天才人語

魔球「高速スライダー」を投じた最強投手・伊藤智仁が唯一嫉妬した天才選手

  • 2018年2月2日

  

 伊藤智仁――。史上最強の変化球とも呼ばれる「高速スライダー」を繰り出し、多くのファンを熱狂させた90年代最高の投手の一人である。

 92年ヤクルトスワローズに入団。ルーキーイヤーに7勝2敗、防御率0.91という驚異的な成績を残すも、右ひじを故障。その後もケガとの戦いは続き、11年間の現役生活のうちリハビリに4年を費やした。

 通算成績は37勝27敗25セーブ、防御率2.31。年間二桁勝利を記録したことはない。それでもその才能への評価は揺らがない。

「私が出会った最強の先発投手」(野村克也氏)
『私の教え子ベストナイン』(著:野村克也/光文社)より

「トモのスライダーはすごかった。ナンバーワン」(古田敦也氏)
『幸運な男 伊藤智仁 悲運のエースの幸福な人生』(著:長谷川晶一/インプレス)より

 そんな不世出の天才投手・伊藤智仁氏が「まったくかなわない」とその才能をうらやんだ選手がいた。天才が認めた天才に迫る。

「まねできない……」伊藤智仁が脱帽した天才プレーヤー

――プロ野球の世界にも「天才」と呼ばれる選手がいます。伊藤さんが考える天才プレーヤーの定義を教えてください。

伊藤 一般的には、人ができないことをできる人を「天才」と呼びますよね。そう考えると、プロの世界に入ってくる人間はみな「天才」ですよ。ただ、その中にも、さらに誰にもまねできない圧巻のプレーをする選手がいる。いわば、天才の上を行く存在。それがプロの世界における「天才」ではないでしょうか。

伊藤智仁(いとう・ともひと)/1970年生まれ。92年、ヤクルトに入団。ルーキーイヤーに7勝2敗、防御率0.91を記録し、新人王を獲得。その後、故障で一軍から離脱。97年にカムバック賞を受賞するも、01年に肩を故障。戦線を長期離脱し、03年を最後に現役を引退。ヤクルト二軍コーチを経て、17年まで一軍投手コーチを務める。18年からはプロ野球独立リーグ、ベースボール・チャレンジ・リーグ所属の「富山GRNサンダーバーズ」の監督に就任

 僕は入団当時、自分がこの世界でやっていくイメージを作りたくて、チームの柱となる投手を見て回りました。その時、率直に言って、一線級の投手と比べて自分は特に劣っていないと感じました。努力すれば、彼らと同じことはできるようになるなと。ところが主力選手とは別のところに、とんでもない逸材がいた。ストレートの威力、腕の振り。どれをとっても自分には到底まねできない。一目見て才能の違いを感じましたね。

――どなたですか?

伊藤 石井一久です。彼は高卒新人として僕より1年早く入団した、ほぼ同期。大きな実績もなく、技術的にも発展途上でしたが、間違いなく将来化けると思いました。

石井一久(いしい・かずひさ)
1973年生まれ。91年、ヤクルト入団。150kmを超えるストレートと大きく曲がるスライダーを武器に、95年に最高勝率を記録。98年には日本記録となる奪三振率11.047(1試合あたりの奪三振の平均値)で最多奪三振のタイトルを受賞。00年は最多奪三振と最優秀防御率の2冠を達成した。02年から05年まではメジャーリーグへ移籍。ロサンゼルス・ドジャース、ニューヨーク・メッツに所属し、39勝34敗の成績を残す。日本に帰国後はヤクルト、西武で活躍し、13年のシーズンをもって引退

――どのあたりにすごさを感じたのでしょうか。

伊藤 一番はストレートの力強さですね。どの投手にも「速い球を投げたい」「ものすごい変化球を投げたい」という願望があるんですよ。一久はとにかく速かった。左腕トップクラスの155kmくらいを投げられるポテンシャルがあったんじゃないかな? いくら練習しても、スピードの絶対値だけはどうにもなりません。ピッチャーが他のピッチャーに嫉妬するのは、たいていストレートの速さですよ。

――石井一久さんは現役時代、奪三振率が非常に高い投手でした(奪三振数:通算2115個、奪三振率:8.84)。それも天性のストレートがあってのことでしょうか?

伊藤 一久には、スライダーという大きな武器もありました。ストレートと同じような軌道から、やや斜めへと落ちる変化の大きなスライダー。あれを投げられると、右打者はバットとボールの接点が急に消えた感覚に陥り、左打者はボールを見失う。かなり強烈な変化球です。ただ、それが際だったのも、あの豪速球があったからこそ。いわばストレートが「幹」で変化球は「枝」という関係で、幹が太いほど強い枝葉が生えていくのです。

 97年9月、一久はノーヒットノーランを達成していますが、最後の打者から三振を奪ったストレートにはしびれましたね。同業者として「自分にはまねできない」とはっきり感じた一球です。

変化球も生まれ持った才能で決まるのか?

――伊藤さんもながらく「天才投手」と呼ばれ続けています。その評価をどう受け止めていらっしゃいますか?

伊藤 評価は人がすることですし、自分ではなんとも思いません。「世間がそう呼ぶなら、そうなのかもしれないな」というくらいです。ただ、プロ野球はすべて数字で評価される世界。天才はその名にふさわしい記録を残していますよ。

――圧倒的な成績を残した選手がいる一方で、記録とは別のところでファンの記憶に残っている選手もいます。プレーの独創性の高さからメディアでよく取り上げられたり、ネット上にたくさんの映像が残されていたりする選手は、一種の天才だと思いませんか?

伊藤 その独創性というのが他の選手にとってまねできないものであれば、天才といえるかもしれませんね。投手でいえば、誰にもまねできない投球ができれば、打者はその球を見慣れることがなく、結果として打たれる可能性は低くなる。

  

――元オリックスの星野伸之さんの個性的なカーブなども、たびたびテレビに取り上げられます。

伊藤 いや、星野さんって、あのカーブに目が行きがちですが、本当のすごさはフォークボールにあるんですよ。ストレートと同じ軌道で、バットを振りにいったらスッと落ちる。あれはまねできない。たくさん勝てたのも(通算176勝)、あのフォークがあったからだと思います。カーブでいったら、やっぱり元中日の今中慎二。あのスローカーブはすごい。誰もまねできませんね。

――「まねできない」というのは、つまり変化球も個人の才能によるところが大きいということでしょうか?

伊藤 ストレートに比べれば、変化球はまだ練習で磨ける余地があります。ただ、手足の長さや肩関節の可動域、身体の使い方などによって、自分に合った球種や、変化の特徴が変わってくるので、持って生まれた素質に左右される部分は少なくありません。僕自身のことでいえば、スライダーは投げられましたが、良いシュートは投げられませんでした。

――となれば、どのピッチャーも身体的な特徴をはじめ、自分の持ち得る条件に合わせて最適な変化球を模索していくことになる。

伊藤 そうですね。その向き不向きに加えて、ピッチャーごとに変化球の理想像があるんですよ。「スピードは落とさず、少し変化させたい」とか「とにかく変化を大きくしたい」といったイメージをして、練習を重ねていきます。

 僕の場合は、球が曲がり始めてからもスピードが落ちず、かつ変化の大きいスライダーを志向していました。それが世間的に「高速スライダー」と呼ばれているわけですが、球速でいったら130~135kmなんですよ。川上憲伸(中日、アトランタ・ブレーブスに所属した元選手)なんて145km前後のスライダー系のカットボールを投じている。

 速度だけで言ったら川上のほうがはるかに上でした。それでも僕に「高速」の代名詞がついていたのは、おそらく球の「初速」と「終速」があまり変わらず、スピード感を保ったまま大きく変化するように見えたからでしょう。速さを維持するために、腕をよく振って、球の回転数を高めることを意識していました。今思えば、一久もわりと僕に似たタイプのスライダーを志向していたように思います。

変化球は投手の身体条件に左右される。肩関節が非常に柔らかく、手足も長く、手も大きい。こうした素質が伊藤さんに備わっていたからこそ、あの「高速スライダー」を投じることができたという

「故障しなければ……」今も心に残る悔恨

――現役選手で「天才」と感じるプレーヤーはいますか?

伊藤 今思いつくところでいうと、菅野智之投手(巨人)、菊池雄星投手(西武)、大谷翔平選手(ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム)、あとは、昨シーズンは一息でしたけど藤浪晋太郎投手(阪神)ですね。

――00年代以降、メジャーリーグで活躍する日本人選手が一気に増えました。日本のプロ野球界を取り巻く状況の変化に伴い、伊藤さんの中での天才プレーヤーの定義は変わってきていますか?

伊藤 うーん……どうでしょうね。ただ、プロ野球界全体のレベルは90年代に比べて格段に上がっていると思います。僕は入団1年目に防御率0.91を記録しましたが、今同じピッチングをしても、おそらくこの成績は残せないでしょう。誤解を恐れずにいえば、当時はクリーンアップさえ抑えれば、どうにか乗り切れた部分がありました。でも今は打者の平均レベルが向上し、多くの球団で切れ目のない打線が組まれています。今の選手は身体も大きく、打球を遠くへ飛ばす能力も高まっているので、抑えるほうは大変ですよ。

  

――プロ野球選手の身体能力向上の背景には、時代とともにトレーニングの方法論や選手の起用法などがアップデートされていったことが大きく影響しているのでしょうか。

伊藤 それはあります。なんせ僕が入団した頃は、ピッチャーも「とにかく走れ!」という時代でしたからね。適切なフィジカルトレーニングが浸透していませんでした。その後、僕は故障して、メジャーリーグのクリーブランド・インディアンスのリハビリ施設を訪れたのですが、ケガを防ぐ身体作りや最先端のトレーニング方法を目の当たりにして衝撃を受けましたよ。日本とのレベルがあまりにも違いましたから。

――ルーキーイヤーに故障をしてから、現役生活の多くをケガとの戦いに費やしました。今でも「故障する前に適切なトレーニングをしておけば」という後悔のような感情はありますか。

伊藤 あります。やはり投手にはコンディショニング(筋力やパワー、柔軟性、全身持久力など競技パフォーマンスに関連する要素を総合的に鍛え、身体的な準備を整えること)が重要で、適切な練習を重ねて強い身体を作らないと続けていけません。当時それができていれば、もっと違う結果を残せていたかもしれないなとは思いますね。

――それはつまり、「天才」がその才能を開花させるかどうかは、指導者や練習環境の影響が大きいということでしょうか。

伊藤 選手の才能を引き出すのは、ある程度は監督、コーチの役目だと思っています。適切なトレーニングをさせることはもちろんですが、それと同時に選手の成長をうながす形で実戦経験を積むチャンスを与える必要があります。そこが非常に難しい。

 僕の現役時代は中4日で完投するのが当たり前で、過酷なローテーションであろうと全力で結果を出しにいっていました。出場機会すら与えられない選手もいるので、泣き言なんて言ってられません。なによりライバルたちに負けたくないという思いが強くありました。でも、これは今の基準からいえば明らかに投げすぎですよ。

――ライバルというのは、当時意識していたバッターのことですか?

伊藤 いやいや。もちろんすごいバッターはたくさんいましたよ。松井秀喜(巨人、ニューヨーク・ヤンキース、ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム、オークランド・アスレチックス、タンパベイ・レイズに所属した元選手)、高橋由伸(元巨人)、前田智徳(元広島)。でも彼らに対して「絶対に抑えてやる」という気持ちがあったわけではありません。

 ライバルというのはあくまでチームメートの話。僕が故障からカムバックしてからでいえば、自分と一久と川崎憲次郎(ヤクルト、中日に所属した元選手)が先発の3本柱です。この2人には本当に負けたくなかった。正直「打たれろ!」って本気で思ってましたからね(笑)。

  

――天才・石井一久さんもライバルだった。

伊藤 僕はそう思ってましたけどね。ただ、一久は才能を持てあましていた入団当時と違って、98年ごろにはすっかり一皮むけ、日本を代表する投手になっていました。その後メジャーでも活躍するのはご存じの通り。僕からすれば、彼はそれくらいできて当然の器です。紛れもなく「天才」。僕が才能で嫉妬したのは、後にも先にも石井一久だけですよ。

(文・&編集部 下元陽、撮影・逢坂聡)

【天才人語/過去記事】

劇団ひとりは、なぜ「天才」と呼ばれるのか? テレビ東京・佐久間宣行プロデューサーが語る「天才」の条件

BOOK

『幸運な男――伊藤智仁 悲運のエースの幸福な人生』
インプレス/1800円(税別) 長谷川晶一 著

伝説の変化球「高速スライダー」で球界を席巻した天才投手、伊藤智仁。93年のデビュー戦から、コーチとして所属してきたヤクルトを去ることになった17年の「最後の一日」までを追った渾身のノンフィクション。30時間を超える本人へのロングインタビューを軸に、野村克也、古田敦也ら当時のチームメイトや対戦相手、アマチュア時代の恩師や家族など、総勢20名以上の関係者が今まで明かされることのなかった真実を語る。

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