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原爆で倒壊した天守、平和のシンボルへ 広島城(2)

原爆で倒壊した天守、平和のシンボルへ 広島城(2)

広島城天守。原爆で倒壊し、1958(昭和33)年に再建された

「デルタに築かれた巨城 広島城(1)」からつづく>
広島城は、内堀で囲まれた本丸と二の丸を凹型の三の丸が囲み、中堀がめぐる構造だ。そのまわりに4つの外郭が配され、外堀で囲まれる。平地に築かれた平城であり山や丘などの自然地形に頼れないため、内堀・中堀・外堀の三つの堀で守りを固めているのだ。太田川も、西側外堀の役割を果たしていた。

原爆で倒壊した天守、平和のシンボルへ 広島城(2)

中堀西面を天守から見下ろす。遠くに原爆ドームが見える

表御門から城内に入ると、多聞櫓(やぐら)や太鼓櫓が復元されている。ここが、本丸の南側に配された二の丸だ。広島城の構造上の特徴は、二の丸が“馬出”と呼ばれるスペースになっていること。本丸の中御門とは土橋で連結され、独立した空間を置くことで防御力を高めている。城の大手(正面)は南側で、北側が搦手(からめて=裏手のこと)。本丸と二の丸の位置関係は、どうやら豊臣秀吉が築いた聚楽第(京都府京都市)を参考にしたようだ。

本丸は、北側の上段と南側の下段で構成され、周囲は石垣で囲まれる。北側は折れのある石垣が連続し、北西隅には2棟の三重小天守を渡櫓で連結した五重の天守が建っていた。

本丸上段の一段高くなっているところが本丸御殿跡で、それを囲むようにして東・西・北側には帯曲輪(くるわ)が配置される。出入口は、南側の中御門と東側の裏御門の2か所。広島護国神社のある一帯が本丸下段となる。

原爆で倒壊した天守、平和のシンボルへ 広島城(2)

土橋を渡ると、二の丸から本丸へとつながる

本丸上段を訪れると、広島大本営跡と説明されている。明治時代に建てられた、鎮台司令部庁舎の跡だ。1873(明治6)年の廃城令公布後、広島城は陸軍所管の軍事施設となる。本丸には1871(明治4)年に鎮西鎮台第一分室(のちの広島鎮台)が置かれ、1877(明治10)年に洋風2階建ての庁舎が建てられた。この建物が、日清戦争時に広島大本営の建物となったのだ。

全国の城と同様に、広島城も明治維新により運命を変えた。天守の南・東側にあった三重の小天守2棟のほか、櫓などの建物はすぐさま壊されてしまった。残された五重の天守と南・東側の渡櫓は大正時代になると文化的価値が認められ、広島大本営の建物とともに知られるようになった。やがて天守は内部公開され、1931(昭和6)年には旧国宝に指定された。

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広島大本営跡。明治時代に建てられた広島鎮台の庁舎が日清戦争時に広島大本営となった

現在の広島城の天守は、1958(昭和33)年に復元された鉄筋コンクリート製だ。毛利輝元が築いたとみられる天守は昭和に入っても現存する貴重なものだったが、1945(昭和20)年8月6日午前8時15分の原爆投下で、一瞬にして原型がわからないほどに崩れ落ちてしまった。

原爆直後に撮影された写真には、瓦礫の山と化した天守の材木が写り、爆風のすさまじさを物語っている。爆心地は、広島城より南西約1キロ、陸軍敷地の南端から約200メートルのところ。天守は北側に、上層から押し潰されるように倒壊したとみられている。

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内堀越しの天守を、北東から。原爆投下後に同じアングルで撮影された古写真が残る

天守を復元する際は、木造にするか物議を醸したものの、「二度と倒壊しないように」との願いもあり、鉄筋コンクリート製にしたという。これが、広島にとっての広島城の在り方であり歴史なのだろう。城とは、地域とともに歩み、生き続けていくもの。だからこそ、地域のシンボルであり続けるのではないだろうか。建造物が現存しているかどうかで城の価値は決まらず、木造だからよいわけでもない。その城が持つストーリーの中に、それぞれの本質と価値があるのだ。

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天守の東側。現在の天守が再建される前には、1951(昭和26)年に再建された2代目天守も存在した

表御門櫓台や中御門櫓台に残る赤黒い石垣は、被爆時の火災により変色したものだ。当時の悲惨な状況が思い浮かび、心が痛む。

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広島城二の丸にある、被爆したユーカリ。爆心地から740メートル地点にあたる。被爆樹木で唯一残る。爆心地から1120メートル地点の外堀角には被爆したクスノキが立ち、本丸にも被爆クロガネモチが生きている

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中御門櫓台に残る石垣

残念ながら、広島城のかつての建造物は残っていない。しかし、見ごたえのある石垣が残る。石垣は、自然石をほぼ加工せずに積んだ野面積と、ある程度の大きさに整形して積み上げた打込接に大別される。隅角が算木積みになっているものは福島正則時代以降の石垣だ。天守台付近の石垣は輝元時代のもので、カキなどの貝殻が付着していることから、広島湾頭の石材とみられる。かつては島だった、現在の黄金山(仁保島)や江波山(江波島)から運ばれたのだろう。

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輝元時代に築かれたと考えられる、天守台の石垣

天守南東下に並べられた石は、天守の礎石だ。再建工事の際に撤去した旧天守の礎石が、そのまま移されている。悲しい歴史の中で姿を消した往時の天守に思いを馳せ、平和のシンボルとなった現在の天守を見上げてみる。なにも起こらない穏やかな時間とは、なんと贅沢なものなのだろう。この場所に立っていることが、特別なことに思えてくる。

(広島城の回・おわり)

交通・問い合わせ・参考サイト

広島城
市電「紙屋町東・西」電停から徒歩約15分
082-221-7512 (公益財団法人広島市文化財団 広島城)
公益財団法人広島市文化財団 広島城のページはこちら

PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

デルタに築かれた巨城 広島城(1)

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