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伊達政宗の指揮で築かれた広大な城 高田城(1)

伊達政宗の指揮で築かれた広大な城 高田城(1)

高田城は1614(慶長19)年、松平忠輝により築かれた

松平忠輝が築いた高田城(新潟県上越市)は、天下普請によりわずか4か月で完成した。天下普請とは、幕命により諸大名が招集され請け負う築城工事のこと。つまり、高田城は徳川幕府にとって重要な城であったということだ。諸説あるものの、1614(慶長19)年3月15日に着工し、7月上旬には一応の完成をみたという。

外堀まで含めると面積は60ヘクタール以上と大規模で、幕府の力の入れ具合が伝わってくる。大坂の陣を目前にして、豊臣方の大名を牽制し、一方で江戸の背後を固める役割を担った城だったのだろう。普請には加賀の前田利常のほか、出羽の上杉景勝、仙台の伊達政宗など13の大名が動員された。

伊達政宗の指揮で築かれた広大な城 高田城(1)

二の丸から本丸にかかる、極楽橋。1908(明治41)年に失われたが、往時に近い形で復元された。復元前には発掘調査も行われている

伊達政宗の指揮で築かれた広大な城 高田城(1)

極楽橋からのぞむ、内堀と本丸南東側の土塁

築城までの経緯を少し振り返ってみよう。1598(慶長3)年に上杉景勝が会津へ転封となると、越後には越前北ノ庄から堀秀治が入封した。春日山城(新潟県上越市)を廃城とし福島城(新潟県上越市)へ居城を移した堀家だったが、1610(慶長15)年に御家騒動により、取り潰しに。これに代わり同年、信濃川中島から入ったのが、徳川家康の六男・松平忠輝だった。

前述の通り、忠輝の配置は激化する豊臣家と徳川家の抗争において、豊臣方である前田利常や上杉景勝らを牽制するためのものだったと考えられる。高田城築城には天下普請による諸大名への経済的圧迫の目的もあったはずで、それを証拠に、駆り出された13大名のうち、松本藩主・小笠原秀政と谷村藩主・鳥居成次以外はすべて外様大名だった。忠輝の舅にあたる政宗が総裁として陣頭指揮を執り、普請は進められた。

伊達政宗の指揮で築かれた広大な城 高田城(1)

三重櫓から見下ろす二の丸。遠くには春日山城方面も見える

高田城は、関川と矢代川が合流する高田平野の菩提ヶ原に築かれている。通常、城は丘陵などに築くことで高低差を利用して防御力を高めるのだが、平地に築くとそれができない。高田城では平地の欠点を補うべく、深く広い堀がつくられた。現在の高田城がまるで池のような広大な堀に囲まれているのはそのためだ。

伊達政宗の指揮で築かれた広大な城 高田城(1)

本丸西側の広大な内堀

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城の東側を流れる関川。天然の外堀としての役割も

高田城の特徴は、石垣ではなく土塁で囲まれていることだ。おそらくは豊臣家との決戦を間近に控え、完成を急いだためだろう。天守も構築されていない。明治に入り二の丸や三の丸の土塁は撤去されてしまったが、内堀で囲まれた本丸を取り囲む土塁などは築城当時に近い状態で残り、圧巻の姿を今に伝えている。

伊達政宗の指揮で築かれた広大な城 高田城(1)

本丸南東側の内堀。広い水堀と高い土塁が印象的だ

(つづく。次回は5月8日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト
高田城
えちごトキめき鉄道「高田」駅から車で10分 ほか
025-526-5915(高田城三重櫓
上越市のページはこちら

PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

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