城旅へようこそ

「小江戸」「江戸の台所」と呼ばれるのはなぜ? 川越城(1)

川越のシンボルとなっている時の鐘。江戸時代初期に酒井忠勝によって創建された。火災のたびに再建され、現在のものは明治時代に建てられた4代目だ

川越のシンボルとなっている時の鐘。江戸時代初期に酒井忠勝によって創建された。火災のたびに再建され、現在のものは明治時代に建てられた4代目だ

東京から35キロ以上も離れていながら、川越が「小江戸」と呼ばれるのはなぜだろうか。それは、江戸や徳川将軍家に深い関わりがあったからだ。

初代将軍・徳川家康と2代・秀忠は、何度もタカ狩りで川越に出遊した記録がある。川越は江戸の北側を守る重要な地。おそらくは江戸周辺地域の視察も兼ねていたのだろう。川越藩の初代藩主は幼少期から家康に仕えた酒井重忠で、重忠の後も松平信綱や柳沢吉保など老中や大老のような幕政を担う重臣が藩主を務めている。このことからも、江戸との交流がある藩であったことがうかがえる。

さかのぼれば、川越は江戸時代以前から江戸との関わりが深い。家康が江戸城を築く前には太田道灌(資長=すけなが)が築いた江戸城があったのだが、道灌と父の道真(資清)が江戸城に先立ち1457(長禄元)年に築いたのが、河越城(中世では河越城と表記)なのだ。河越城は敵対していた古河公方への備えとして築かれ、江戸城と川越街道で結ばれることで強靭(きょうじん)な防衛線となっていた。

中世の川越は、江戸をしのぐ大都市だった。「江戸の母」と呼ばれるのは、江戸の母体ともいえるためだ。たとえば江戸城の裏鬼門におかれた東京・永田町の日枝神社は、一説には1478(文明10)年に道灌が江戸城築城時に川越山王社を勧請したのがはじまりとされる。やがて家康が江戸城の鎮守として江戸城内に置き、秀忠が麹町に遷座。明暦の大火後、1659(万治2)年に4代・家綱が現在の場所に移している。

川越城の天神曲輪にある三芳野神社。太田道灌が川越の鎮守としたと伝わる。現存する社殿は、1624(寛永元)年に酒井忠勝が徳川家光の命により造営。江戸時代に川越城が築城された後、三芳野神社があることからこの場所が天神曲輪と呼ばれたともされる

川越城の天神曲輪にある三芳野神社。太田道灌が川越の鎮守としたと伝わる。現存する社殿は、1624(寛永元)年に酒井忠勝が徳川家光の命により造営。江戸時代に川越城が築城された後、三芳野神社があることからこの場所が天神曲輪と呼ばれたともされる

「黒衣の宰相」と呼ばれた喜多院第27世住職の天海が川越にいたことも、川越と江戸との関係を語る上で忘れてはならない。天海は、家康、秀忠、3代・家光に大きな影響を与えたといわれる人物で、家康の遺骸が日光東照宮へ運ばれた際には、わざわざ喜多院に立ち寄って天海による4日間もの大法要が営まれたほどだ。その後、喜多院の大堂には天海により仙波東照宮が創建されるのだが、1638(寛永15)年の火災で焼失すると、家光により復興が命じられている。

仙波東照宮。天海が導師となり家康の大法要を営んだことから喜多院境内に東照宮がまつられた。火災で焼失すると家光の命令で1640(寛永17)年に現在の社殿が復興された

仙波東照宮。天海が導師となり家康の大法要を営んだことから喜多院境内に東照宮がまつられた。火災で焼失すると家光の命令で1640(寛永17)年に現在の社殿が復興された

さて、川越城と城下町の最大の転機となるのが、この1638年1月の大火災だ。これを機に、時の城主、松平信綱が城と城下町を本格的に整備した。信綱は島原・天草一揆を鎮圧した人物として名高く、家光を支えた家臣の中でも3本の指に数えられる。一揆鎮圧の功績により1639(寛永16)年に6万石で川越藩主となると、川越城の大幅な拡張・整備を敢行。新河岸川や川越街道を整備したことで江戸との太いパイプができ、江戸の文化、学問、芸能などが川越に流通するようになった。

城下町の整備により商業も発達するが、ここでも新河岸川による舟運が大いに活躍した。川越城下は農産物や特産品の集散地として機能し、江戸からの物資の集散地としても発展したのだ。河岸場には河岸問屋がつくられ、川越と江戸で物資が輸送されて、川越は「江戸の台所」とも呼ばれる商人の町として繁栄した。

現在、川越でさつまいもを使ったスイーツが名物になっているのも、川越と江戸を結ぶ舟運のおかげだ。18世紀末、江戸では庶民の間で焼きいもが大流行し、各地でこぞってさつまいもが栽培された。しかし、重くてかさばるさつまいもは、陸路での運搬は不向き。そこで、舟運が活躍したのだ。川越産のさつまいもは良質で流通量も多く、やがてさつまいもの代表産地として定着した。

江戸時代後期の武家屋敷、永島家住宅。城下町は、武家地・町人地・寺社地が町割され、城下町は、城の南北と川越街道沿いを中心に武家地が、現在の「札の辻」を中心に通り沿いに町人地、城の西側に寺社地が配置された。城と城下町は17世紀半ばに完成したとみられる

江戸時代後期の武家屋敷、永島家住宅。城下町は、武家地・町人地・寺社地が町割され、城下町は、城の南北と川越街道沿いを中心に武家地が、現在の「札の辻」を中心に通り沿いに町人地、城の西側に寺社地が配置された。城と城下町は17世紀半ばに完成したとみられる

信綱は西側に城域を拡張し、近世城郭としての川越城を完成させた。川越城は本丸を中心として、北側に二の丸、その西側に三の丸を配置。現在の川越市立博物館のあたりが二の丸で、川越市立美術館が建つあたりが二の丸と三の丸を隔てる堀跡だ。本丸の南側に田曲輪(くるわ)、東側に帯曲輪が置かれ、西側には八幡曲輪、その西に中曲輪、追手曲輪が配置されていた。総面積は約15万平方メートルに及ぶ巨大な城だ。

数少ない川越城の名残が、富士見櫓(やぐら)跡と中ノ門堀跡だ。富士見櫓は川越城の最高所にあたる本丸西南隅に建てられた三重櫓で、天守の代用にされたという説もある。現在は土塁が残るだけだが、登ってみるとひときわ高く、さぞかし存在感を放っていただろうと想像がつく。その名の通り、かつてはここからは富士山が望めた。城の中央には太鼓櫓、東北の隅に虎櫓、本城の北に菱櫓、南西に富士見櫓があった。

中ノ門堀は、西大手門から本丸方向への敵の進入を阻むためにつくられた堀のひとつだ。深さは約7メートル、幅は約18メートルで、内側は切り立つ崖のような急勾配。絵図によれば、堀の間に建てられた中ノ門は2階建ての大きな櫓門で、両側には土塀が設けられた土塁が続いていた。川越城は、この方向からの敵が直進できないよう、3本の堀を食い違わせて配置していた。

川越城の富士見櫓。江戸末期の記録によれば、櫓の長さは約15メートル、幅は約14メートルあった

川越城の富士見櫓。江戸末期の記録によれば、櫓の長さは約15メートル、幅は約14メートルあった

富士見櫓は本丸南西隅にあり、南側には田曲輪があった

富士見櫓は本丸南西隅にあり、南側には田曲輪があった

復元された中ノ門堀。松平信綱が川越城を大改修した際につくられた

復元された中ノ門堀。松平信綱が川越城を大改修した際につくられた

現在の川越は、江戸情緒を色濃く残す蔵造りの街並みが観光地として人気だ。この街並みは、明治時代につくられたもの。1893(明治26)年3月の大火後、火事に強い建築として蔵造りの商家が建てられた。

シンボルとなっている時の鐘は、高さ約16メートルに及ぶ木造のやぐらだ。城下の町に時を知らせ、庶民に親しまれてきた。火災により何度も鐘楼(しょうろう)や銅鐘が焼失したが、建て替えられて城下町にあり続けてきた。現在の時の鐘は4代目で、明治の川越大火直後に再建されたものだという。1日4回鳴る鐘の音が小江戸川越の情緒を伝えるものとして、環境省の「残したい“日本の音風景100選”」に選ばれている。

蔵造りの街並み。蔵造りは、江戸時代の町家に採用された類焼を阻止する耐火建築だ

蔵造りの町並み。蔵造りは、江戸時代の町家に採用された類焼を阻止する耐火建築だ

(つづく。次回は4月8日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■川越城
西武新宿線「本川越」駅または東武東上線・JR川越線「川越」駅よりバス「博物館前」バス停下車
http://museum.city.kawagoe.saitama.jp/hommaru/(川越市立博物館)

PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

3月29日オープン! 壮大な海城の痕跡をたどり、寺町を歩く 尼崎城

一覧へ戻る

現存する本丸御殿、喜多院には江戸城の御殿も残る  川越城(2)

RECOMMENDおすすめの記事