眠れる森のコンセプトカーたち ベルトーネ・コレクションを訪ねて

TOP写真:ベルトーネ・コレクションで最も象徴的なホールにて。先頭は1969年「アウトビアンキA112ラナバウト」(右)と1991年「ロータス・エモーション」

ミウラをデザインした会社の末路は

2021年は「ランボルギーニ・ミウラ」が1966年3月のジュネーブ・モーターショーで発表されてから55周年にあたる。ミウラは、その性能とともに流麗なフォルムで世界のセレブリティーたちを魅了し、イタリア戦後経済成長のシンボルとなった。そのデザインを手掛けたのは、かつてイタリアを代表するカロッツェリア、つまり自動車デザインハウスのひとつとして君臨していた「ベルトーネ」であった。

ベルトーネの歴史は1912年、ジョヴァンニ・ベルトーネによってトリノに設立されたカスタムメイドの車体製作工房に遡(さかのぼ)る。第2次大戦後、ジョヴァンニの子息ヌッチオの代が訪れると、時流にしたがって量産車のデザインを数々手掛けるようになった。コンセプトカーでは、同じトリノを本拠とする「ピニンファリーナ」とともに、前衛的なカーデザインの旗手として世界の注目を集めるようになっていった。量産車ランボルギーニ・ミウラで用いられたオレンジ色は、やがてベルトーネのシンボル色となった。

ランボルギーニ・ミウラS

ベルトーネの2代目社主・ヌッチオ・ベルトーネの個人車だった1967年「ランボルギーニ・ミウラS」【もっと写真を見る】

傍らでは、アルファ・ロメオなど自動車メーカーからスポーツモデルなどの生産を受託するようになり、社業は大きく成長する。1980年代中期の「オペル・カデット・カブリオ」を例にとると、日産台数は50台から60台に達した。

その繁栄に陰りが見え始めたのは1990年代末のことだった。1997年にヌッチオが82歳で死去。時を同じくしてクーペやオープンモデルの流行が衰退し始め、自動車メーカーがベルトーネとの受託生産契約を次々と打ち切った。

ヌッチオから社業を継いだ妻リッリと娘2人による経営方針の対立も表面化し、ついに2008年ベルトーネ社は倒産に追い込まれた。その後リッリは裁判所の管理下にあった研究開発部門「スティーレ・ベルトーネ」を買い戻すものの、それも2014年に破産してしまう。

参考までに2021年1月現在、ベルトーネの商標は自動車関連と、それ以外の分野に分かれて継承されている。前者は競売によって多国籍エンジニアリング企業「アッカ・テクノロジーズ」の手に渡った。その後同社は2019年、イタリアを活動拠点とする新興モビリティー企業「フライムーヴ・ホールディングス」に商標使用権の供与を発表している。後者は生前のリッリと関係があったミラノのプロダクトデザイン&建築スタジオが用いている。

ランボルギーニ・ミウラの前に立つリッリ・ベルトーネ

ランボルギーニ・ミウラの前に立つリッリ・ベルトーネ。2019年6月、スイスのルガーノにて84歳で死去した【もっと写真を見る】

数々の逸材を発掘した社主 ヌッチオ・ベルトーネ

かくもその最後は複雑な経緯を辿(たど)ったベルトーネだが、ヌッチオ・ベルトーネについては高く評価すべきであろう。彼自身は経営者に徹していたが、逸材を見抜く能力は一流であった。

それは冒頭のランボルギーニ・ミウラに関するいきさつでも明らかだ。発表前年の1965年、トリノ自動車ショーで、まずはそのエンジン付きシャシーが展示されたときのことである。筆者が生前のリッリから聞いた話によると、創立者フェルッチョ・ランボルギーニは書類を小脇に抱え、ベルトーネのブースにふらりとやってきたという。

1947年、ヌッチオ・ベルトーネが、フィアットをベースにしたオープン・スポーツカーのステアリングを握る

1947年、ヌッチオ・ベルトーネが、フィアットをベースにしたオープン・スポーツカーのステアリングを握る【もっと写真を見る】

すでにベルトーネはトリノを代表するカロッツェリアのひとつ、いっぽうのランボルギーニは、農業用トラクター会社の新事業として、スポーツカーを造り始めたばかりだった。

それでもフェルッチョからデザインを依頼されると、ヌッチオは「この素晴らしい足に履かせる、完璧な靴をご用意しましょう」と答えたという。つまり足とはエンジンとシャシー、靴とはベルトーネによるボディーのことだった。これこそミウラの誕生の瞬間である。

ヌッチオは才能あるデザイナーを見いだす天才でもあった。第2次大戦後には、フランコ・スカリオーネを起用。数々の名車を送り出した。

ミウラとその前後の時代にも、ヌッチオの能力はいかんなく発揮された。本「&M」でも紹介したジョルジェット・ジウジアーロは弱冠21歳のときヌッチオに見いだされ、即座にチーフデザイナーの役を任された。

ジウジアーロの後任であるマルチェッロ・ガンディーニもしかり。ヌッチオに発掘されたのは27歳のときであった。ガンディーニはナイトクラブの内装などを手掛けていたものの、自動車デザインに関しては事実上の素人だったという。

ガンディーニとともに働いたマルク・デュシャンも、同じトリノのカロッツェリア「ギア」からベルトーネに移籍したのち、その才能を開花させた。

アルファ・ロメオ・ジュリアSS

フランコ・スカリオーネが参画した1963年「アルファ・ロメオ・ジュリアSS」【もっと写真を見る】

住処(すみか)を見つけた往年のスターたち

旧ベルトーネは、自社でデザインした量産車やコンセプトカーのコレクションを保有していた。実はこちらに関しても、紆余(うよ)曲折があった。倒産前年である2007年に裁判所の管理下に置かれたそれらに関しても、リッリは買い戻しを試みた。しかし、彼女は全車を購入する資金が調達できなかった。そのため、数台はオークション会社に委ねられて著名コレクターたちの手に渡っていった。

残りの79台は一旦(いったん)彼女の手元にあったものの、その後再び裁判所に押さえられ、2015年にインターネット公売に付された。ベルトーネのコレクションは2011年にイタリア工芸遺産に指定されていたため、落札者には一括購入、かつ海外への個別の転売は不可という条件付きだった。

最終的に344万ユーロで落札したのは、イタリアでヒストリックカーの認証などを手掛ける団体「イタリア古典車協会(ASI)」だった。同会は、ミラノ・マルペンサ空港に隣接した森にある「ヴォランディア航空公園博物館」に保管を委ねた。そして2018年4月に公開されたのが、今回紹介する常設の展示館である。

参考までに同博物館は、宮崎駿のアニメ作品「風立ちぬ」にも登場する航空機製造会社「カプローニ」の本社工場跡を改装したものだ。ベルトーネ・コレクションの展示館も、旧工場棟を用いた建屋である。

車両の保存状態は、けっして良好とはいえない。とくにコンセプトカーの多くは量産車並みの耐久性を追求していないので、劣化が激しい。あまりに痛々しいので写真は割愛するが、リトラクタブル(格納式)ヘッドランプの片側だけ下がらず、あたかもウィンクしたような状態の車もある。

フィアットをはじめとするメーカーに提案するため制作したものの、最終的に採用されなかったプロトタイプたちも哀愁を誘う。他の試作車に転用されたのか、フロントフェースがまるごと取り去られた車両もある。

文化財として流出させることができないという足かせをつけられたまま、保管状態がままならないという状況は、イタリアにおける他の文化財と状況が似ている。だが日本では、コンセプトカーの大半は、税務上資産とみなされるため展示後は大半が廃棄処分となる。それからすれば、デザイナーや職人たちが精魂込めた作品に対する正しい扱い方といえまいか。

幸い最近は、イタリア国内外で開催される企画展に貸し出しが行われるようになった。筆者も同館のシトロエン「GSカマルグ」に、パリで出会ったことがある。かつて世界のショーでスポットライトを浴びたベルトーネのコンセプトカーたちは、そうした出番が訪れることも夢見ながら、森の建屋に佇(たたず)んでいるのかもしれない。

(写真:大矢アキオ Akio Lorenzo OYA/Bertone)

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VOLANDIA, PARCO E MUSEO DEL VOLO
Via per Tornavento n.15, Case Nuove 21019 Somma Lombardo (Varese) ITALIA
休館日・入場料は時期により変動するため以下サイト参照
(2021年1月10日現在、新型コロナ対策のイタリア首相令により休館中)
http://volandia.it

PROFILE

大矢アキオ Akio Lorenzo OYA

コラムニスト。音大でヴァイオリンを専攻、大学院で比較芸術学を修める。イタリア・シエナ在住。NHK『ラジオ深夜便』レポーター。訳書に『ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ』(光人社)、著書に『イタリア発シアワセの秘密−笑って!愛して!トスカーナの平日』(二玄社)、『メトロとトランでパリめぐり』(コスミック出版)など

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