いつかの旅

連載エッセー「いつかの旅」 (19)無防備な時間

連載エッセー「いつかの旅」 (19)無防備な時間

 電車でも、飛行機でも、車でも、小さい頃は飽くことなく窓の外を見つめていた。雨の日は曇ったガラスの水滴をつなげて絵を描き、透明になった小さな隙間からやはり外を眺めた。なにを見ていたのか。ほとんど覚えていない。

 大人になった現在、移動中はもっぱら本かスマートフォンを見ている。月に数回、必ず仕事で新幹線に乗るが、車内を見渡しても窓の外をじっと見つめている人はいない。幼い子供ですら、大人から与えられた電子機器でゲームをしたりアニメを見たりしている。

 先日、二人掛けのシートに座ると、窓側の席に六十代くらいの男性が座っていた。革の上着にキャップをかぶり、おじいさんと呼ぶにはためらわれる外見だった。男性はキャリーケースを抱きかかえて、一人でしゃべっていた。

 ちなみに私たちの席番号は一番で、背もたれの後ろには荷物を置けるスペースがあった。私もトランクを持っていて、そこに置きたいからこの座席を取ったのだった。けれど、男性は弁当を食べるときも茶を飲むときもキャリーケースを抱いたままで、席を立つときはキャリーケースを持ったまま移動した。

 不審に思ったが、男性は私には興味がないようだった。キャリーケースを抱いたままずっと窓の外を見て、ぶつぶつ言っている。
 突然、電話が鳴った。男性はポケットから携帯電話を取りだすと「はいはい」と言った。「うん、大丈夫」と電話の相手を安心させたりなんかしている。「大丈夫、いま富士山、富士山」。そう聞こえて思わず窓の外を見た。まわりの席の人々も顔をあげた。外に富士山はない。だってまだ名古屋を過ぎたばかりなのだから。

連載エッセー「いつかの旅」 (19)無防備な時間

 男性は電話を切ると、また窓の外に目をやった。富士山はない。似たような山も見つからない。やがて、うっすら青く富士山が見えてきたとき、男性はキャリーケースを抱いたまま眠っていた。なんとなく、窓の外を見続けた。まるで男性の代わりのように。景色はどんどん過ぎていった。

 男性が新横浜で降りていなくなると、ぽっかり空いた席が妙に気にかかった。彼は迎えにきた人に富士山を見たと話すのだろうか。それでも彼が見たと思えば、その景色は彼の中には存在する。

 反して、私の中にはなんの景色も残っていなかった。移動中の私の記憶はおぼろげだ。乗り物を使っているときは特に。目的地へ着くことしか考えていないからだろう。ふと、私を通過していった景色はなににつながっているのだろう、と不安になった。見ていたつもりでいて、なにも見ていなかったのかもしれない。そこには抜け落ちてしまった時間があった。
 ぽっかり空虚な顔をして席に座り、目的地へと運ばれていく自分を想像して、心許(もと)ない気持ちで新幹線を降りた。

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PROFILE

千早茜

1979年北海道生まれ。幼少期をアフリカのザンビアで過ごす。立命館大学卒業。2008年、小説すばる新人賞を受けた「魚神(いおがみ)」でデビュー。同作は2009年の泉鏡花文学賞を受賞。2013年、「あとかた」で島清恋愛文学賞。「あとかた」と「男ともだち」(2014年)が直木賞候補作になった。2018年には尾崎世界観さんと共作小説「犬も食わない」を刊行。2019年には初の絵本「鳥籠の小娘」(絵・宇野亞喜良)を上梓。著書はほかに「クローゼット」、エッセー「わるい食べもの」など多数。

フォトグラファー

津久井 珠美(つくい・たまみ)

1976年京都府生まれ。立命館大学(西洋史学科)卒業後、1年間映写技師として働き、写真を本格的に始める。2000〜2002年、写真家・平間至氏に師事。京都に戻り、雑誌、書籍、広告、家族写真など、多岐にわたり撮影に携わる。
http://irodori-p.tumblr.com/

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