本を連れて行きたくなるお店

「運命の人」との距離が縮まる非日常空間 西新宿のインド料理店「ムット」

  • 文・写真 笹山美波
  • 2018年6月4日

  

カフェや居酒屋で、ふと目にとまる、ひとり本を読んでいる人。あの人はどんな本を読んでいるんだろうか……。なぜその本を選んだのだろうか……。

本とお酒を愛する編集者で鰻オタクの笹山美波さんは、本の中の物語が現実世界とつながるような、そんなお店に連れて行ってくれます。

    ◇

貴方のパートナーは、貴方にとっての「運命の人」だと胸を張って言えるだろうか。結婚や子供のこと、世間の信頼を獲得するため合理的に考えて、別の人を選択してはいないだろうか。

もしそうなら、白石一文氏の小説『翼』の登場人物・長谷川岳志に言わせれば、貴方は本心に嘘を塗り重ねているだけだ。今回は運命の人との食事のシーンが印象的な、白石氏の小説『翼』の世界を紹介してみたい。

何もかも手放して一緒にいたい、「運命の人」との再会

長谷川岳志は妻子ある医師だ。順調過ぎるほどの出世をしており、都内にマイホームも購入している。順風満帆に見えるが、本人としては普通の人生をこなしているに過ぎない。心の中では、何もかも手放しても「運命の人」と一緒にいられさえすればいいと考えている。

運命の人は、妻・聖子に結婚前に紹介されて知り合った、彼女の親友の里江子。男女の関係になったわけではないが、出会ったその日に運命を感じ、岳志はすぐに「妻とは別れるから」と告白した。もちろん受け入れられなかったが、以来忘れられずに想い続けてきた。

気まずくなった里江子が疎遠にしていたことや、岳志がアメリカに転勤していたこともあり、その後10年会う機会はなかった。だが、里江子が高熱を出し、勤務先から近い西新宿のクリニックへ訪れて再会の日は訪れた。偶然にも日本へ帰ってきた岳志がそこに勤めていたのだ。

岳志による幾度ものアタックの末、里江子が初めてデートの誘いに乗る。仕事のトラブルで里江子がかなり参っていたタイミングで、ちょうど岳志から連絡があったのだ。里江子を迎えに行った岳志は、「うまいインド料理屋がある。それにその店、味は抜群なのにいつ行っても空いているんだ」と連れて行く。

デートの飲み屋にちょうどいい、小説のモデルになったインド料理店

お店のモデルとなったのは、西新宿のインド料理店「ムット」だと小説の担当編集者に伺った。新宿駅から大久保方面に少し歩くとある。店構えのインドらしさは強いが、店内は派手すぎずこぢんまりとしていて落ち着く。空いていて静かすぎることもないし、騒がしすぎることもない。

スーツ姿の会社員が少ないことやその異国情緒が、誰にどんな話を聞かれても不安のない安心できる環境のように感じた。里江子が本音を出せるよう、岳志が気づかって選んだ場所なのだろう。

大通りから離れた場所に「ムット」はある。店構えはオレンジと緑が鮮やかなので、見つけやすい

店内は異国情緒あふれるのに派手過ぎず、なぜか落ち着く

最初の一杯は、里江子が「飲みやすい」と絶賛していたインドのビール「キングフィッシャー」(630円)にした。癖のないさっぱりとした味わいで、すぐに飲み干してしまった。お通しは、豆の粉を使ったせんべいのような「パパド」。パリパリでつい手が進む。

インド料理といえばカレーライスを思い浮かべがちだが、『翼』の岳志と里江子が注文するのはそれ以外の小粋なチョイス。メニューを見ると、確かにカレー以外にもサラダや軽食、肉料理がたくさん並んでいる。2人がシェアしていた「サモサ」、「マサラワダ」、「タンドリーチキン」を食べてみよう。

サモサは、じゃがいものたねを小麦粉の皮で包んで揚げたインドの軽食。皮はサクサク、中はホクホク、味はちょっぴりスパイシー。いくらでも食べられるスナックだ。

飾らない盛り付けが愛らしいサモサ(420円)。カレーコロッケに近いイメージ。ケチャップにつけても◯

次いでマサラワダ。チャナ豆(ひよこ豆)をすりつぶしフリッター風にしたものだ。揚げ物が続くが、揚げたてでサクっとしているし、油っぽさもなくお腹にたまり過ぎない。外はカリカリ、中はモソモソ、なんか癖になる。新しくて楽しい食感。

マサラワダ(420円)には「ココナッツチャトニ」という、ココナッツフレークを使った白いソースが添えられる。付けると、ほのかな甘味とコクが感じられ一層美味しい

タンドリーチキンを手づかみで食べたら、心を開いた合図

メインディッシュはタンドリーチキン。できたてほやほや、スパイシーな香りがたまらない。じっくりタンドールで焼かれているので、旨味がギュッと凝縮されていて、しかもジューシー。ちょっと恥ずかしいが、ナイフとフォークを置いて里江子のように手づかみでかぶりつきたくなる。

実際やってみると、手づかみの方が余すことなく美味しさを感じられる気がした。骨の隙間までしゃぶれるし、つけダレでよごれる口の周りや指先を拭うのも含めて幸せだ。

ただ、これをデートの相手の前でやるのは勇気がいる。里江子は岳志を最初こそ拒絶していたけれど、仕事の愚痴を聞いてもらったり、岳志の悩みを聞いたりしているうち、手でタンドリーチキンを食べられるくらい、本心をさらけ出す気になったのだろう。

スパイシーなタンドリーチキン(750円)の箸休めに、添えられたココナッツ入りサラダの優しい甘みが嬉しい

『翼』のお気に入りの描写に、ボトルワインを2人で飲むシーンがある。ワインを注文するまで、里江子はキングフィッシャーを4本も飲み干し、お酒の強くない岳志も結構飲んでいた。里江子は酔いが回っている自覚はあるものの、岳志が注いでくれたワインを断らない。お酒を通じて2人の距離が縮んでいくのにキュンとする。

私も、最初は「早く帰ろう」と思っても、つい飲みすぎてしまうことがある。強くひかれ合い、一緒にいるほど孤独を埋め合える人との心地よい夜が、永遠に続くのではないかと勘違いしてしまうからだ。赤ワインを飲みながら、里江子と岳志も同じ気分になっていたのだろうと想像した。

インドの赤ワインは渋みがない。じんわり濃厚な甘味とハーブのような香りが料理に合う。グラスは500円、ボトルで2850円とリーズナブル

インド料理店には、男女を親密にさせる旅気分がある

正直、インド料理とデートの組み合わせに疑問を持っていた。友人の評価やネットの投稿で、「異国情緒が強すぎて、ハードルが高い」といった辛口な声をいくつか聞いていたからだ。けれども、ムットを訪れ、思い違いであると分かった。

初めて食べる料理や、知らない味わいばかりだが、すべて出来立てでおいしい。スパイシーな料理のおかげでお酒も進み、そのうち日常を忘れて違う国へエスケープしに来た気分になれる。相手とは逃避行を一緒に楽しむ共犯関係になれる。岳志が何もかも失って、里江子と幸せになりたいと願う気持ちに似ている。

岳志と里江子はこの夜をきっかけに、デートを重ねるようになる。運命の人が隣にいない人生に意味はあるのか、との疑問に岳志はいつまで耐えられるのか。里江子はいつまで理性的に振る舞い続けられるのか。彼らがその後どうなったのかは、ぜひ小説を読んで確認してほしい。

    ◇

インド料理 ムット
東京都新宿区西新宿7-22-34
営業時間:11:30〜15:00、17:00〜22:00
日曜定休
http://muthu.web.fc2.com

筆者プロフィール

笹山美波

笹山美波

「東京右半分」に生まれ育つ。編集記者を経て、外資マーケティングサービスのWebプロデューサー、マーケター。ライター。鰻オタク。東京と食に関連する歴史/文化/文学/お店を調べるのがライフワーク。
・ブログ
http://minamii.hatenablog.com/
・Twitter
https://twitter.com/mimi373mimi

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