いつかの旅

連載エッセー「いつかの旅」 (22)こだわりを捨てれば

連載エッセー「いつかの旅」 (22)こだわりを捨てれば
 前に「準備魔」でも書いた通り、日帰りのちょっとした旅でも私は準備に余念がない。あらかじめ様々な状況を想定するのは、非常事態でも焦らないためであり、裏を返せば想定外の出来事にとても弱いということである。

 数年前、友人と海外旅行にいくことになった。もちろん数日前から準備をした。当日の朝は荷物の最終確認をしてトランクを閉じればいいだけだった。
 トランクをぱたんと閉じる。ファスナーをぐるっとしめる。そこではたと手が止まった。南京錠がかかっている。二つあるファスナーの片方にぶら下がっているが、鍵がない。

 鍵がない! 血の気がひいた。トランクのポケットはチェック済みだ。それでも、もう一度くまなく探す。ない。思いつく限り、家中の引きだしを開けたが、ない。どんどん迫る出発時間。夫が「これ使えば?」と自転車のワイヤーロックを持ってきてくれるが、どう考えても大きすぎる。巻きつけるには長さが足りない。早朝だったので、まだ店も閉まっていた。鍵のかからないトランクで海外にいくのはあまりに不安だ。

 青ざめた顔で駅にいくと、友人はこともなげに「空港で買えばいいよ」と言った。「売ってるの?」とすがるように声をあげると、「国際空港は旅に必要なものはなんでも売っているよ」と魔法のようなことを言った。

連載エッセー「いつかの旅」 (22)こだわりを捨てれば

 友人の言った通り、空港に錠は売っていた。それも、いろいろな形状や機能のものがそろっていた。空港はお土産売り場か飲食店しか利用したことがなかったが、よく見るとドラッグストアにはトラベルグッズが売っているし、下着や靴下やビーチサンダルも置いてある。トランクまでもあった。友人は飛行機で使うウェットティッシュやアイマスク、小腹を満たす菓子なんかを買っていた。湯を入れるだけで食べられるレトルト食品も充実している。

 「これ、空港にくればぶらっと旅にでれちゃうね」と言うと、「パスポートとお金があればね」と旅慣れた友人は笑った。「あと」とつけ足す。「こだわりを捨てれば」
 「こだわり?」と訊(き)き返すと、「千早はいろいろこだわりがあるでしょう」といつも多くなってしまう私の荷物を見た。確かに、空港に売っていた携帯用シャンプーは私が使っているものではなかった。化粧品も整髪料も、旅に必ず持っていく茶も、私が好きなものはない。

 「そうか」とつぶやくと「そうだよ。でも、そのこだわりが千早をつくっているしね」と友人は言った。確かにそうだった。でも、こだわりを捨てれば身ひとつでどこへでもいける。その想像は私をわくわくさせ、すこしだけ自由になった気がした。
 いつか、ぽんと思いたって、旅にでてみたい。それはどんな自分なのだろう。想像はつかないけれど、できないことではないのだ。

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PROFILE

千早茜

1979年北海道生まれ。幼少期をアフリカのザンビアで過ごす。立命館大学卒業。2008年、小説すばる新人賞を受けた「魚神(いおがみ)」でデビュー。同作は2009年の泉鏡花文学賞を受賞。2013年、「あとかた」で島清恋愛文学賞。「あとかた」と「男ともだち」(2014年)が直木賞候補作になった。2018年には尾崎世界観さんと共作小説「犬も食わない」を刊行。2019年には初の絵本「鳥籠の小娘」(絵・宇野亞喜良)を上梓。著書はほかに「クローゼット」、エッセー「わるい食べもの」など多数。

フォトグラファー

津久井 珠美(つくい・たまみ)

1976年京都府生まれ。立命館大学(西洋史学科)卒業後、1年間映写技師として働き、写真を本格的に始める。2000〜2002年、写真家・平間至氏に師事。京都に戻り、雑誌、書籍、広告、家族写真など、多岐にわたり撮影に携わる。
http://irodori-p.tumblr.com/

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