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必見は石垣と畝状竪堀! 若狭守護・武田氏の居城 後瀬山城と小浜城(1)

必見は石垣と畝状竪堀! 若狭守護・武田氏の居城 後瀬山城と小浜城(1)

後瀬山城(のちせやまじょう)の主郭東面の石垣。織豊期に築かれたとみられ、高いところでは3メートルほどある

福井県小浜市に、見応えのある戦国時代の名城がある。若狭守護・武田氏が居城とした後瀬山城(のちせやまじょう)だ。名城の理由は、おもに三つある。一つめは縄張(設計)。守護大名の居城にふさわしく、広大かつ機能的で完成度が高い。二つめは、城・居館・城下町のあり方がわかること。山全体を駆使した壮大なプラン、立地を活かした秀逸な都市形成が読み解ける。そして三つめは、時代による城の移り変わりが明確に刻まれていることだ。城の一部に石垣が導入されながら、全国のほかの城とは少し異なる特殊な変遷がみられ、歴史の息吹が感じられる。

必見は石垣と畝状竪堀! 若狭守護・武田氏の居城 後瀬山城と小浜城(1)

登城口。城の東にある愛宕神社社殿から登っていく

後瀬山城は、1440(永享12)年に一色氏から若狭守護の座を奪った若狭武田氏の5代、武田元光が1522(大永2)年に築城したとされる。標高168メートルの後瀬山山頂から北側の尾根に築かれた山城だ。山頂に主郭と二の丸(山上御殿)を置き、北東と北西の尾根筋に数多くの曲輪(くるわ)群を配している。北東尾根筋の端からも、北西方向に山麓(さんろく)付近まで曲輪群が続いている。

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主郭北東の稜線上の曲輪群の北東端から、北西方面の曲輪群に通じる土橋。曲輪群は八幡神社方面に、山麓付近まで続く

主郭の南側は、堀切と竪堀、土塁で囲まれた二の丸(山上御殿)、さらに南側は二重堀切と巨大な竪堀などでがっちりと遮断している。明らかに防御の意識は西側に向いていて、主郭の北西に伸びる尾根先は、長大な竪堀に変わる巨大な堀切、その西側の斜面には20本以上の畝状(うねじょう)竪堀が執拗(しつよう)なまでに張りめぐらされている。さらに山麓方向に降りていくと、100メートル近い竪堀へと変わる堀切が、並行する3本の竪堀とともに城域の西端を防御する強力な遮断線になっている。西側への強化は、敵対する丹後の一色氏を警戒してのことなのだろう。

縄張の妙は語りきれないのだが、この主郭から北西に派生する尾根の曲輪群はかなり見応えがあり興奮する。登城道は整備されていないため上級者向けだが、戦国時代の城らしい緊迫感にあふれた構想、ダイナミックかつ緻密(ちみつ)な設計が堪能できる。

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二の丸(山上御殿)を囲む土塁。発掘調査で、二の丸は平坦面を拡張して礎石建物や玄関遺構、土塁、築山などが設けられていることが判明している。後の丹羽長秀・浅野長吉・木下勝俊の時期に再整備されたとみられる

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主郭北西の尾根筋にある堀切。そのまま巨大な竪堀となって西側に落ちていく。堀切の北西側にある曲輪を囲む土塁も、かなり高さがあることがわかる

後瀬山城の山麓には、越前の敦賀と丹後の宮津を結ぶ丹後街道が東西に通る。領国経営にも軍事行動にも欠かせない街道は城と密接な存在で見逃せないのだが、それよりも後瀬山城の立地を考える上で気になるのは、眼下に見下ろせる小浜湊(みなと)の存在だ。武田氏は一色氏が守護代所を置いていた小浜湊へと徐々に拠点を移したようで、後瀬山城の山麓、現在の空印寺を含めた旧小浜小学校跡地一帯に、小浜湊と後瀬山城に挟まれるような形で守護居館を構えていたことが明らかになっている。

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空印寺を含む一帯には守護居館があり、少なくとも西・南・北側の3面を幅約5メートルの堀で囲んだ、1辺約100メートルの巨大な方形居館と判明。掘立柱建物跡や礎石建物跡が確認されている

小浜は中世から栄えた湊町で、15世紀初めに南蛮船が入津すると交易の拠点として繁栄し、後瀬山山麓の八幡神社にはこの頃からすでに門前町が形成されていた。小浜湊は京都への中継地として日本海の物資を集積する、いわば京都の外港だ。武田氏は小浜湊を包含するように城と城下町を整備して港湾都市を形成し、湊の利益を吸収した。日本海交易の主要港を活用して、明や朝鮮半島にも使者を送っていたようだ。小浜湊の掌握は、若狭国の掌握でもあったのだ。

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丹後街道と、山麓の八幡神社

興味深いのは、主郭の北西尾根先にある竪堀の延長線上と東側尾根の延長線上、その尾根とさらに東側の尾根との延長線上に、二つの方形状の区画があった可能性が指摘されていることだ。その場合、山上の城と山麓の居館は別々に存在したのではなく、山全体を一体化させた壮大な城だったことになる。

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主郭の北西尾根先にある堀切。斜面の堀切や竪堀は、山麓の居館や区画を守るように設けられていたようだ

こうした後瀬山城の優位性は、武田氏の没落後も引き継がれた。1568(永禄11)年の越前朝倉氏の侵攻により武田氏は勢力を失い後瀬山城は荒廃したが、1573(天正元)年に織田信長が朝倉氏を滅ぼすと、信長配下の丹羽長秀が若狭を拝領して城の再整備にあたった。1587(天正15)年には豊臣秀吉配下の浅野長吉、1593(文禄2)年には木下勝俊が入り、織田・豊臣配下の城主により城は改変されたとみられる。後瀬山城の大きな見どころである主郭周辺の石垣は、隅角部の算木積みの精度から判断しても、彼らの時代に積まれたものだろう。高いところでは3メートル近くある石垣は威容を誇っているが、ただ主郭周辺を石垣で固めているのではなく、よく見ると北西の尾根筋からの敵に対応できる折れを伴った突出部もあり、戦闘性が考えられている。新政権への変移中での軍事的緊張が伝わってくる。

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主郭東側に残る、織豊期に積まれたと思われる石垣

この地域に限らず、織豊期の城主は、一時的に地域の支配拠点となる城に入った後、新たに城を築いて移転する傾向がある。その一因は、寺内町や湊との位置、つまり城を流通・経済・商業の中心地とすべく城下町の形成を視野に入れてのことだと思われる。しかし後瀬山城は、1600(慶長5)年の関ヶ原合戦後に京極高次が入城し小浜城を新築するまで廃城になっていない。全面改修されずに使用が継続された珍しいケースといえる。理由はやはり、小浜湊がすでに機能し、移転の必要がなかったからなのだろう。

後瀬山城は、戦国時代の山城の姿も残しながら織豊期に改造された一面もよく残る。遺構の残存度もさることながら、時代のうねりの中での城のあり方や使われ方の変化も感じられる、戦乱の世を今に伝える名城なのだ。

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後瀬山城の主郭。京極高次の妻である常高院ゆかりの愛宕神社がある。山麓には常高院の菩提寺の常高寺もある

(つづく。次回は6月3日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト
■後瀬山城
JR小浜線「小浜」駅から徒歩10分で登城口
http://www1.city.obama.fukui.jp/category/page.asp?Page=75(小浜市)

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PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

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