いつかの旅

連載エッセー「いつかの旅」 (12)夜の海

  

 
 物語を書くことを、夜の海に舟をだすようだと話したことがある。櫂(かい)だけを手に、ひとりきりで漕(こ)ぎだす。目印のない夜の海をただ進む。

 文章を書いて生活して、もう十年目になる。ありがたいことに毎月少なくはない仕事をもらえているけれど、いまだに書きだしは迷うし、怖いし、躊躇(ちゅうちょ)する。苦しいときほど夜の海が見える。闇を吸い込んで、たぷたぷと揺れている。深呼吸して、「さあ、いくぞ」と覚悟を決めて書きだす。
 言葉をひとつ選ぶということは、それ以外の言葉を捨てることでもあるから、いつだって緊張する。

 それでも、毎日書いていると恐怖は麻痺(まひ)してくる。勘で渡りきれるような気もして、夜の海に慣れてくる。見えない海の底になにが潜んでいるか、すべてを知りもしないくせに、前もいけたのだから今回もうまくいくと根拠のない楽観が生まれる。

 先月、友人と和歌山へ行った。昼は目当ての場所を観光して、食べたかったものを食べ、夜は温泉のあるホテルでのんびりした。ふと、夜の海が見たくなった。
 窓から外を見ると、夕方に歩いた白い砂浜には誰もいなかった。街灯に照らされたなめらかな白砂はひっそりと光っていて、雪の晩を思いおこさせた。

  

 ホテルをでて、遊歩道を進んだ。京都と同じように湿度が高いのに、空気はまるで違う匂いがした。きれいな白い浜を離れ、歩いて、歩いて、岩を積みあげた防波堤まで行った。
 先端に立つと、なまぬるい風が押し寄せてきた。重い。髪がべたべたと絡まる。目の前は真っ黒な海しかなく、波も見えないのに海鳴りが身体にぶつかって鈍く響いている。見たこともない巨大な生き物が暗く蠢(うごめ)いていた。

 全身に鳥肌がたった。腹の底から怖かった。言い訳も弱音も受け入れられない、呑(の)み込まれたら逃げられない、無慈悲な場所を見つめながらずっと震えていた。本物の夜の海は想像をはるかに超えて恐ろしかった。

 家に戻ってからも、どうどうと鳴る夜の海を思いだした。あの恐怖を忘れたくなくて、何度も何度も頭の中で再現している。
 夜空より暗く、底の知れない黒い海。どこまで続いているのか、想像すると気が遠くなる。あの晩、重く湿った潮風にかすかに台風の匂いが混じっていた。嵐は海からくるのだと肌で理解した。その小さな熱がまだ胸をざわつかせている。

  

PROFILE

千早茜

1979年北海道生まれ。幼少期をアフリカのザンビアで過ごす。立命館大学卒業。2008年、小説すばる新人賞を受けた「魚神(いおがみ)」でデビュー。同作は2009年の泉鏡花文学賞を受賞。2013年、「あとかた」で島清恋愛文学賞。「あとかた」と「男ともだち」(2014年)が直木賞候補作になった。2018年には尾崎世界観さんと共作小説「犬も食わない」を刊行。2019年には初の絵本「鳥籠の小娘」(絵・宇野亞喜良)を上梓。著書はほかに「クローゼット」、エッセー「わるい食べもの」など多数。

フォトグラファー

津久井 珠美(つくい・たまみ)

1976年京都府生まれ。立命館大学(西洋史学科)卒業後、1年間映写技師として働き、写真を本格的に始める。2000〜2002年、写真家・平間至氏に師事。京都に戻り、雑誌、書籍、広告、家族写真など、多岐にわたり撮影に携わる。
http://irodori-p.tumblr.com/

連載エッセー「いつかの旅」 (11)準備魔

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