あの街の素顔

石川県小松市で「酒造りの神様」の日本酒をたのしむ

「引退した“酒造りの神様”が現役復活し、石川県小松市で日本酒を造る」、そんな話を聞いたのは、2017年の夏だった。その“神様”とは、現在86歳の醸造家・農口尚彦さん(以下、農口杜氏<とうじ>)だ。

酒造りに関わって70年。16歳で酒造りの道に進み、「吟醸酒」や「山廃(やまはい)仕込み(以下、山廃)」ブームの火付け役となり、「菊理媛(くくりひめ)」「KISS of FIRE」など数々の銘酒を生み出してきた。

(文・写真/干川美奈子)

石川県小松市で「酒造りの神様」の日本酒をたのしむ

1932年に石川県の現在の能登町で生まれた農口氏。祖父の代から杜氏を務めてきた。若干16歳で酒造りの修業に入った

農口杜氏の酒造りの信念の一つが、「一に水、二に水、三つ目に空気」。そこで小松市内の多くの候補地から、農口杜氏が主体となり、日本酒造りに最適と見極めた場所に酒蔵「農口尚彦研究所」が建設された。ここに農口杜氏から酒造りを学びたいと手を挙げ採用された7人の若手蔵人(杜氏のもとで働く職人)と、17年11月から酒造りを行っている。

18年3月からは酒蔵に有料のテイスティングルームも併設され、農口尚彦研究所の日本酒と肴(さかな)のペアリングが楽しめるようになった。予約制にもかかわらず、国内のみならず海外からも多くのファンがつめかけているという。今年度から新たに小松市の食材とタッグを組んだプロジェクトも始まるということで、期待に胸を膨らませながら初めて現地に向かった。

石川県小松市で「酒造りの神様」の日本酒をたのしむ

農口尚彦研究所は、農口杜氏の酒造りの技術・精神・生き様を研究、次世代に継承することをコンセプトにした酒蔵

小松空港からタクシーで約30分。坂の上にあったのは、酒蔵とは思えないモダンな建物。テイスティングルームに入る前に、ガラス越しから酒蔵を見学させてもらうと、25のタンクが並んでいた。ここで仕込みが行われている。

石川県小松市で「酒造りの神様」の日本酒をたのしむ

ガラス張りの仕込み室

石川県小松市で「酒造りの神様」の日本酒をたのしむ

午後は掃除や翌日の準備

酒蔵では頭に白いタオルを巻き真剣な表情の蔵人がそれぞれの持ち場で作業をしている――と思いきや、室内にはたまに蔵人が行き来するくらいでガランとしていて拍子抜け。「酒造りの多くの工程は朝行われるので、蔵人は5時台から動き出します。午後は翌朝に向けて、洗米や使用した器具を洗って備えるんです。もちろん、日本酒は生きていますから、午後や夜中もそれぞれが担当部門で作業を行うことはあります」と、広報の岩井隆さん。

石川県小松市で「酒造りの神様」の日本酒をたのしむ

農口杜氏が蔵人に指導していた

農口杜氏と蔵人たちは、日本酒を造る9月後半~5月初旬を、併設した寮で過ごすそうだ。酒造りは分業制とはいえ、いい日本酒を造るためには寝食を共にしてチームワークを築いたり、農口杜氏の行動を肌で感じ取ったりすることが必要なのだろう。

日本酒の味わい方にも詳しくなるテイスティング

つづいて、酒蔵に併設された“日本酒のための茶室”をコンセプトにしたテイスティングルーム「杜庵(とうあん)」へ。中に入ると、外観同様のスタイリッシュな空間が広がっていた。能登ヒバを使ったコの字形のカウンターテーブル。正面の大きな窓は掛け軸代わりの借景で、畑や山の緑が見える。冬は雪で覆われた畑に、鶴やイノシシ、鹿も姿を見せるそうだ。

石川県小松市で「酒造りの神様」の日本酒をたのしむ

「日本酒のための茶室」をコンセプトにしたテイスティングルーム「杜庵」

石川県小松市で「酒造りの神様」の日本酒をたのしむ

小松は裏千家ゆかりの地とされている。そこから着想を得て「杜庵」は作られた

この日接客をしてくれたのは、テイスティング部門マネジャーの齋藤憲さん。最初に仕込み水にも使われている水を珠洲(すず)焼の水差しに入れて一晩寝かした水をいただいた。軟水と聞いていたのに、口に含むとさらっとした軽さよりは、硬水のような重さや硬さを感じた。「この水は地下90メートルからくみ上げています。(硬度の)数値では軟水に入りますが、白山連峰に降り注いだ雨水が、長い年月をかけて地層で濾過(ろか)されていくうちに、地層のミネラル成分が溶け出して作り出された伏流水です。杜氏はこの水がご自身の造りたい日本酒に合うと、この地を選んだそうです」。農口尚彦研究所の日本酒には力強さがあると感じていたので、この水を飲んで素人ながら合点がいった。

石川県小松市で「酒造りの神様」の日本酒をたのしむ

地下からくみ上げている水が絶えず流れ続けている水盤(水くみ場)。小松は石の産業も盛んで全盛期には石切り場が35カ所もあった。杜庵でも床は小松瓦、提供する皿や水盤は大杉石を用いるなど、小松産のさまざまな石を用いている

テイスティングは、「本日の蔵酒おすすめ」「飲み比べ」「伝統的なお酒の飲み方や季節の楽しみ方の提案」で構成されていて、お酒に合わせたオリジナルの肴も提供される。この日にいただいたのは下記6種類だ(コメントはすべて齋藤さん)。

石川県小松市で「酒造りの神様」の日本酒をたのしむ

説明をしてくれた齋藤マネジャーと、この日テイスティングした日本酒の一部

1.本日の蔵酒おすすめ

●「純米 大吟醸酒 無濾過生原酒 2017」(兵庫県産山田錦 精米50%)を冷やしたものを、香りが集まりやすいワイングラスで。「単体で楽しめる香り豊かな大吟醸酒は、温度を下げて飲むとアルコールを感じにくいので冷やしています」

2.飲み比べ

●「純米 無濾過生原酒 五百万石 2018」(小松市松東地区産五百万石100% 精米60%)の冷やしたものを、九谷焼の酒器で。「先ほどの山田錦に比べてさっぱり、すっきりした味わいで、ライムやグレープフルーツのようといわれています」

石川県小松市で「酒造りの神様」の日本酒をたのしむ

お酒に合わせて酒器の形や素材も異なるものが用意された

●「山廃 吟醸 無濾過生原酒 美山錦 2018」(長野県産美山錦76%・兵庫県産山田錦24% 精米55%)の冷やしたものを、九谷焼のラッパ型の酒器で。「農口杜氏といえば山廃。柑橘(かんきつ)系のボタニカルな香りで、のどごしがよく切れ味抜群です。濃いソースなどにも負けないので食事を切ってくれる。食事も酒も進むお酒です」

●「山廃 純米 無濾過生原酒 五百万石 2018」(北陸産五百万石75% 精米65%)を江戸切子の酒器で。「どっしりと重みのある味わいの純米酒です。ガラスの酒器にすることで、陶器や磁器よりも口当たりにキレが出てきます」

石川県小松市で「酒造りの神様」の日本酒をたのしむ

小松は発酵食品も有名で、この日の肴は、農口尚彦研究所の粕(かす)を使った「いかの粕漬け」、「ふぐの卵巣のぬか漬け」「鯖のへしこ」の3種類。特にパンチのあるふぐの卵巣のぬか漬けは、力強い山廃と好相性だった

●「本醸造 無濾過生原酒 五百万石 2018」(五百万石75% 精米60%)のぬる燗(かん)を珠洲焼の酒器で。「45度弱くらいの温度になるまで、5~7分くらいかけてゆっくりと温度を上げていくと、風味や香りがゆるやかなぬる燗になります」

3.伝統的なお酒の飲み方や季節の楽しみ方の提案

●「本醸造 無濾過生原酒 五百万石 2018」(五百万石75% 精米60%)の冷を漆の杯(さかずき)に入れ、杜庵オリジナルの酒菓子をひたしていただく。「本醸造の冷はドライな口当たりですから、和菓子の砂糖と好相性です」

石川県小松市で「酒造りの神様」の日本酒をたのしむ

和菓子を杯に浸して食べる提案も

齋藤さんに日本酒の良さを尋ねたところ、「洋酒の場合は、シャンパンから始まって白や赤と料理によって銘柄を変えていきますが、日本酒は料理に合わせて温度や酒器を変えるだけでも変化に広がりがあっておもしろい」という答えが返ってきた。日本酒に含まれる乳酸、コハク酸、クエン酸など、酸の温度による変化を突き詰めている、こだわりの飲食店もあるのだという。客の歩き方や顔色を見て体調に合うよう燗の温度を変え提供するそうだ。

石川県小松市で「酒造りの神様」の日本酒をたのしむ

温度によっても日本酒の味はがらりと変わる

考えてみると、こうして日本酒全般の楽しみ方などをじっくり聞ける場所というのは少ないのかもしれない。飲み干したら新たについでもらえる一方、飲み干さなくても次のお酒が試せるので、筆者のようにお酒は好きだがアルコールに弱い体質の人でも6種類を飲み比べることができた。

このテイスティング中、気づくと農口杜氏が入ってきていた。思わぬサプライズに感激したが、酒造りをしている9月後半~5月初旬の時間があるときにはなるべくテイスティングルームに顔を出し、客の感想を聞いているのだという。

石川県小松市で「酒造りの神様」の日本酒をたのしむ

テイスティング時に農口杜氏が必ずいらっしゃるわけではないが、酒造りの期間中は会える機会も多いそうだ

農口杜氏に、一度引退してから再度仕事をしようと思った理由を聞いたところ、「『またうまい日本酒を飲ませて』という声をたくさんもらったこともそうですが、なにも考えずに引退して2年経って、体がバカになっちゃうと思ったんですよ。人の世話にならずに生きていくためには、仕事が必要と思って」と笑った。

「これからは世界各国の料理に合う日本酒が求められます。世界に向けて市場を開拓していきたい」と意欲を見せながらも、「昔の造り方だからといって、時代に合わないわけではないと思う。山廃と山廃じゃないものを出して、どちらが好まれるかを見ている」と、農口杜氏自身のカラーを打ち出す酒造りへの挑戦も決して忘れてはいないようだ。

「酒造りは理屈じゃない。全身の神経を集中させて人間が酒に合わせていくことで、酵母や麹(こうじ)の声が聞こえてくる。酒と会話ができるようになるんです。そうやって自分が求める味が作り出せるようになるんです」

酒造りの神様は、話し方も表情も穏やかなのに、その一挙手一投足がエネルギーに満ちていた。そのエネルギーが吸引力となって、国内外からファンが押し寄せているんだろう。約90分のテイスティングで、農口杜氏が造る日本酒にとどまらず、日本酒全般がもっと好きになった。

一流シェフによる料理との特別なペアリングイベントも開催

翌日、もう一つのイベント「小松Saketronomy(サケトロノミー)」に出席した。国内外で活躍する一流シェフとコラボレーションし、小松産の食材を中心とした料理と農口尚彦研究所の日本酒をペアリングする新しいイベントだ。

北陸新幹線が小松駅を通る2023年を見据え、小松市を「美食のまち」として世界中の美食家たちの旅の目的地にするという試みで、農口尚彦研究所のほか、同じ小松市内にある有機野菜生産者の「西田農園」、有機米生産者の「護国寺農場」がタッグを組み、小松市「美食バレー」実行委員会を発足して企画したもの。

石川県小松市で「酒造りの神様」の日本酒をたのしむ

「アワビとタケノコのガレット仕立て なすのコンフィ 木の芽風味」を「山廃 五百万石 無濾過生原酒2018」とペアリング

石川県小松市で「酒造りの神様」の日本酒をたのしむ

髙山シェフ。スペシャリテ「4種の貝と野菜を使った温かいシャルトリューズ ソースブールブラン」は、「純米大吟醸無濾過生原酒 2017」とのペアリングを楽しんだ

第1回は、ボキューズ・ドール国際料理コンクール2019フランス本選の日本代表で、「メゾン・ド・タカ芦屋」の髙山英紀シェフの料理とのペアリングだった。提供されたのは、ハマグリや菜の花、タケノコや山椒(さんしょう)の葉など、春の食材をふんだんにとりいれた色とりどりの7皿。日本酒の温度に合わせて1度単位で料理の温度も加減したという。

「特に山廃純米酒と『サフラン風味のビスクドオマール』(オマールエビにクリームベースのスープをかけた料理)の組みあわせは、ワインより相性が良いと思います。農口杜氏の日本酒はうまみがあるのでどんな料理にも合う」と髙山シェフ。

フレンチのソースに負けないうまみがありながら、後味はすっきり。前日のテイスティングの際、「山廃のキレやのどごしは食事を切ってくれる」と聞いた言葉を実感。同じ土地の水を使って作られた野菜と日本酒だから、より相性もいいのかもしれない。今後もさまざまなシェフが登場するようなので、農口杜氏が目指す「世界の料理に合う日本酒」との化学反応にも注目したい。

石川県小松市で「酒造りの神様」の日本酒をたのしむ

有機JAS認定も受けている西田農園。採りたての葉野菜は、野菜のうまみが豊富でコンソメのようなだしの味が口に広がった

石川県小松市で「酒造りの神様」の日本酒をたのしむ

左から西田農園の西田俊一さん、農口杜氏、髙山シェフ

農口尚彦研究所
石川県小松市観音下町ワ1番地1
https://noguchi-naohiko.co.jp/

「杜庵」でのテイスティングは約90分。農口尚彦研究所のホームページから事前予約制(無料の会員登録が必要)。「酒事」コース5000円(税別)、「ノンアルコール」コース3000円(税別)。未成年の参加は不可。「小松Saketronomy」の今後の予定や詳細も同ホームページで発表予定(料理と酒代込で3万~5万円前後になる見込み)。

PROFILE

「あの街の素顔」ライター陣

こだまゆき、江藤詩文、太田瑞穂、小川フミオ、塩谷陽子、鈴木博美、干川美奈子、山田静、カスプシュイック綾香、カルーシオン真梨亜、シュピッツナーゲル典子、コヤナギユウ、池田陽子、熊山准、藤原かすみ、矢口あやは、五月女菜穂、遠藤成、宮本さやか、小野アムスデン道子、石原有起、松田朝子

PROFILE

干川美奈子(ほしかわ・みなこ)

編集者・ライター
10代後半から英語が公用語でない国を中心に海外チープ&ディープ旅をスタート。情報誌、海外ウェディング誌、クルーズ専門誌、女性向けビジネス誌などで旅記事を執筆。「プレジデントFamily」「プレジデント」をはじめとした編集部在籍経験を活かし、普段はビジネス、芸能、マネー、子育て、インタビューなど、雑誌・WEBの一般記事の編集・執筆に携わる。

テキーラ飲み放題の豪華列車「クエルボ・エクスプレス」でテキーラ村へ

一覧へ戻る

絶景の天然インフィニティ・プール「イエルベ・エル・アグア」メキシコ

RECOMMENDおすすめの記事