徳川家康が恋い焦がれた宝の山 磯田道史が語る佐渡金銀山[PR]

  • 2018年6月28日

磯田道史さん

「黄金の国ジパング」を支えた佐渡の金銀山。
この地は世界文化遺産登録を目指しており、国内各地の候補の中から推薦資産として選出されれば、ユネスコへの提出を経て早ければ2年後に世界遺産として審査・登録される。

「我々人類の歴史や日本の歴史を本当に背景まで理解しようとすれば、金銀山の歴史を知っていないといけない」と語り、佐渡の世界遺産登録に期待を寄せるのは『武士の家計簿』などの著書を持つ歴史学者の磯田道史さん。磯田さんに佐渡の金銀山の歴史的な価値と魅力を伺った。

関ヶ原の背後に佐渡の金銀あり? 徳川家康の金とり合戦

手作業で金脈を掘り進むうちに山がV字に割れた「道遊の割戸」(写真=西山芳一)

佐渡の金銀の歴史は古代までさかのぼる。「今昔物語集」では砂金の採れる島として描かれ、佐渡に流刑になった世阿弥も、著書「金島書」で「金(こがね)ノ島」と書いている。古代中世にはすでに金が産出し、少なくとも平安末期には国内で有名になっていた佐渡の金。戦国時代末期になると、それが世界を動かし、また国内を動かしていく。

磯田さんがまず注目するのは、「関ヶ原の背後に佐渡の金銀あり」という事実だ。いったいどういうことか。

「関ヶ原の合戦って、徳川家康対石田三成だと思ってらっしゃる方が多いと思うんですけど、正確な理解ではない。最初は徳川家康と上杉景勝が対決して、そのタイミングで石田三成が参戦して全国を巻き込む戦になっていった。最初のきっかけは家康に上杉が対抗したことなんですよ」

豊臣秀吉に仕え、会津藩120万石を治めていた上杉景勝。上杉は秀吉から佐渡の支配を任されていた。秀吉の強さのひとつには、上杉に任せて吸い上げる佐渡の金銀があった。

「日本国内で10万規模の兵を動かそうと考えると、実は土地からあがる年貢だけでは足りないんですね。有力な金銀山を持っていることが武将としては国内を制覇するひとつの要因。私が家康でも、上杉がどうも会津のあたりで自分に対抗しようとしているなんて聞き付けたら、すぐに攻めに行きたいですね(笑)。勝ったら、飛び地から領地を処分できます。佐渡を確保してしまえば、金山の利権を吸い上げて、自由にできるんです」と磯田さんは語る。

上杉討伐軍に加わった武将たちも、上杉をやっつけるとその領地がご褒美になるということがわかっていて、喜び勇んでお供していたに違いない。そうして徳川は豊臣政権の崩壊時に佐渡の金山を手に入れた。これが歴史の背後にある事実だと磯田さんは見る。

  

東の果てから世界経済に影響を与えた佐渡の金

では、国内だけではなくて、世界史における佐渡の存在とはどういったものだったのだろうか。世界の経済、とりわけヨーロッパ経済に影響を与えていたその仕組みを磯田さんが説明する。

「ヨーロッパが発展できたのは、大航海時代にヨーロッパ外の世界からいろんなもの、特に金銀を持ってきたからです。船を派遣して金銀を手に入れ、その商業でもって国家を維持する経済思想を『重商主義』といいます。これがヨーロッパの特に西側に資本主義ができあがるもとになります」

重商主義が華やかになり、オランダなどに市民社会が生じようとしていた時期。金貨のもとになっていた「金」を世界でもっともたくさん産出していたのが、実は佐渡だと言われている。

江戸幕府は1639年から鎖国政策を実施したが、中国とオランダとの貿易は継続された。当初は輸入品の購入は銀で行われていたが、銀の減少が深刻になると小判の輸出が解禁され、支払いは銀から金に変わった。17世紀後半の35年間で、オランダに対しては100万両もの小判が支払われたと言われている。

「世界中に資本制が流行し、重商主義やヨーロッパの王権ができた。そういったヨーロッパの動きに不可欠なのが、ポトシの銀山やブラジルの金山とともに、佐渡金山、こんなに離れた東の果ての島の金だったんです。だからこれはやっぱり世界遺産たるべきだと思うんですよ。日本人だけの遺産ではないんですね」

佐渡小判。左が表面で右が裏面。裏面には佐渡で製造されたことを示す「佐」の文字が刻印されている(写真提供=ゴールデン佐渡)

江戸時代が「フリーズドライ」で保存されている佐渡金銀山

江戸幕府の財政の基盤となり、さらに世界経済にまで影響を与えていた佐渡の金銀。その生産体制や鉱山技術にも目を見張るものがある。

機械力に頼った西洋の鉱山と比べ、佐渡では手工業による生産体制が確立していた。鉱石を掘る人、掘ったものの中から金銀が含まれていそうな石を選ぶ人、排水を行うポンプを動かす人、といったように工程ごとに細かな分業体制が敷かれ、また、灰吹(はいふき)法や焼き金法と呼ばれる金を取り出す革新的な技術が、その多大な産出量を支え続けた。

佐渡に伝わる絵巻物を解説する磯田さん  

「佐渡の金銀山のおもしろいところは、採掘から精錬、そして貨幣の製作にいたる一連の過程が、何百年も前であるにもかかわらず奇跡的に絵図面で残っていることなんです。話を聞いてみると、鉱石から金を取り出す過程の絵巻物が150本ほど伝わっているという。世界経済を動かす背景になった鉱山が生まれてからそのピークを過ぎ閉山にいたるまでの400、500年の過程。それが豊富な資料とよく保存された遺跡によって、まるでフリーズドライのように全部きちっと残っている。これはやっぱり世界の人に見てもらいたいですよね」

江戸時代の採掘方法を伝える坑道が残っており、当時の作業の様子が復元・展示されている(写真提供=ゴールデン佐渡)

佐渡の歴史から見えてくるのは「自分たちの社会そのもの」

それでは、今に生きる私たちが佐渡の歴史と向き合ったとき、そこから何を学ぶべきだろうか。「人類が生きるには、その時代その時代に、不可欠な資源というのがある。そしてそれは入れ替わります。火縄銃とか火薬の技術だったり、航海術だったり。工業化の時代には鉄鉱石や石炭だったし、僕が小さい頃にはそれが石油だった。コンピューターだった時代もありますね。世界が重商主義だった時代、徳川が武将だった時代において、その資源のひとつが金銀であったことは間違いない」。そしてこれからの時代は、知的資源つまり人間の発想力そのものが資源になり、教育のあり方が大事になるだろう、と磯田さんは続ける。

「新しい資源の世の中に合った税金の使い方になるのはたいていかなり後になってから。早く対応できた国や地域は幸せだけど、たいていはできなくて大変なことになる。でもこれも人間が繰り返してきた歴史の有り様です。かつて自分たちがどのようなメイン資源の社会を作って、どのようにそれを生産し分配していたのかを知ることは、人間そのもの、自分たちの社会そのものを知ることなんだと思うんです」

  

(文・高橋有紀 写真・太田未来子)

    ◇

磯田道史(いそだ・みちふみ)
1970年岡山市生まれ。2002年、慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。現在は国際日本文化研究センター准教授。専門は日本史学。著書に『武士の家計簿』『無私の日本人』『歴史の愉しみ方』など。


■新潟県教育庁文化行政課世界遺産登録推進室
 佐渡金銀山サイトはこちら

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