10年で12億人に電子IDを付与 インド政府のデジタル戦略に学ぶべきこと

  • NEXT GENERATION BANK 次世代銀行は世界をこう変える
  • 2018年12月18日

インドの女性フォトジャーナリスト、マンシ・タプリヤルの作品「Digital Identity」より。インド政府が主導した個人IDプロジェクト「Aadhaar」をテーマに撮影された作品。本作のほか、インドにおける行方不明児や女性問題、貧困といった社会的な課題をテーマにした作品に精力的に取り組む。 [ウェブサイト]

『WIRED』日本版編集長退任後、若林恵が立ち上げたコンテンツ・レーベル 黒鳥社から、次世代ビジネスカルチャームック「NEXT GENERATION BANK 次世代銀行は世界をこう変える」が刊行された。

若林には創刊の経緯を前編で、後編では、諸外国のフィンテック事情、信用スコアについて話を聞いた。今回は後編で触れたインドのフィンテック事情について、同書から一部を特別掲載。インド政府はいかにして、12億の国民に電子IDを付与できたのか。経産省・瀧島勇樹の論考からひもとく。

インドのダイナミックなデジタル戦略

「インディア・スタック」(India Stack)は、政府が束ねる「オープンAPI」の集積体です。このユニークなインフラを通じて、行政、企業、スタートアップが、インド国内のさまざまな課題を解決するビジネスやサービスの開発が可能となりました。この施策は2009年にはじまった政府主導のものですが、運営は民間。4つのレイヤーで構成され、それぞれのレイヤーに「認証」「署名」「書類作成・承認」「決済」「送金」などのAPIが用意されるかたちとなります。

これによって、国民すべてにインドのマインナンバーに該当する「Aadhaar」と呼ばれるデジタルIDが与えられ、そのIDさえあれば誰でも口座をつくることのできる銀行が用意されたことで、全国民が経済活動に参加することが可能になり、「金融包摂」「教育」「ヘルスケア」などに関わるダイナミックなソフトウェア・エコシステムの創出を促されるようになりました。また、行政はこうしたサービスを通して、より公正で透明性が高く、腐敗の起きにくいシステムへと生まれ変わることができるのです。その「インディア・スタック」の作られ方、運営の仕方には、日本のみならず、あらゆる行政府が学ぶべきヒントが隠されているのです。

1. プラットフォーム企業なしでもプラットフォームはつくれる

インターネットは、もともとは米軍が開発した技術を民間主導で整えるかたちで実装されたものでしたが、結果的にはそのガバナンスは、多くの場合、いわゆる領域国家(リアルな国家)とは別空間のサイバースペースで行われてきたといえます。ところがインターネットをはじめとするデジタルテクノロジーが、徐々にリアルの空間へと浸み出してきたことで、社会生活も、経済活動も、デジタルに深く依存するようになってきました。

俗に「GAFA」(Google, Apple, Facebook, Amazon)と呼ばれるプラットフォーマーが提供するデジタルインフラは、それが強大化するにつれ、もはや「公共財」と呼んでもいいほど不可欠なものとなっていきました。そしてそれがグローバルに展開されたことで、伝統的な領域国家の主権争いを生み出すことになりました。それは、サイバー側がリアルの世界を規定しはじめたことに対する、「リアル側」からの抵抗とみることもできます。一方で、中国では、BATJ(Baidu, Alibaba, Tencent, JD)を政府ががっちり押さえることで、リアル側がサイバー世界を規定し、サイバー空間において国境を引いている状態をつくり上げています。

いずれの場合も、社会生活・経済活動の基礎となるデジタル基盤を、民間企業が提供している格好となっていますが、デジタルインフラを「公共財」とみなすのであれば、それを担うのが私企業でよいのかという疑問が当然出てきます。突然サービスが停止されたり、個人の情報が他国や治安当局に提供されたり、データ利用やサービスが中立的でなかったり、不当に高いお金を払わざるを得なくなったりすることで、国民に不利益が生じ、格差を生み出すものともなります。

国民の誰もが公平・公正にそれを使え、かつ利便性を損なうことなくデジタルインフラを利活用できる基盤を、自分たちでつくることはできないのだろうかという問いから「インディア・スタック」は生まれたと聞きます。そこには巨大なプラットフォーマーとして君臨する私企業は存在しません。官民が、フェアなかたちで連携をしながら、それはつくり上げられました。

2. 取引コストを下げるデジタル時代の公共インフラ

産業革命期から高度成長期における「公共財としてのインフラ」は、主に、より多くの物、情報、エネルギーや労働力を、より早く生み出し、より素早く動かすことができるようにするものでした。明治政府が最初につくり上げたインフラは、まずは鉄道、続いて電力・電信、そして道路でした。みなに共通する利益をもたらすために、そのコストを公共投資が担うことで、結果、経済活動が活発になり、国全体が豊かになることが、そこでは計画されました。

これからの未来に向けた社会の基盤となる資源は、もはやモノではなく「データ」です。そのときデータをいかに素早く動かし、利活用できるようにするかは、今後の国の繁栄を考える上で重要な戦略となります。そのとき、データを動かすための「鉄道」や「道路」は、最も重要な「公共財」となるのです。一企業が、その役割を担うのではなく、政府・民間を超えたところでデータを共有し、分析し、有用化するための基盤を、ハード、ソフトの両面からつくり上げることが、現代における「インフラ整備」となるのです。デジタルデータの力は、以下のような現れ方をします。

まず、個人や企業に番号を振ることで、共通する属性情報を関係者が共有することができるようになります。これまで表に出ていなかった個体の情報がわかるようになり、インプットとアウトプットが可視化されるようになります。

行政府とのやりとりや資金決済、健康管理、モバイル通信などの取引情報や、その基盤となるデータが共有されることで、各主体が行う審査や意思決定のコストが格段に下がります。また、インドの場合、農村部にまでその基盤が浸透することで、これまでできなかったビジネスや公共サービスも可能になります。ポイントは、こうしたデジタルインフラやデータが、国家によって管理されるのではなく、誰もがアクセスできる「公共インフラ」として民間の各主体の取引コストを下げるものとして機能することなのです。

税金を原資として政府自らが直接提供するやり方ではなく、サービス展開のコストを下げるデジタルインフラを用意することで、民間主導でありながら、各地方のさまざまなプレイヤー間で自律分散的に課題の解決を図ったところにユニークさがあります。社会のあらゆるプレイヤーを「インクルージョン」(包摂)する、これからの政府のあり方を予見するような発想なのです。

デジタル時代のPPPは「課題」からスタートする

インディア・スタックのきっかけをつくったのは、2008年の国民会議派の前政府ですが、デザインには民間のコンサルティング団体「iSPIRIT」が深く関わってきたほか、InfosysのOBなども呼び込んだ、いわゆる「PPP」(Public Private Partnership)によるプロジェクトとなっています。

これまでのPPPは、「公設民営」ということばがあるように、行政がつくったものをコンセッションにかけ(免許を与えられた事業者が独占的な運営権を得る事業)、効率的な運用によってコストを下げようという試みが大半でしたが、インディア・スタックの場合、企画デザインの段階から深く民間のIT関連の識者が関わってきただけでなく、「インクルージョン」という解決すべき社会課題からソリューションをつくり上げていく、いわゆる「デザイン思考」のプロセスを用いてプロジェクトが進められた点を特筆すべきでしょう。

「こういうことがしたい」というプロジェクトリーダーの明確な意思と、ユーザー目線のデザイン思考、技術に精通した専門家、この3つの組み合わせの妙。さらに、政府自体はプロダクトの供給者ではなく、基盤となるデータを提供して、多種多様な民間主体がサービス提供を行うようデザインした点において、インディア・スタックはデジタル時代の新しい「PPP」のあり方といえるのではないでしょうか。(「NEXT GENERATION BANK 次世代銀行は世界をこう変える」より転載、文中敬称略)

瀧島勇樹(たきしま・ゆうき)

2001年経済産業省入省。インフラ輸出、インド太平洋戦略、中小企業金融、サイバーセキュリティ、政府デジタル化の企画、実行に従事。08年ハーバード大ケネディスクール卒。

写真・平松市聖

「NEXT GENERATION BANK 次世代銀行は世界をこう変える」

若林恵・責任編集

制作:黒鳥社 発売:日本経済新聞出版社 

1,200円(本体価格)+税

フィンテックの勃興、仮想通貨や電子通貨の広まり、キャッシュレス化の波によって、猛然とデジタル化・モバイル化が押し進められ、さらに、マイナス金利、低成長、働き方改革などによって、産業、経済のルールまでもが抜本的に見直しを迫られている。この変化の混乱のど真ん中にあって、「金融」の世界はいったい何を指針に、どこへ向けて、どう自らを刷新しうるのか? これからの新しい社会の「金融」を担うべき新しい機関=次世代銀行とは、いかなるものなのか? お金とテクノロジーと社会が織りなす社会変革の壮大なシナリオを、ダグラス・ラシュコフ、デイビッド・バーチ、武邑光裕、山本龍彦、池田純一、出井伸之、tofubeatsから、現役メガバンク取締役まで、時代を牽引する識者とともに、『さよなら未来』の著者で『WIRED』前編集長の若林恵が考えた、次世代ビジネスパーソン必読の「次世代銀行論」

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