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城下町のような風情あふれる「天領」の町並みと倉敷代官所

城下町のような風情あふれる「天領」の町並みと倉敷代官所

倉敷美観地区の代表的なスポット、倉敷川。周辺は、「倉敷川畔伝統的建造物群保存地区」として国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定されている

JR倉敷駅から徒歩10分ほどのところにある、倉敷美観地区。倉敷川沿いには、白壁の蔵屋敷や海鼠(なまこ)壁の土蔵などが建ち並び、多くの観光客が訪れる。城下町の情緒が漂うが、城下町ではない。それは、江戸時代には天領と呼ばれる幕府の直轄地だったからだ。

城下町のような風情あふれる「天領」の町並みと倉敷代官所

天領時代の趣を残す倉敷美観地区は、伝統的建造物群保存地区、伝統美観保存地区がある

<瀬戸内海を見下ろす、徹底的な「破城」の城 下津井城(1)>で述べたように、倉敷市はかつて、「吉備の穴海」と呼ばれる、大小の島々が点在する海だった。陸続きになるのは江戸時代初期だが、中世後期には高梁川(たかはしがわ)の沖積作用によって、倉敷周辺も干潟が広がりはじめていたという。最初に干拓が進められたのが倉敷美観地区のあたりで、干拓事業の口火を切ったのは1582(天正10)年に岡山城主となった宇喜多秀家だった。備中高松城の水攻めの際に堤防築造の指揮をとった岡利勝に命じて「宇喜多堤」と呼ばれる早島から倉敷に至る潮止め堤防を築かせ、やがて高梁川沿いにも酒津堤防を完成。倉敷川を中心とする一帯は、1584(天正12)年には秀家により広大な新田が開発されたようだ。

1582(天正10)年から1600(慶長5)年の関ヶ原合戦までは倉敷は毛利氏の領地となったが、関ヶ原合戦後は小堀正次が備中国奉行として入り、その支配下となった。国奉行とは、徳川家康が設置した江戸幕府初期の役職で、いわば江戸幕府により派遣された藩主のことだ。

小堀氏の支配下では、倉敷は江戸幕府にとって重要な港として機能した。当時の高梁川の河口はこの近辺にあったため、倉敷は高梁川に中流域にある松山を水運で結ぶ、重要な物資の中継基地港とされたのだ。小堀政一は大坂冬の陣に備えて倉敷陣屋を構え、倉敷から大坂への兵糧米輸送を行ったとされている。

城下町のような風情あふれる「天領」の町並みと倉敷代官所

本町から東町へと続く通りは倉敷と早島を結ぶ街道筋で、職人たちが軒を連ねていた。写真正面の鶴形山山頂には阿智神社が鎮座する

大坂や上方への物資輸送の拠点となる重要な地だったことから、1642(寛永19)年には代官所が置かれ、倉敷は天領となった。天領とは、江戸幕府が直轄する領地のことだ。幕府領、御領所ともいい、重要な場所には奉行、郡代、代官が置かれた。倉敷の初代代官は、米倉平太夫。それから明治維新まで、200年余の間、倉敷代官所は備中国倉敷、美作国久世、讃岐国塩鮑(しわく)諸島など約6万石を管轄統治した。

城下町のような風情あふれる「天領」の町並みと倉敷代官所

倉敷川沿いの町並みをのんびり眺められる、観光川舟「くらしき川舟流し」も人気だ

城下町のような風情あふれる「天領」の町並みと倉敷代官所

荷揚場もよく残り、物資の集積地としてにぎわった江戸時代の様子が目に浮かぶ

残念ながら、倉敷代官所の建物は残っていない。幕末の「倉敷浅尾騒動」と呼ばれる動乱で、灰燼(かいじん)に帰してしまったのだ。1866(慶応2)年に長州奇兵隊を脱走した約100名が、倉敷代官所を焼き払い、浅尾藩の陣屋を襲撃。浅尾藩は、1864(元治元)年の禁門の変で、京都見廻役として長州藩勢を撃退した藩だった。

現在、複合文化施設「倉敷アイビースクエア」となっているところが、倉敷代官所のあった場所だ。ほぼ正方形で、敷地の中央に城山という丘があったようだ。案内板によれば、代官所の正門は南側にあり、東側に代官、西に御役所などが配されていた。明治時代になると倉敷県庁がここに置かれたものの、1871(明治4)年に倉敷県が廃止されると放置され、1888(明治21)年に倉敷紡績所(倉敷紡績株式会社)が創設された。

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倉敷代官所に残る石碑。1834(天保5)年には明倫館と呼ばれる倉敷教諭所が建てられた

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わずかに残る、代官所の内堀の一部

美観地区の趣はすばらしく、散策が楽しい。商家や町屋が残り、歩いているだけでタイムスリップした気分になれる。町割りもよく残っている。延焼防止のための漆喰塗りの土蔵や海鼠壁のほか、泥棒対策ともいわれる「犬矢来(いぬやらい)」もユニークだ。正徳年間(1711~1716)に建てられたとされ、倉敷に現存する最古の町屋である井上家住宅も、防火対策の「塗屋造(ぬりやづくり)」になっている。

建物の凝った意匠にも、思わず見入ってしまう。上下に通る親竪子の間に、上端が切りつめてある細くて短い子竪子を3本入れた格子窓は、「倉敷格子(親付切子格子)」と呼ばれるこの地域独特のものだ。主屋1階正面の柱間の敷居から内法の間にはめ込む格子だが、1・2階の窓の出格子・平格子として用いられることもある。塀に取り付けられた、格子の入った小さな出窓は「聖窓」という。2階の正面に開かれた窓は「倉敷窓」といい、角柄窓形式の枠を組み、3本または5本の木地の竪子が入る。

城下町のような風情あふれる「天領」の町並みと倉敷代官所

1階の「倉敷格子」と「聖窓」は倉敷独特のもの。2階の窓は、3本の竪子が入った「倉敷窓」だ

城下町のような風情あふれる「天領」の町並みと倉敷代官所

2階の白い窓は、窓格子が塗り込めになった「虫籠窓(むしこまど)」で、主屋正面2階に設けられる。左側の窓は倉敷格子

倉敷アイビースクエアの東側にある城山稲荷が、戦国時代のわずかな名残といえる。倉敷には小野ケ城と呼ばれる城があったとされ、城山稲荷は城主だった小野氏ゆかりの稲荷なのだ。小野ケ城は平安時代、瀬戸内海の海賊の首領である藤原純友を征伐するために小野好古が築き、小野家代々の城として機能したといわれている。

説明板によれば、城山稲荷は1493(明応2)年に小野氏が伏見稲荷を勧請してまつったのが起源。小野氏の守護神だったが、1619(元和5)年に城山稲荷大明神と命名され、江戸時代には地域の人々の信仰を集めたという。城山にあったが、1888(明治21)年に倉敷紡績所の建設に伴って向市場町に移転し、1914(大正3)年に現在の場所に移されている。

城下町のような風情あふれる「天領」の町並みと倉敷代官所

戦国時代の小野氏ゆかりの城山稲荷

(この項終わり。次回は5月20日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■倉敷代官所(倉敷アイビースクエア)
JR「倉敷」駅から徒歩約10分
https://www.kurashiki-tabi.jp/kurashiki-h1/(倉敷観光WEB)

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PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

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