男は女におごる「べき」と考えていた20代 それはつまらない理由だった
- 文・白岩玄
- 2018年10月12日
男女の交際にまつわる議論の中に、男性はデートで女性におごるべきなのかという問題がある。今は価値観が多様化しているので、そもそもそういった設問自体が時代遅れな気もするのだが、男性におごってほしいと考える女性はいまだに一定数いるようで、ネットなどの声を見ると、いろいろと意見が割れている。
不況なのに男性だけが払わなくてはいけないのは不公平だと言う人もいれば、女性はデートに行くためにおしゃれにお金を使っているのだから、払ってもらってとんとんじゃないかと言う人もいる。
ぼく自身は結婚しているので、もうあまりこの問題に触れる機会がないのだが、独身時代は基本的におごる派だった。もちろん相手の女性がおごられたくないようだったら割り勘にするけれど、そうじゃない限りは最初から出すつもりでいたし、女性が半分出すと言ってきても「いいよいいよ」と断っていた。
そして、その際のマナーとも言われる、相手の女性が財布を出すそぶりをするかどうかも、あまり気にしたことがない。まぁ、支払いのあとでまったく礼を言われないのはもやもやするかもしれないが、そういうのは枝葉の問題なので、あえてここで持ち出さなくてもいいだろう。
「ケチ」の烙印を押されたくなかった
自分がなぜ女性におごっていたのかを振り返ると、正直すごくつまらない理由だったと言わざるを得ない。ぼくの場合は、それがマナーだと考えていたからではなく、ケチな男だと思われたくなかったからだった。もちろん相手が学生だったり、働いていなかったりしたときに、経済状況を考慮しておごることはあったが、結局はそれも相手の分を払わないことで、自分にとって不名誉な烙印(らくいん)を押されたくなかったのだという気がする。
しかも、ぼくは幸せなことに、20代のあいだ、あまりお金に困らなかった。毎年の稼ぎそのものが多かったわけではなく、デビュー作が売れたときのお金がずいぶん残っていたので、金欠で女性におごれない経験をしたことが一度もなかったのだ。
でも、そうして気前よく女性におごり続けたことが、結果としてぼくを傲慢(ごうまん)にしたようにも思う。こういうのはもともとの性格もあるのかもしれないけれど、ぼくは女性にお金を出させないことで、自分がいい男であるかのような錯覚に陥っていた。おごるのは当然のことだから、と涼やかな顔をしながらも、心の内では、割り勘にしたり、安い店にばかり女の人を連れて行ったりする男の人よりも一段上に立っている気になっていた。
要するに、ぼくはおごるという行為を自分のためにしか使えなかったのだ。そして、それは心のありようとして、とても貧しいことだった。本当はもっと有益で、人のためになる使い方があったはずなのだ。
たとえば、片親でぼくを育ててくれた母親を海外旅行に連れて行ったり、おいっ子や小さないとこたちに好きなものを買ってあげたりするようなおごり方をしていたら、ぼくはおそらく今よりももう少しマシな人間になっていただろう(まぁそれでも結局は、自分のことをいいやつだと勘違いしていたかもしれないが)。
気遣いや敬意を表す「おごる」は必要ではないか
そんなありさまだったので、この「おごる問題」にかんして、他人にとやかく言うつもりはない。唯一気になることがあるとすれば、ぼくには一歳の息子がいるので、男性がおごる一面的な習慣は、彼が大人になるまで続くのかな、ということくらいだ。
事実、下の世代では割り勘が増えているようだし、そもそも恋愛自体に興味がない子も多いらしい。なんだかんだ恋愛を無視できない時代に育ったぼくは、そのことに多少のなじめなさを感じはするのだけれど、ネガティブな印象は持っていない。もし彼らが女性の前で変に見えを張らなくなったり、旧来の男性的な考えに縛られなくなってきたりしているのだとしたら、それはきっといいことだからだ。
ただ、そんなふうに割り勘が普通になって、恋愛をしない人が増えたとしても、息子にはそれなりの気遣いができる人間にはなってほしい、と身勝手に思う。将来女性と食事に行って、自分の方が食べた量や飲んだ量が多ければ、お金を多めに出すくらいのことはしてほしいし、割り勘が当たり前になったからといって、誰かにおごることそのものを否定してほしくない。
あるいはこういう言い方は昭和のおやじ的になってしまうかもしれないが、息子には「男だから、女だから」ではなく、時間を割いてくれた人に対して敬意を払える人間になってほしいのだ。そうすれば、その敬意の表し方として、今日はこちらが誘ったので全部出すよ、くらいのことは言えるようになる。それは同じ「おごる」でも、ぼくがしてきた「自分のためにおごる」のとは異なる行為だ。そこには他者に対する思いやりや礼儀があるし、心のありようとしてもずっと豊かで気持ちがいい。
ぼくは今、自分のお金で家族を養っているのだが、ある意味では、それは毎日息子にご飯をおごってやっていることでもある。もちろんそのことは親として当然の務めであって、今回の話と一緒にしてはいけないのだけど、そうした前提を別にすれば、おごるという行為は本来こういうものであるべきだよなと思うのだ。
ぼくが息子の離乳食を作るのに必要なお金を払うとき、そこには息子に不自由のない生活をさせてやりたいという気持ちがあるだけで、好きになってほしいとかの下心は一切ない。
まぁぼくもそれなりに年を重ねた人間なので、下心の絡むおごり方は、それはそれで人間臭くて面白いものだと知っているのだけど、なるべくなら「自分のため」の分量は減らしたい。たぶん、それが親になるということであり、大人になることだという気がするからだ。
■プロフィール
白岩 玄(しらいわ・げん) 1983年生まれ。京都市出身。2004年、小説『野ブタ。をプロデュース』で文藝賞を受賞し、小説家デビュー。同作は芥川賞候補作になり、テレビドラマ化。70万部のベストセラーになった。著書に『空に唄う』『愛について』『未婚30』『ヒーロー!』など。Twitter(@gegenno_gen)
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白岩玄さんが20代を赤裸々につづった連載「ありのままの20代」はこちら
■BOOK
- 『たてがみを捨てたライオンたち』
集英社/1600円(税別) 白岩玄 著 モテないアイドルオタクの25歳公務員、妻のキャリアを前に専業主夫になるべきか悩む30歳出版社社員、離婚して孤独をもてあます35歳広告マン。いつのまにか「大人の男」になってしまった3人は、弱音も吐けない日々を過ごし、モヤモヤが大きくなるばかり。
幸せに生きるために、はたして男の「たてがみ」は必要か? “男のプライド”の新しいかたちを探る、問いかけの物語。

PROFILE
- 白岩 玄(しらいわ・げん)
-
1983年生まれ。京都市出身。2004年、小説『野ブタ。をプロデュース』で文藝賞を受賞し、小説家デビュー。同作は芥川賞候補作になり、テレビドラマ化。70万部のベストセラーになった。著書に『空に唄う』『愛について』『未婚30』『ヒーロー!』など。Twitter(@gegenno_gen)