元イエローキャブ社長「巨乳という言葉は一番嫌い」

グラビアブームはAVブームとの戦いの歴史だったと語るサンズの野田義治会長(撮影・村上幸将)

<この30年の芸能界を振り返る・平成プレーバック>

平成の日本に一大ムーブメントを巻き起こした「グラビアブーム」。その仕掛け人が芸能事務所イエローキャブ社長として細川ふみえ、小池栄子らを次々世に送り出した、サンズの野田義治会長(72)だ。野田氏はグラビアという言葉がない時代に、週刊誌ブームに乗ってセクシー路線のタレントを次々ブレークさせた一方、同時期にCS放送などで一気に拡大したアダルトビデオ(AV)との“戦争”だったと振り返った。

   ◇   ◇   ◇

グラビアブームのルーツは、83年のクラリオンガールコンテストで平凡パンチ・アイドル賞を受賞した、堀江しのぶさんを講談社「週刊少年マガジン」編集部に売りこんだことだった。

野田氏 女の子を使わない少年漫画誌で、3カ月に1冊アイドルの写真誌「DELUXEマガジン」を1人で作る変わった編集者と知り合い、雑誌で1番最初に使ってくれた。インパクトは相当、大きかった。

79年に月刊誌「噂の真相」が、80年代には写真週刊誌が相次いで創刊されるなど雑誌ブームにも乗った。

野田氏 巨乳やグラビアという言葉もない時代。ある出版社から「タレントをつぶすのか」と言われたけれど、雨後のたけのこのように出版され雑誌、写真週刊誌バブルがきた。けれど、各誌もヌードばっかり出すわけにいかない。代わりになったのが、水着写真だった。最初はピンナップという言葉で途中で週刊誌各誌がグラビアって言い出したと思う。たまたま、波に乗れただけで成功だと思っていない。花の命は短くてと言うけれど、あのやり方は“あだ花”だと思う。

その中「グラビアアイドル」という形で枝分かれしたのには違和感を覚えた。

野田氏 グラビアを電車の操車場に例えて顔、キャラクター、名前を練って覚えてもらう場所、通過点という考えでやった。それが「グラビアアイドル」というカテゴリーが出来た。グラビアを終点に変えるヤツがいたが、そんなのとんでもないと思った。

同時期にブームを迎えたAVも脅威だった。野田氏は、タレントを脱がせないなど、違いを際立たせるのに苦心した。

野田氏 日本の社会の何かがゆるくなったんだろうね。あいつらはエロ、俺がやっているのはエロじゃない…じゃ、どう言おうかとカメラマンと話し合って表現を考えていた。細川ふみえも雑誌では水着をやるけれど、テレビでは胸の大きさを強調してもせいぜい見せて谷間。向こうはルックスがいい上、(男性と)絡んでいる。何でこんなかわいい子がAV? と思って(スカウトが)口説くところまで見に行った。こっちが雑誌に1回出して3000円しかもらえないところ、向こうは1本出て300万円とかもらえる世界だった。

CS放送のアダルトチャンネルも脅威だった。

野田氏 当時、ある人から「空からエロが降ってくる」と言われ、私は「ありっこない。法律をなめているんじゃないよ」と言った。そうしたらスカパー!用のJ-SAT(衛星)が打ち上げられ、ピンク映画のコンテンツが8チャンネルも普通のホテルで見られるようになり、巨乳を売りにするAV女優も出てきた。だから「巨乳」という言葉は一番嫌い。

平成が終わろうとしている今、両者が混在する難しい時代だという。

野田氏 セクシー女優が普通のタレントをやり、タレントがAVに出始めグチャグチャになっており、素人がAVにパッと入って来られる時代にもなった。AVは1本撮って後は知りませんと言えるし、勝負はそこで終わる。うちらは雑誌に載せたところからスタート…そこが違う。胸が大きかったら、すぐグラビアになれる時代は終わった。雑誌もグラビアの数も少なくなって、よほどいい子しか撮ってくれず、テレビ業界も待ってくれなくなった。やはりしゃべりは必要。地頭(じあたま)の強い子は生き残る。

最後につぶやいた。

「僕の中でグラビアは終わっていない」

【村上幸将、大井義明】

◆野田義治(のだ・よしはる)1946年(昭21)3月28日、富山市生まれ。広島県呉市で育ち、呉工業高卒業後に俳優を目指し上京。劇団こまどりの研究生をしつつ、東京・歌舞伎町のジャズ喫茶で働きグループサウンズのバンドのブッキングを行う。退店後、夏木マリのセカンドマネジャーを経て、渡辺プロダクションでいしだあゆみのマネジャーを4年務めた。独立後、朝丘雪路さんのマネジャーを経て、1980年に黒沢明監督の長男久雄氏とイエローキャブを設立。04年、芸能事務所サンズを立ち上げた。

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