の歯ごたえを時々感じ、かと思うとチキンの食感が現れる。5種のカレーを皿の上でコネ繰り混ぜ合わせる、その作業が奇跡の味を作り出していた。

私は夢中になって平らげた。

戦争のことに触れない村人たち 「復興」とは

滞在期間中、同じように大勢のタミル人たちと集まる機会が何回もあり、その度にこのカレーをみんなで食べた。私はすっかりこのカレーの虜(とりこ)になってしまった。

「初めから全部をいっぺんに煮たら同じではないか」

それは……もはや問わないと決めた。長い歴史の中で、タミル人たちが考えついた食べ方なのだろう。

コミが作ってくれたある日のランチ

コミが作ってくれたある日のランチ

当初、ここの村人たちはあまりにも静かで欲がなく、復興への向上心が感じられないという印象を正直受けていた。戦後復興といえば、私は日本のエネルギッシュな国民のパワーを先入観に持っていたからだ。

しかし、この村で8ヵ月を過ごし、病院で出会う人々をはじめ、宿舎の近所に住む人々や買い物や散歩で出会う人々と交流を重ねる中で、私の考えは単なる価値観の押し付けなのだと気付いた。

この村ではとうとう戦争の話をする人はいなかった。つい話に出てしまい「あ、ごめん口には出せないんだ」という人もいた。彼らは彼らの歴史を歩んできた。どのように戦争に翻弄され、どこまで犠牲になり傷ついてきたのか、他所(よそ)から来た者などに到底分かり得るものではない。

戦争が終結した今でも政府の厳しい監視下に置かれ、生活物資も私たちのような援助機関の出入りも非常に厳しく管理されている。病院においては薬剤もなかなかそろえることができていなかった。

そのような現状の全てを彼らは受け入れ、目の前のその日を一生懸命生きていた。戦争が終わり、攻撃に脅かされることなく漁に出られるようになった。大勢で集まり、地元で収穫した材料を使って伝統のカレーを囲む、戦時中にはなかなかできなかった行事であろう。戦争が終わっただけで幸せなのかもしれない。

東京にスリランカ料理のレストランがあると聞き、欲望に駆られて何度も足を運ぼうとしたがやめた。あの時、戦後のスリランカ北部で、一生懸命生きていたタミル人の人々と一緒に食べたあのカレーは、あえて日本で食べないことで、私の心の中でいつでも、いつまでも鮮明に生きている。

(写真はすべてⓒMSF)

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PROFILE

白川優子

国境なき医師団(MSF)手術室看護師。1973年埼玉県出身。高校卒業後、坂戸鶴ヶ島医師会立看護専門学校に入学、卒業後は埼玉県内の病院で外科、手術室、産婦人科を中心に約7年間看護師として勤務。2006年にオーストラリアン・カソリック大学看護学部を卒業。その後約4年間、メルボルンの医療機関で外科や手術室を中心に看護師として勤務。2010年よりMSF に参加し、スリランカ、パキスタン、シリア、イエメンなど9か国で17回の活動に参加してきた。現在はMSF日本事務局にて海外派遣スタッフの採用を担当。著書に『紛争地の看護師』(小学館)。

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黒いパンツだけは持って行ってはいけない。紛争地赴任時の我がオキテ

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