連載コラム・共感にあらがえ

つながりが生み出す分断、ネガティブな価値観で強まる結束……「共感」が生み出す攻撃の背景

  • 文・永井陽右
  • 2018年11月28日

Shingo Mine

テロ・紛争解決活動家の永井陽右さんが「共感」の問題点を考察する当連載。第4回のテーマは、「共感と対立」です。共感をもとに結束した集団が、時に他者を敵と見なし、攻撃していく背景を考察します。

かつてないほど他者との関係を希求する現代人

「この人は自分の仲間かどうか?」。私たちはいつも無意識にこうした視座を持ち、常に同一性を判断基準にして周囲の人間を識別している。連載第2回でも少し触れたこの点について、今回詳しく考えていきたい。

同一性の対象は、肌の色などのわかりやすいものから、出身地や嗜好(しこう)といった細かいものまで極めて多様かつ多層的なもので、それらが作用して仲間意識が芽生える。例えば、国籍も母語も異なっていても、出身校が同じだったり、応援するスポーツチームが同じだったりすると、互いの関係性は何かしらポジティブなものになるだろう。これは社会的存在としてここまで生き延びてきた人間のいわば生物学的基盤だ。

そうして構築される同一性を共有する集団、すなわち「内集団」では、「共感」が強力に作用する。これは人間が生き延びるために習得した能力であり、自分と何らかの共通性を持つ仲間に対して顕著に表れる。だからこそ内集団の中はなんとも居心地が良いものであるし、そのメンバーが苦しんでいるときはどうにかしてあげたくなる。

これからはコミュニティーの時代、としばしば言われる。SNSを含めインターネットが発達した現代において、距離の遠さや立場の違いといった現実世界の制約を飛び越え、また、一人では到底処理できない情報の渦に飲み込まれまいとして、我々は他者との関係性を築こうとする。自らの嗜好や主義主張、利害関係が合致したとき、そこには内集団が生まれる。今の時代、人はかつてないほど他者との関係を希求し、またその中に入りたがっているようにも見える。安心できない世の中で、共感し合える仲間を探しているのだ。

とはいえ、コミュニティーなる内集団は、内には優しいが、外集団にはネガティブな感情を現すことが多い。外集団のメンバーの苦しみにはシャーデンフロイデ(他者の不幸や苦しみを知ったときにわき上がる喜びやうれしさ)を感じ、幸せには舌打ちをすることは何ら珍しいことではないはずだ。これが格差や差別、対立や分断を招く。

まさに、つながっていくから、分断していく。そして、このグローバル化が進んだ大きな社会において、一人ひとりが自分に心地よい空間を選び取ろうとした結果、分断は拡大している。

popphoto2526 / Getty Images

安田純平さんバッシングに感じる怖さのワケ

内集団がもたらす影響で、私が最も問題意識を感じていることがある。それは、一つの内集団において、特定の同一性が前面に出ることで、他の同一性を度外視する作用が働くことである。

「前面に出る特定の同一性」とは、例えば外集団への憎悪や嫌悪といった感情だ。そうしたネガティブな価値観は内集団で共感を生み、結束を強める要素となり得る。そして、その共感の度合いが極めて高い地点に到達したとき、その点だけが突出して出現し、その価値観から外れた対象に向かって猛威を振るうことがある。ちなみに、たとえ内集団のメンバーであっても、その突出した価値観から外れていると見なされた者は外集団と認識され、攻撃の対象となる。

これは明確に紛争の原因の一要素である。例えば90年代にルワンダで起きた民族浄化では、特定の民族へのヘイトが扇動され、同じ国民であることや幼なじみ、同僚などの同一性を完全に無視して大虐殺へと発展した。また、全世界規模で展開されるテロとの闘いにおいて、無実の市民を殺すテロリストに対する強い嫌悪感や憎しみが前面に出されることも同じ作用であると思える。

日本の社会でも同じようなことは起きている。私が最初にこのことを“自分事”として感じたのは、実はデモ活動をしていたSEALDsとの絡みであった。彼らは私と同世代であり、知人も多数賛同・参加していたので、定期的にデモやスピーチに誘われていた。

私なりに色々と考えることはあり、その誘いを断っていたのだが、その中で「永井さんは案外右派で、安倍政権支持派で、戦争肯定派なんですね」といったことを複数人に言われたことを今も鮮明に覚えている。

また、とある取材の際に、「これまで多くのNGOにお話を聞いてきましたが、NGOで安保法制に明確に反対しないのは初めてですね」と鼻で笑われたこともあった。彼らと私は世界を良くしたいという思いも含め実に多くの同一性を共有していたが、そのときはそれらを軽々と凌駕(りょうが)する何かが彼らの心の中で大きく膨れ上がっていたのだろう。

ごく最近、これに似た怖さを感じたのは、シリアで拘束されていた安田純平さんを巡る反応であった。帰国後に安田さんをどう評価するか、様々な場所で議論されていたが、社会では強烈なバッシングが起きていた。その理由としては、「制止の声を顧みずに危険な場所に行った」「誘拐され政府に迷惑をかけた」「自分勝手な言動が多い」「テロ組織に身代金が渡ってしまったといううわさがある」などと推測できるし、事実、私も彼に対して思うところはあった。

日本外国特派員協会で会見するジャーナリストの安田純平さん(高田正幸撮影)

しかしながら先に挙げたポイントのみを批判のよりどころとし、危険地を報道しようとする姿勢や、その成果などの別の評価ポイントは考慮しない世間の声に、素直に恐ろしさを感じた。強烈なバッシングを浴びる安田純平さんの<今・ココ>の福祉状態が考慮されず、むしろその福祉状態を限界まで悪化させてやろうという意思すら感じた。

物事をどのように評価するかは個々人にゆだねられるが、感情の赴くままに結論を出して終えるのではなく、その評価の仕方の妥当性も考えるべきではないか。そしてそもそも、評価よりも気にすべきことがあるのではないか。

内集団では、良くも悪くも共感が強く作用している。特に共感が怒りや憎しみにリンクするとき、それは既存の内集団の性質を一瞬で変えるほどの力を持ち、それによって過激な行動へつながることもある、ということが言えるだろう。私たちは意図せずしてそうした環境の中にいることがあり、コミュニティーの時代においてそのリスクは常に存在している。

    ◇

ながいようすけ

永井陽右(ながい・ようすけ)
1991年、神奈川県生まれ。早稲田大学在学中にNGO「日本ソマリア青年機構」を設立。16年ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの紛争研究修士課程修了。17年より「日本ソマリア青年機構」をNPO法人化し、「アクセプト・インターナショナル」の代表理事に就任。現在51人のメンバーでテロと紛争の解決に向けて活動中。著書に「ぼくは13歳、任務は自爆テロ。: テロと戦争をなくすために必要なこと」(合同出版)など


[PR]

この記事を気に入ったら
「いいね!」しよう

今、あなたにオススメ

Pickup!