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「繊維のまち」倉敷のルーツもここにあり 下津井城(2)

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下津井城から見下ろす下津井古城。祇園神社が建つ、木々に覆われた高台がその場所だ

下津井は、源平合戦ゆかりの地でもある。屋島(高松市)に本拠を置く平家は、下津井に拠点を築いて瀬戸内海の制海権を握っていた。下津井のある児島は、源氏に対峙(たいじ)する前線だったのだ。1184(寿永3)年には、瀬戸内海各地の反平家勢力と平家の間で下津井合戦も勃発している。この頃に平家が構えたといわれる城が、下津井古城と呼ばれる下津井城の南山麓(さんろく)の城だ。現在の祇園神社の境内がその場所といわれ、櫓台(やぐらだい)のような高台が残る。

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下津井古城があったとされる祇園神社

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祇園神社からのぞむ瀬戸内海。平安時代には下津井合戦の舞台となったとされる

祇園神社の傍らには、祇園下台場がある。下津井合戦から679年後の幕末に築かれた砲台場だ。1853(嘉永6)年のペリー来航を機に、全国各地の沿岸には日本近海に来航しはじめた欧米列強の船舶への備えとして、800を超える砲台が設けられた。祇園下台場は1864(文久4)年に岡山藩が構築した砲台のひとつで、池田家文庫の絵図によれば瀬戸内海に突き出すように設置され、海に向かっていくつも砲眼が設けられていた。

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多角形の石垣に囲まれている祇園下台場

下津井には祇園下台場のほかにも、田之浦台場や西ノ脇台場などが築かれていた。下津井瀬戸大橋の橋脚あたりが、田之浦台場のあった場所だ。現在は消滅してしまったが、瀬戸大橋建築時には「池田家文庫」(岡山大学蔵)の「田之浦御台場略図」に描かれた通りの基礎部分が確認されている。丘陵斜面の平らな部分に弾薬庫・砲具庫・火薬庫・兵士居所などの建物があった。

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瀬戸大橋の橋脚付近に、田之浦台場があった

下津井古城の周辺には、江戸時代の姿もよく残る。下津井城を背に下津井港に沿って広がる、下津井町並み保存地区だ。岡山県の町並み保存地区にも指定され、港町の名残りを色濃く残している。下津井城は1639(寛永16)年に廃城となったが、その後の江戸時代中期以降、下津井は港町として本格的に繁栄した。

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下津井町並み保存地区。祇園神社の参道から田之浦までの旧道沿いに、本瓦ぶき、漆喰(しっくい)壁やなまこ壁、虫籠窓(むしこまど)や格子窓の建物や土蔵などが残る

港町として栄えた大きな理由が、北前船の寄港だ。北前船とは江戸時代中期から明治期にかけて、北海道から大坂までを日本海まわりで結んでいた商船のことで、商品の運送を請け負うだけの回船と異なり、寄港地で商品を売買しながら航海していた。寄港地に安くてよいものがあれば買い付けるため、寄港地では商業が発展する。2017年には「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」の構成文化財として、下津井町並み保存地区や旧荻野家母屋・鰊(にしん)蔵(むかし下津井回船問屋)などが日本遺産に認定された。

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鰊蔵を改造した「むかし下津井回船問屋」。明治時代の回船問屋の建物を復元した資料館だ

<瀬戸内海を見下ろす、徹底的な「破城」の城 下津井城(1)>で述べたように、吉備の穴海と呼ばれた児島は、江戸時代には干拓により陸続きとなった。しかし、干拓地は塩分が強いうちは米づくりには適さない。そこで盛んに行われたのが、塩分に強い綿花の栽培だった。さらには綿糸や反物、足袋などの加工品もつくられるようになり、やがて綿花栽培の肥料となる干鰯(ほしか)やニシン粕が北前船によって北海道からもたらされた。児島の塩が帰り荷として喜ばれたこともあり、やがて下津井港は北前船の寄港地として大いに発展。響灘と水島灘に通じる東西航路の港として、また児島と四国を結ぶ南北航路の要として繁栄した。倉敷市が市町村別の繊維工業製造品・出荷額で国内第1位を誇る「繊維のまち」「ジーンズの聖地」として知られるのも、こうした綿花栽培の成功を礎とした地域経済の発展があるからなのだ。

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三十三番→大し道、と記された道標。「三十三番」とは児島八十八カ所霊場第三十三番札所の平松庵、大し道とは大師道のこと

歩いているとふと目についたのは、「まだかな橋跡」の石柱だ。説明板を読むと、日が沈むと中波止の橋のたもとから船頭や船乗りたちが「まだ(遊郭にあがらん)かな」と声をかけられたことから、まだかな橋と呼ばれるようになったのだとか。下津井港は北前船の寄港地や参勤交代の御前船だけでなく、金毘羅参りの人々が四国へ渡る際の発着港としてもにぎわったのだという。点在する道標が、それを教えてくれる。

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まだかな橋の親柱。説明板によれば、湾岸道路建設で下津井港が埋め立てられるまで橋の欄干に用いられていたという

下津井町並み保存地区では、いくつかの井戸を見つけた。家と家の間にある、共同井戸だ。人々の飲料水として使われたほか、寄港する船への供給や酒造りにも役立ったそうだ。井戸ごとに使う家が決められ、厳しく管理されていたという。よく見るとほこらが設けられ、水神がまつられている。港町の人々のつつましい暮らしぶりが目に浮かぶ。

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下津井町並み保存地区にある共同井戸

(この項終わり。次回は4月29日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■下津井城
JR瀬戸大橋線「児島」駅から車で約20分
https://www.kurashiki-tabi.jp/feature/2727/(倉敷観光WEB)

PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

瀬戸内海を見下ろす、徹底的な「破城」の城 下津井城(1)

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