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関ヶ原合戦後に誕生した水城、小浜城 後瀬山城と小浜城(2)

関ヶ原合戦後に誕生した水城、小浜城 後瀬山城と小浜城(2)

小浜城の本丸に残る天守台。小天守が接続する、三重の天守が建っていた

全国的な大名の配置換えが行われた関ヶ原合戦後、若狭国(現在の福井県南西部)も大きく変動した。1600(慶長5)年に京極高次が8万5000石で若狭一国を拝領したのだ。関ヶ原合戦の前哨戦となった、大津城(大津市)の籠城(ろうじょう)戦での功績を認められてのことだった。京極高次は、それまで長きにわたり支配拠点となっていた後瀬山城を1601(慶長6)年には廃城とし、後瀬山城から2キロほど北の海浜地に小浜城の築城を新たに開始した。同時に城下町も整備して、小浜の地を一新させた。

小浜神社の建つ場所が、小浜城の本丸跡だ。残念ながら、城域のほとんどは河川の拡張工事により消滅したり、埋め立てられて宅地化している。本丸跡に建てられた小浜神社の境内に、かろうじて天守台と本丸を囲む石垣が残る程度だ。そのためまったく面影はないのだが、実はかつての小浜城は立派な水城だった。城は北川と南川に挟まれ、両河川を外堀として利用し、東側は湿地、西側は若狭湾に面していたのだ。内堀に囲まれた本丸を中心にして、二の丸、三の丸、西の丸、北の丸が四方に配置された城だった。

関ヶ原合戦後に誕生した水城、小浜城 後瀬山城と小浜城(2)

大手橋を渡り、小浜城へ向かう。小浜城の内堀は完全に埋め立てられ、河川も拡張されて城域は削られている。かつての大手橋は現在の大手橋より東にあった

京極高次は江戸城(東京都千代田区)や大坂城(大阪市)の築城普請などに追われ、なかなか思うように小浜城の築城を進められなかったようだ。高次の跡を継ぎ藩主となった息子の忠高も城の完成を待たずして、1634(寛永11)年には26万4千石で出雲松江に転封。代わりに11万3500石で川越から小浜へ転封となった酒井忠勝が、小浜城の築城工事を引き継いだ。

酒井忠勝はすぐさま小浜城の築城に着手すると、石垣や櫓(やぐら)、城門、石垣などの修復の許可を取り、早くも1635(寛永12年)には天守の造営に取りかかっている。天守の建造を担当したのは、江戸幕府の大工頭・中井正清の弟である中井正純。中井家史料に残る天守指図(設計図)に記載された日付からも、1634年の入国直後から具体的に計画されていたことが明らかになっている。天守指図は三重天守と五重天守の二つが残っているが、三重天守の案が採用された。1635年10月には棟上げが行われ、1636(寛永13)年10月に完成。高さ約18メートルの天守だった。

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本丸西側の埋門脇の石垣。西櫓が建ち、多門櫓が続いていた

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天守台。天守は1636年に完成し、明治時代に取り壊されるまで建っていた

京極高次の着工から実に44年、1645(正保2)年の本丸多門櫓の完成により、小浜城はようやく一応の完成をみた。城内の建造物もおおよそこの時期に建てられ、明治期に廃城になるまで使われたようだ。小浜城の規模は、南北約236メートル、東西約285メートル。本丸を四つの曲輪(くるわ)が囲む京極氏時代の構造を引き継ぎながら、5棟の多門櫓、25棟の櫓を建ち並べた城だった。1662(寛文2)年の地震で崩落した石垣の修復以降は、大きな修理や改築はされていないとみられる。

城は1871(明治4)年まで、酒井氏14代が治めた。1871年、大阪鎮台第一文営を建設中に二の丸櫓から出火して建造物はほぼ焼失。天守は焼けずに残ったものの、1873(明治6)年の廃城令を受けて解体された。その前年には先立って、城内を通行しやすくするために本丸東側の石垣が壊されて現在の石垣に積み直されている。小浜神社は、1875(明治8)年に酒井忠勝を祭神として創建された。

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小浜神社。本丸東側の石垣は明治時代に積まれたもの

興味深いのは、二の丸と西の丸の境に舟入があったと考えられることだ。京極氏時代からすでに存在していたようで、城の西南端にある水門をくぐって内堀に入り、本丸近くまで進入できたと考えられる。蔵米などの輸送に活用されたのだろうか。絵図には西の丸水門付近に「土蔵」の記載もあり、建築資材の搬入にも活用されていたと思われる。1635(寛永12)年には酒井忠勝によって石垣や水留石垣が築かれているが、1645(正保2)年の絵図には描かれておらず、築城工事終了とともに役割を終えたようだ。

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天守台からの西側の眺望。遠くに若狭湾が見える。現在は宅地化されているが、かつて城の西側は若狭湾に面していた

さて、<必見は石垣と畝状竪堀! 若狭守護・武田氏の居城 後瀬山城と小浜城(1)>で述べた通り、この地は中世から日本海航路の要の地として繁栄し、港湾都市として発展していた。陸路では京都に通じ、琵琶湖水運とも近い。小浜城築城の際、天守や大手橋などの重要な建造物には出羽秋田の杉が使われるなど良質な資材が用いられているのだが、これらは小浜商人から買い入れられたのだという。中継港湾都市だからこそ、良質な資材調達が可能だったのだろう。石垣に使われている石材は、国の名勝にも指定されている若狭蘇洞門(そとも)や若狭湾に突き出す泊などから切り出された花崗岩(かこうがん)が用いられている。

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天守台。石材は若狭から良質な花崗岩が運ばれた

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城の北西側から見る南側の眺望。後瀬山城も見える

(つづく。次回は6月10日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■小浜城
JR小浜線「小浜」駅から徒歩約15分
https://www1.city.obama.fukui.jp/category/page.asp?Page=82(小浜市)

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PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

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