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瀬戸内海を見下ろす、徹底的な「破城」の城 下津井城(1)

瀬戸内海を見下ろす、徹底的な「破城」の城 下津井城(1)

下津井城に残る、三の丸南面の石垣。城は瀬戸内海を見下ろす標高89メートルの山にある

岡山県倉敷市の南東部にある児島地域。瀬戸内海に突き出し、香川県坂出市とを結ぶ瀬戸大橋最北端の下津井瀬戸大橋がかかる。「児島」と呼ばれるのは、かつて瀬戸内海に浮かぶ島だったからだ。吉備の児島といわれ、『日本書紀』や『古事記』にも記されている。本州からは完全に切り離され、本州と間にあった島の北側の海域は「吉備の穴海」と呼ばれていた。

吉備の穴海は備讃瀬戸(びさんせと=岡山県と香川県の間の海域)のちょうど中間に位置し、岡山の主要な河川が通じることから重要な航路のひとつだった。本州と陸続きになるのは近世初頭だが、中世には本州の河川が運ぶ土砂によって内海が変化し、北側に代わり南側の海域が主要航路になっていたようだ。下津井城のある児島南端の下津井も、海運や軍事の拠点となっていた。

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下津井城の西の丸から見る瀬戸内海。眼下にあるのは下津井港

現在の下津井城が築かれたのは、児島の干拓が進んだ近世初頭だ。1603(慶長8)年、池田忠継が宇喜多秀家に代わり備前岡山28万石を賜ると、岡山藩池田家の支配地となった。もともと文禄年間(1592〜1596)に宇喜多秀家が築いた下津井城を、下津井3万2000石の領主となった池田長政が整備。現在は瀬戸大橋架橋記念公園となっている、瀬戸内海を見下ろす標高89メートルの山がその場所だ。1606(慶長11)年には完成したとされ、長政の後は池田由之、荒尾成利を経て、1632(寛永9)年に岡山池田家と鳥取池田家が国替えされると池田由成が城主となった。しかし1639(寛永16)年に由成が天城陣屋を築いて移ると、廃城となった。

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下津井城二の丸西面の石垣

何度も訪れてしまう、好きな城のひとつだ。廃城までの期間はわずか30年余りと短く、しかも公園化によりだいぶ改変されてはいるのだが、それでも往時の社会情勢や築城の意図がしっかりと刻まれ、時が止まったような感覚が味わえるからだ。

江戸開府直後に築かれたことを踏まえると、下津井城は瀬戸内海航路の監視を目的として、西国の大名に備える戦略的拠点の役割を担う城だったのだろう。そんな緊迫感も感じられつつ、手の込んだ城づくりには新領主の威光を示す意図も感じられる。その一方で、わずか30年後には情勢が一変し廃されてしまうという物悲しさもある。こうした時代の息吹を感じられるのがたまらない。

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二の丸の西側と西面の石垣

城は下津井港に面して東西に長く、全長は約650メートルにも及ぶ。駐車場から公園の遊歩道を登りきると、馬場跡、そして土塁に囲まれた西の丸に着く。そこから土橋を隔てたところが二の丸で、二の丸に東・西・南面を取り囲まれるように本丸がある。本丸は広く、北西面には天守台も。本丸の東側には三の丸、堀割を隔てて中の丸と連なり、さらに東出丸もある。

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西の丸から土橋を渡ると、二の丸に至る。土橋や二の丸も石垣で囲まれていた痕跡がある

断片的ながら、すべての曲輪(くるわ)に石垣が残っている。一見するとわずかな石垣しか残らない残念な城跡公園という印象を受けるかもしれないが、残された石垣のラインをたどりつなげていくと、石垣で囲まれたかなり壮大な城の姿が浮かび上がってくる。下津井港から見上げる姿は、さぞかし圧巻だったろう。

一般的には整備された三の丸南面の石垣や二の丸西面の石垣が見どころになる。しかし、私がもっとも心揺さぶられるのは、大手跡付近だ。屈曲する大手道がたどれ、道沿いには大手道を通る者へ見せつけるかのように、石垣が要所要所に積まれている。織田信長の城から豊臣秀吉の城、そして家臣の城へと受け継がれた、示威的な石垣の使い方が感じられる。これが、とてもかっこいい。

公園となって歩きやすく整備されているのが、この城のよいところでもある。足元をさほど気にしなくて済むからだ。もちろん改変も多いが、足元への注意力を城の遺構に向けられる。目を凝らして曲輪の高低差に注目したり、崩れかけた石垣の高さや長さを想像しながら歩くと、城の骨組みが浮かび上がってくるはずだ。

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三の丸南面の石垣。瀬戸内海に面するように累々と築かれている

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本丸に至る大手跡。右側に石垣が見え、左側にも櫓台(やぐらだい)のような石垣が突き出しているのがわかる

堀底が園路になっている、三の丸と中出丸の間の堀切(堀割)も注目ポイントだ。つまりは、そのまま園路にできてしまうほど、この堀切はまるで切通し道のように巨大だということだ。よく見ると、岩盤をかなり削り込んである。こうすることで尾根を分断し、三の丸と中出丸をしっかりと切り離しているのだ。

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三の丸と中出丸を分断している堀割。堀底が園路になっている

私がもっとも好きなのは、石垣に残る「破城」の痕跡だ。破城とは、城の破却のこと。下津井城ほど、破城の跡が多くわかりやすく残る城は全国でも珍しい。石垣は自然崩落の場合は中央から破裂するように崩れるが、人為的に壊す場合は修復できないように隅角部を壊す。

下津井城の破城ぶりは、かなり徹底している。石垣という石垣の隅角部が、執拗(しつよう)なまでにつぶされているのだ。使わなくなった城を放棄するだけなら、ここまではしない。これは、廃城の前年に終結した天草・島原一揆の影響だろう。一揆軍が1615(慶長20)年の一国一城令後に廃城となっていた原城(長崎県南島原市)に籠城(ろうじょう)したことで、幕府は最終的に12万人ともいわれる大軍を動員する大事件となった。幕府は一揆の鎮圧後、これを教訓として反抗勢力が軍事拠点として再利用するのを阻止すべく、各地で廃城となっていた城の徹底的な破却を命じている。たとえば豊臣秀吉が文禄・慶長の役の際に築き拠点とした名護屋城(佐賀県唐津市)も、戦いが幕を下ろした直後に一度破却された後、天草・島原一揆後に改めて徹底的に破却されている。下津井城も瀬戸内海航路を抑える城だけに、徹底した破却が必要とされたのだろう。

瀬戸内海を見下ろす、徹底的な「破城」の城 下津井城(1)

二の丸西面にある石垣。隅角部が破壊されている

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二の丸南面の石垣も、隅角部が破壊されている

(つづく。次回は4月22日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■下津井城
JR瀬戸大橋線「児島」駅から車で約20分
https://www.kurashiki-tabi.jp/feature/2727/(倉敷観光WEB)

PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

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