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こんな秘境が歴史の大舞台に 織田・徳川vs武田 長篠城

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載です。今回は、織田信長・徳川家康と武田勝頼が雌雄を決した戦いの糸口、愛知県新城市の長篠城です。

こんな秘境が歴史の大舞台に 織田・徳川vs武田 長篠城

牛渕橋からのぞむ長篠城。豊川と宇連川が合流する地点に築かれている

切り立った崖と二つの川に守られて

まず、牛渕橋に立ち長篠城をのぞむ。「Y」の字にぶつかる二つの川と、深く切り込む渓谷の断崖上に城を抱えた景観は、まるで秘境のようだ。切り立った崖は鋭さを感じさせるものの、足元には青緑色の澄んだ川がおだやかに流れ、静かなたたずまいからは激戦があったことなどまったく連想できない。

しかし、かつてはこの場所で、歴史を揺るがす大戦が繰り広げられたのだ。

こんな秘境が歴史の大舞台に 織田・徳川vs武田 長篠城

長篠城の本丸を取り巻く、圧巻の空堀

歴史にあまり詳しくなくても、「長篠の戦い」の名はどこかで耳にしたことがあるだろう。1575(天正3)年、徳川家康方の奥平貞昌がこもる長篠城を武田勝頼が攻めた戦いだ。やがて家康の要請を受けた織田信長が出陣し、3万8000の信長・家康連合軍と、1万5000の武田軍が設楽原で激突。敗れた武田氏はこの大敗を機に衰退し、滅亡への一途をたどることになる。

舞台となった長篠城は、愛知県新城市にある。東三河地域の平地と山地の境目にあり、遠江方面、美濃方面や伊那方面の各地に通じる街道の分岐点にあたる交通の要地だ。この地域(現在の静岡県西部から愛知県東部)では、今川氏の没落後は、武田信玄・勝頼と徳川家康が数年にわたり熾烈(しれつ)な領土争いを繰り広げていた。長篠城も、徳川氏から武田氏、そして再び徳川氏へとめまぐるしく支配権が交代した。

こんな秘境が歴史の大舞台に 織田・徳川vs武田 長篠城

本丸西側は切り立った谷のようになり、不忍の滝が流れている。案内板によれば、寒狭川(かんさがわ)に落ち込む滝が後退してできた滝だという。天然の堀のように長篠城の西側を守っている

30倍の敵を防いだ防御性

長篠城は寒狭川(かんさがわ=豊川)と宇連川(うれがわ)の合流点にあり、河川によって削られた河岸段丘を利用して築かれた城だ。この合流点に立てば、二つの河川と断崖に守られた城の強みがわかるはずだ。わずか500余人の籠城側が武田軍1万5000人の猛攻になんとか持ちこたえられたのは、この地形のおかげといえる。

河川の合流地点、台地の突端部分には野牛門があり、野牛曲輪(くるわ)が置かれていた。ちょうどJR飯田線の線路を境に北側が本丸になり、境には高さ7メートルの土塁を築いて独立性を高めていたようだ。

発掘調査によれば、本丸は南西側をのぞけば土塁と堀に囲まれており、北側に土橋でつながれたところに虎口があった。また、この虎口とセットで、長篠城址史跡保存館のあたりに馬出があったとみられる。断崖地形をうまく利用しながら、平地が続く方向には土塁と堀をめぐらせる、なかなかに防御性にすぐれた設計だったといえそうだ。長篠城は1573(天正元)年に徳川方の城となった後の城主・奥平氏が最終的に改修したとみられるが、1571(元亀2)年に徳川方から武田方に帰属した際には、武田氏も手を入れていたようだ。

こんな秘境が歴史の大舞台に 織田・徳川vs武田 長篠城

城をJR飯田線が貫通している。線路を挟んで高いほうが本丸、低いほうが野牛曲輪

こんな秘境が歴史の大舞台に 織田・徳川vs武田 長篠城

主郭をめぐるダイナミックな空堀と土塁

城内をJR飯田線が貫通するなどかなり開発の手が入っているものの、本丸を取り巻く堀と土塁はかなりダイナミックで圧倒される。本丸から遠望できるのは、鳶が巣山(とびがすやま)砦、姥が懐(うばがふところ)砦など、武田軍が陣を置いた砦群。いずれも、歴史ファンにはたまらない名前ばかりだ。想像を膨らませると、緊迫感がただよってくる。

こんな秘境が歴史の大舞台に 織田・徳川vs武田 長篠城

本丸。対峙した鳶が巣山砦、姥が懐砦などが見え、戦いの臨場感が伝わる

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野牛曲輪の殿井。河岸段丘の砂礫(されき)層と岩盤の境から湧き出る水は、貴重な飲料水として使われたという

籠城を支えた忠義の武士

1575(天正3)年に武田勝頼の大軍に完全包囲された長篠城は、食糧庫が焼失し絶体絶命の危機を迎えた。堅城とはいえ持久戦が長引けば勝ち目はなく、援軍が来なければ降伏するしかない。そこでひと役買ったのが、長篠城から信長・家康に援軍を要請する使者として派遣された鳥居強右衛門(すねえもん)だ。

強右衛門は、城下まで迫った武田軍の包囲網をかいくぐり、裏手の野牛曲輪の不浄口から泳いで脱出。寒狭川に降り、周辺の武田軍の監視や寒狭川中に張られた鳴子網をかいくぐって、約4キロ下流まで泳ぎ切ったといわれている。

強右衛門が家康のもとにたどりついた時は、すでに信長と家康の大軍が結集し、長篠城は援軍到着まであと数日耐えしのげば、という状況だった。それを長篠城へ伝えようとすぐさま取って返した強右衛門は、帰路に武田軍に捕らえられ、城内の味方に援軍が来ることを大声で伝えたため、はりつけにされてしまった。危険をかえりみず任務を遂行し、敵に命を差し出した強右衛門のおかげで、長篠城はなんとか持ちこたえたのだった。忠義を貫き死んだ三河武士の鑑(かがみ)として、後に徳川家康や、紀州藩主徳川頼宣に仕えた落合左平次道次という武将が、はりつけにされた強右衛門の姿を旗印にしている。

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長篠城址史跡保存館の入り口に置かれた、鳥居強右衛門のオブジェ

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豊川を挟み城の南西側にある「鳥居強右衛門磔死之碑」。この場所ではりつけにされたと伝わる

さて、長篠城を訪れたら、勝頼が本陣を置いたといわれる医王寺山砦にも立ち寄りたい。山頂からは設楽原が遠望でき、信長が本陣を置いた茶臼山、家康が本陣をおいた弾正山も見える。もちろん、その後は設楽原古戦場へ。戦いの足跡をたどれるのも、長篠城を訪れる楽しみのひとつだ。

こんな秘境が歴史の大舞台に 織田・徳川vs武田 長篠城

医王寺から見上げる、武田勝頼が本陣を置いた医王寺山砦。医王寺山砦からは正面には設楽原、信長が布陣した茶臼山も見える

(この項おわり。次回は6月24日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト
■長篠城
JR飯田線「長篠城」駅から徒歩約8分
http://www.city.shinshiro.lg.jp/index.cfm/6,8420,118,664,html(新城市)

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PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

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