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西南戦争の舞台となった人吉城 「西郷どん」ゆかりの城(1)

鹿児島市城山町の西郷隆盛洞窟にある、西郷隆盛の像

鹿児島市城山町の西郷隆盛洞窟にある、西郷隆盛の像

大河ドラマ「西郷どん」が佳境を迎えている。明治維新という時代の大きなうねりの中、波瀾(はらん)万丈の人生を送った西郷隆盛。戊辰戦争後は鹿児島(薩摩)へ帰郷するも、1871(明治4)年に新政府に復職。1873(明治6)年に辞職すると再び鹿児島に戻り教育に専念したが、1877(明治10)年に軍人養成施設である私学校生徒の暴動から、西南戦争の指導者となり政府軍(官軍)と戦った。壮絶な最期がどのように描かれるのか楽しみに待ちながら、西南戦争に関連する城を歩こう。

西南戦争では、いくつもの城が戦いの舞台となった。熊本城(熊本市)もそのひとつだ。1877年2月22日、西郷軍は1万3000人の兵で官軍がこもる熊本城を攻撃。しかし鉄壁の防御を前に、誰ひとりとして城内に侵攻できなかった。築城名人の加藤清正が築いた難攻不落の城は、築城から約270年後に堅城ぶりを証明したのだ。「官軍に負けたのではない、清正公に負けたのだ」と西郷はつぶやいたという。

熊本城(2012年撮影)。天守は西南戦争の際に本丸御殿とともに焼失し、1960(昭和35)年に再建された

熊本城(2012年撮影)。天守は西南戦争の際に本丸御殿とともに焼失し、1960(昭和35)年に再建された

その後、3月20日に田原坂の戦いに敗れると、4月15日には熊本城から撤退を開始。隆盛が再起を図るため駐留し、6月1日に激戦の舞台となったのが、人吉城(熊本県人吉市)と城下町だった。

人吉城は球磨川と胸川が合流する丘陵上に築かれ、球磨川を挟んで北側に城下町が形成されていた。西郷は人吉城西側の永国寺に入り、33日ほど滞在したとされている。趣味の狩猟をしたという逸話が残り、司馬遼太郎の小説「翔ぶが如く」には西郷が球磨川を下るようすも描かれている。激戦の合間には、今も変わらぬ美しい自然を前に穏やかなひと時があったのだろうか。

人吉城。JR人吉駅から車を南へ10分ほど走らせたところにある

人吉城。JR人吉駅から車を南へ10分ほど走らせたところにある

西郷軍は、士族の屋敷や町屋に駐屯した。新宮簡(たけま)の屋敷は、官軍陸軍裁判官だった簡の子、新宮嘉善(かぜん)が人吉隊一番隊の小隊長であったことから西郷軍幹部の宿舎となった。隆盛の宿舎も永国寺ではなく嘉善の屋敷だったという説が有力だ。

西郷軍の最大兵力は3万8000人で、そのうち約7000人が九州各地から参戦した不平士族だった。そのひとつが人吉隊(一番隊)であり、人吉に集結後は二番隊、三番隊も結成された。1862(文久2)年に人吉城下で大火災があった際、薩摩藩から復興支援を受けたことから恩義があり、西郷軍へ味方することになったという。

球磨川を挟み、北には官軍、南には西郷軍。悲しくも親子で敵対した簡は、断腸の思いで自らの屋敷に大砲を放ったという。現在、新宮屋敷の跡地に建っている御仮屋屋敷は藩主が建てた屋敷で、西南戦争後に新宮家が拝領し現在地に移築された。門は人吉城の唯一の現存遺構で、城主の御館の水の手側にあった堀合門を移築したものだ。

新宮屋敷跡(武家蔵)。御仮屋屋敷では、切腹の際に使われる切腹の間(床挿し)、逆柱、猿頬天井などがみられる

新宮屋敷跡(武家蔵)。御仮屋屋敷では、切腹の際に使われる切腹の間、逆柱、猿頬(さるぼお)天井などがみられる

平安時代に創建された青井阿蘇神社も、青井大宮司家の屋敷が人吉隊の宿舎・本部となった。神社から回廊でつながれた、現在「文化苑」となっている屋敷がその場所だ。後に「継承殿」と命名された主家の一部は1740(元文5)年以前の建築とされ、茶室の柱には刀傷が残る。

青井阿蘇神社。本殿など5棟の建造物が国宝に指定されている

青井阿蘇神社。本殿など5棟の建造物が国宝に指定されている

西郷軍が陣地とした人吉城は、鎌倉時代に相良長頼(ながより)が人吉荘の地頭として入城し、相良氏が明治維新まで約670年間居城とした城だった。1470(文明2)年頃に12代相良為続(ためつぐ)が本格的に築城。広大な山城の一部を、1589(天正17)年に20代相良長毎(ながつね)が石垣づくりの城へと改変した。中世の城と近世の城の姿が残る希少な城でもある。近世の人吉城は、1639(寛永16)年頃に完成したとみられる。

人吉城。大手門北側の多門櫓(やぐら)、多聞櫓北側の長塀(ながべい)、西北角の角櫓などが復元されている。本丸には天守はなく、護摩堂(ごまどう)が建てられていた

人吉城。大手門北側の多門櫓(やぐら)、多聞櫓北側の長塀(ながべい)、西北角の角櫓などが復元されている。本丸には天守はなく、護摩堂(ごまどう)が建てられていた

城の北側を流れる球磨川は、日本三大急流のひとつ。城の防御壁、外堀として機能していた。その一方で、江戸時代には年貢や物資の輸送に欠かせない水路でもあったようだ。7カ所の船着き場のうち最大規模を誇る水ノ手門付近には米蔵が置かれ、船蔵や番所の存在も発掘調査により判明。米蔵からは、年貢米を示す木札も見つかっている。

人吉城は本丸、二の丸、三の丸を中心に構成され、ふもとには城主の御館(みたち)が置かれ、西外曲輪(にしそとくるわ)には武家屋敷が並んでいた。三の丸からは、西南戦争の際に官軍が着陣した村山台地が見える。官軍はJR人吉駅北側の村山台地に本営を置くと、市街地が一望できる台地の先端(現在の人吉西小学校付近)に砲台を築き、人吉城を目がけて総攻撃をしかけた。西郷軍は人吉城の三の丸に大砲を持ち込んで砲撃したとみられるが、本営までは届かなかったという。

人吉城の水ノ手門跡。藩内には12の米蔵が置かれ、そのうちの二つが水ノ手口と堀合門の東にあった

人吉城の水ノ手門跡。藩内には12の米蔵が置かれ、そのうちの二つが水ノ手口と堀合門の東にあった

人吉城の御下門(おしたもん)跡。本丸や二の丸に登る際の登城口

人吉城の御下門(おしたもん)跡。本丸や二の丸に登る際の登城口

人吉城からの眺望。官軍が着陣した村山台地は、球磨川対岸の北西へ2キロほど離れたところにある

人吉城からの眺望。官軍が着陣した村山台地は、球磨川対岸の北西へ2キロほど離れたところにある

人吉城には、二つの珍しい遺構がある。ひとつは、屋根のように突出部がつけられた「はね出し石垣」だ。1862(文久2)年の寅助(とらすけ)火事の後に、防火目的でつくられた。五稜郭や品川台場など、幕末に築かれた西洋式の城や台場以外での例はない。もうひとつは、発掘調査で見つかった「井戸を持つ地下室」。1640(寛永17)年の御下(おしも)の乱で焼失した、相良清兵衛と相良内蔵助の屋敷から見つかった。全国でも例がない不思議な遺構で、本丸護摩堂の湯殿と同じく行水施設と推察されている。

はね出し石垣。御館の防火のためにつくられた

はね出し石垣。御館の防火のためにつくられた

(つづく。次回は11月5日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト
■人吉城
JR「人吉」駅から徒歩約20分
https://www.city.hitoyoshi.lg.jp/q/aview/95/269.html
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萩原さちこさんの新刊「地形と立地から読み解く『戦国の城』」(マイナビ出版、本体1290円)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス、本体1400円)が発売中です。

PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

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