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現存する本丸御殿、喜多院には江戸城の御殿も残る  川越城(2)

現存する本丸御殿、喜多院には江戸城の御殿も残る  川越城(2)

川越城の本丸御殿。玄関と大広間が残り、家老詰所が移築復元されている

川越城には、全国で4棟しか残っていない城郭御殿のひとつが現存している。1848(嘉永元)年に建造された本丸御殿だ。残念ながら敷地面積にして8分の1、建坪で6分の1の規模しか残っていないが、大藩の御殿らしいたたずまいを見せている。

「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)に描かれた江戸時代初期の川越城は、三芳野神社と馬屋を隔てた場所にある。大きな櫓門(やぐらもん)が置かれ、白壁の建物が立ち並ぶ。目を凝らすと気づくのが、鷹匠(たかしょう)の姿だ。「江戸図屏風」は3代将軍・徳川家光の事蹟をたたえるためのものとされ、この光景は家光が川越周辺で鷹狩りをした際に川越城に立ち寄った場面で、家光は川越城の本丸御殿に宿泊したとも考えられている。一般的に本丸御殿は城主が生活し政務を行う場所だが、川越城の本丸御殿は御成御殿(おなりごてん=将軍が滞在する御殿)で、川越城主は二の丸御殿を居所にしていたようだ。

現存する本丸御殿、喜多院には江戸城の御殿も残る  川越城(2)

三芳野神社。「江戸図屏風」の描写を連想させる

1702(元禄15)年に写された「武州河越御領分明細記」には本丸御殿の記述がなく、この時期には本丸御殿は解体されていたようだ。やがて1846(弘化3)年の火災で二の丸御殿が焼失すると、城主の新たな御殿として空き地だった本丸に御殿が建てられた。これが、1848(嘉永元)年に松平斉典(なりつね)によって建造された、現在残る本丸御殿だ。当時の川越藩は、歴代最大の17万石を有し、本丸御殿の規模は16棟、1025坪もあった。

明治維新後、川越城の建造物は残念ながら次々に移築または解体されてしまった。しかし、本丸御殿の大広間と玄関だけは、入間県庁の庁舎として利用された。県庁が移動すると、入間郡役所、タバコ工場、中学校の屋内運動場などとして使われている。大広間の天井を見上げるとバレーボールをぶつけたとみられる跡が無数についているが、これは中学校として使われた時代の痕跡だそうだ。

現在、第1展示室がある明治棟は、1896(明治29)年に描かれた「三芳野神社境内図」にあることから、入間県庁や入間郡役所の付属施設として建てられたと考えられる。大書院など解体された本丸御殿の部材の一部が天井裏に転用されていることが判明しており、本丸御殿南端の柱には書院の部材が入れられていたホゾ穴が残るという。

現存する本丸御殿、喜多院には江戸城の御殿も残る  川越城(2)

広間の西側に続く廊下。玄関のある東側廊下の床板はケヤキ材、私的空間となる西側廊下の床板にはツガ材が使われている

とにかく印象的なのが、玄関だ。間口は13間(約23メートル)もあり、格式高い巨大な唐破風が出迎えてくれる。懸魚(げぎょ)と呼ばれる木彫りの装飾も美しく、屋根と梁(はり)にはさまれた蟇股(かえるまた)も、格式を高めている。玄関の左右にある格子窓がついた珍しいデザインの塀は、櫛形塀(くしがたべい)というらしい。

現存する本丸御殿、喜多院には江戸城の御殿も残る  川越城(2)

玄関。間口は広く、大きな唐破風が乗る

現存する本丸御殿、喜多院には江戸城の御殿も残る  川越城(2)

櫛形塀

坊主当番詰に拡大掲示されている「本城住居絵図」を見ると、現存区域はほんの一部で、かつてはかなり広大な御殿だったことがわかり驚く。現在残っているのは、玄関と大広間、移築復元された家老詰所だけだ。玄関を入ると36畳の大広間があり、使者之間、使者詰所など襖(ふすま)で仕切られた6部屋が南北に連なっている。現在は南端の物頭詰所脇の廊下を右折して西側の明治棟へと進んでいくが、かつては物頭詰所の南側に城主と対面する大書院という巨大な建物が続いていた。さらに西側には、私的空間である中奥・大奥が連なっていた。

現存する本丸御殿、喜多院には江戸城の御殿も残る  川越城(2)

廊下の先の庭になっているところにはかつて大書院が続いていた

大広間は御殿内で2番目に広い座敷で、玄関から入った来客が城主のお出ましまで待機した部屋とみられる。御殿内の部屋はどれも質素な装飾だが、杉戸絵はなかなか趣があり見入ってしまう。松平斉典の命により川越藩の御用絵師、舩津蘭山(ふなつらんざん)が描いたものだ。一般的には座敷の建具は襖で、廊下に面した部分は障子だった。杉戸は廊下の間仕切りとして使われていたようで、本丸御殿に残る杉戸も御殿内の廊下に使われていたと考えられている。

現存する本丸御殿、喜多院には江戸城の御殿も残る  川越城(2)

瓦には葵御紋が輝く。垂木の小口が白く塗られているのは、浸水や割れを防ぐため

西側の廊下には御時計の間や厨房があり、もっとも西側には家老詰所があった。現在の位置よりさらに西側にあり、坊主当番詰から西側に続く廊下の先にあった。家老詰所方向に続く廊下の柱が、丸瓦で記されている。家老詰所は、家老たちが常駐する場所で、藩政における重要な役所にあたる。明治初期に解体され福岡村(現在のふじみ野市)の商家に払い下げられていたが、1988(昭和63)年に現在の場所に移築復元された。

現存する本丸御殿、喜多院には江戸城の御殿も残る  川越城(2)

家老詰所。参勤交代で不在の多い藩主に代わり家老が実質的な政治を行っていたという

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家老たちが話し合う様子が再現されている

現存する本丸御殿、喜多院には江戸城の御殿も残る  川越城(2)

本来の家老詰所があった方向に続く廊下の柱が、丸瓦で示されている

本丸御殿も必見だが、川越城を訪れたら必ず喜多院にも立ち寄りたい。喜多院は1638(寛永15)年の川越大火の後に家光によって再興されたが、その際に客殿や書院、庫裏(くり)として江戸城の御殿が移築された。家光誕生の間といわれる客殿、春日局の化粧の間といわれる書院、庫裏、それらをつなぐ畳廊下などだ。どの建物が喜多院に移築されたのかは定かではないが、客殿の金具に将軍家の紋がついていることから、江戸城内の建物ではあったと考えられる。書院は天井が高く中二階のある建物であることから、江戸城の長局だったと思われる。

(この項終わり。次回は4月15日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■川越城
西武新宿線「本川越」駅または東武東上線・JR川越線「川越」駅よりバス「博物館前」バス停下車、徒歩0分
http://museum.city.kawagoe.saitama.jp/hommaru/(川越市立博物館)

PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

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