いしわたり淳治のWORD HUNT

高橋優は「奇麗な心で汚い言葉を書く」アーティスト? いしわたり淳治のコトバ分析

  • いしわたり淳治のWORD HUNT〈vol.3〉
  • 2018年1月19日

  

 通算600以上の楽曲を手がける作詞家のトップランナーであり、チャットモンチ-やGLIM SPANKYらを世に送り出した敏腕音楽プロデューサーでもある、いしわたり淳治。

 人気音楽バラエティー番組『関ジャム 完全燃SHOW』(テレビ朝日系)ではロジカルな歌詞分析を披露。福山雅治は「(手の内が)バレている!」と驚嘆し、クリープハイプのフロントマン尾崎世界観は「されたくなる分析」と称賛した。

 そんな鋭い批評眼を持つ男が、世間の言葉を斬っていく。今回俎上(そじょう)に載せたのは、高橋優の歌詞をはじめとする5つのフレーズだ。

いしわたり淳治 いま気になる5つのフレーズ

  

 高橋優はやさしい歌と激しい歌がまったく並列で同居している珍しいタイプのシンガーだと思う。この「ルポルタージュ」という曲も彼の両極性というか、奇麗な心で汚い言葉を書いている感じがしてすてきだ。

 冒頭のフレーズは1サビの最終行の歌詞。Aメロ、Bメロ、サビと来て、セオリー的にはこの曲のメッセージが集約されてしかるべき箇所である。だが、このフレーズに至るまで、歌詞中には一度も「君」が出て来ない。イントロが鳴り始めてから、時間にして実に1分48秒間、徹底的に「僕」目線で世の中に対する不満ややるせなさをぶちまけて、ものすごい筆圧で世の中をポジティブにディスっている。そして突然、1コーラスが終わる瞬間、ものすごい語気で「君がいる限りこの世界は素晴らしい!」と断言するのである。

 これは、とても斬新な手法である。有名な怖い話に、オチで突然「お前だー!」と話し手が聞き手を指差して叫ぶ、というのがあるけれど、この歌にはそれと似た匂いがある気がする。

 「えっ! 俺っすか?」「マジっすか?」「俺がいるからこの世界は素晴らしいんすか?」という、うれしいサプライズが潜んでいる気がするのだ。

高橋優「ルポルタージュ」MV short ver.

  

 滝沢カレンのことを、“変な日本語を話す、奇麗な女性”と認識している人も多いと思うのだけれど、私はそういうのとは少し違うような気がしている。というのも、彼女は話す言葉よりも書き言葉のほうが、より珍妙なことになっているのである。誰かと会話をしていて仮におかしな日本語になってしまったとしても、それはもう仕方がない。でも、文章は後からいくらでも直すことが出来る。それなのに彼女の文章はおかしいのである。

 初めてそれを読んだ時、こんなにも珍妙な日本語なのに、以前どこかで読んだことがある気がした。翻訳サイトに英文を貼り付けて翻訳をした時に現れる、直訳の日本語である。

 ということは、つまり彼女は「感情を“直訳”している」のではないだろうか。私たちは日頃、「自分の気持ちを自分の言葉に翻訳して話している」と思い込んでいるが、実はそうではない。世の皆が話している言葉、ある種の定型文のようなものに、自分の気持ちを当てはめて話しているに近い。

 例えば、普通の人ならインスタグラムの書き出しには「皆さん、お元気ですか」などと書くだろう。でも、その時に読者が本当に元気かどうかなんてほとんど考えてはいない。でも、たぶん滝沢カレンは違う。実際に読んでくれている人が何をしているかをバカ正直に考えてしまうのではないだろうか。だからその結果、「みなさん、何してるんですか?」という表現になってしまうのだろうと思うのだ。

 彼女を見ていると、自分の感情を正確に言葉にするとはどういうことか、妙に考えさせられる。とても貴重で面白い存在だと思う。

  

 「自分を好きになりたくて、一生懸命なんだ」という言葉は、もしかしたら最強の“免罪符”かもしれない。「可愛くなりたい」「モテたい」というのは、表現の仕方によっては周囲に敵を作りかねない危険なスタンスだが、「自分を好きになりたくて、一生懸命なんだ!」と言われると、どこか応援したくなる感じに変わる。

 これは使えるかもしれない。例えば、こういうのはどうだろう。「私は浪費癖なんかじゃないの! 自分を好きになりたくて、一生懸命なの!」うん、やはりちょっと許してあげたくなる雰囲気が醸し出されている気がする。これはすごい。じゃあ、こんなのはどうだろう。「おれは働きたくないから会社を辞めるんじゃない。自分を好きになりたくて、一生懸命なんだ!」「おじさんは不倫したいわけじゃない、自分を好きに……」いや、ダメだ。この免罪符は大人が使うと、そこはかとなく破滅の匂いがする。

  

 ある朝。3歳の息子がEテレの『銀河銭湯パンタくん』という人形劇を見ていた。それは、かくし芸大会に出ることになった気弱なバースくんを舞台袖でパンキチが励ますシーンだった。本来なら、「バース、がんばれ〜!」と言うところだが、パンキチは言葉がつたないキャラだから「バース、がんばる〜!」と言った。いや、なんてことはない。ほほ笑ましいシーンだった。でも、何だか違和感を覚えた。

 「がんばれ〜!」と「がんばる〜!」を比べた時、本来なら「がんばれ〜!」の方が命令形なのだから、「がんばる〜!」よりも威圧的に聞こえなくてはいけないと思うのだが、なぜか「がんばる〜!」の方が上から目線というか、相手に有無を言わせない高圧的な感じがあるな、と思ったのだ。

 試しに、洋服のボタンをうまく掛けられなくてイライラしていた息子に、「がんばれ〜」と声を掛けてみた。何もリアクションはなかった。次に「はい、がんばる〜!」と言うと、こちらの目をじろっと見上げて泣き出した。なんか、ごめん。

  

 「ら抜き言葉」(「食べれる」など、助動詞「られる」を可能の意味で使う場合に「ら」を抜いた表現)は、一般的に乱れた日本語の代表格のような扱いを受けているが、日本語の歴史から見ると、そうとも言い切れないらしい。というのも、実際には「ら」ではなく、抜けているのは「ar」だというのである。

 例として「食べられる」と「食べれる」を比べてみる。一見すると「ら」が抜けているように感じるが、ローマ字で「taber“ar”eru」と「tabereru」を比べると、たしかに「ら」ではなく、「ar」が抜けていると見ることもできる。

 次に「行かれる」と「行ける」の場合を比べてみる。誰かと待ち合わせをする時に、「5時に行けるよ」と言う人はいても、「5時に行かれるよ」などと言う現代人は少ないだろう。つまり、これは長い時間を経て「ik“ar”eru」の「ar」が省略されて定着した形なのだそうである。将来的に「ら抜き言葉」すなわち「ar抜き言葉」のほうが世の中のスタンダードになる可能性は大いにあるということらしい。

 なるほど。時が経つと「ar」は省略されていく。今後、可能表現だけでなく、さまざまな日本語に「ar抜き」が広がれば、 世の「アパレル店員」はいつの日か「アペル店員」と呼ばれ、「あばれるくん」は「あべるくん」と呼ばれてしまうのだろうか。あららららら。

[PR]

(参考記事)
「ら抜き言葉」で抜けているのは「ら」じゃない? 予想外の真相が…

この記事を気に入ったら
「いいね!」しよう

今、あなたにオススメ

Pickup!

Columns