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440年の眠りから覚め、まもなく消える山城 岡山県・南山城

日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載です。今回は、河川改修工事のためまもなく姿を消す、岡山県倉敷市にある戦国時代の山城・南山城です。

洪水防止の河川工事で消滅へ

440年の眠りから覚め、まもなく消える山城 岡山県・南山城

本格的な発掘調査が進む南山城(写真はすべて2019年3月18日撮影)

残念ながら、まもなく消滅する戦国時代の山城がある。岡山県倉敷市の、高梁(たかはし)川と小田川の合流点を見下ろす丘陵上にある南山城だ。小田川の流れをスムーズにするため、南山城は山ごと削られる。「平成30年7月豪雨」で甚大な被害が出た地域だけに、河川の付け替え工事は最優先事項だが、小田川合流点付け替え事業に伴い2017年から行われていた本格的な発掘調査によって、戦国の城の姿が明らかになっている。

まず、この城の立地がたまらない。南山城は備中国(岡山県西部)の南東部にあり、戦国時代に備中南部の重要な拠点のひとつだった猿掛城(岡山県矢掛町)の東方にある。猿掛城から東へ流れる小田川と瀬戸内海に注ぐ本流の高梁川との合流点付近、標高67メートルの地点に築かれたのが南山城だ。注目すべきは、中世の山陽道に近いこと。小田川に沿って東西に旧山陽道が走り、つまり南山城は、海、河川、陸上いずれの交通にも恵まれた城だった。城に立ち見渡せば、その立地の重要性はよくわかるだろう。

440年の眠りから覚め、まもなく消える山城 岡山県・南山城

南山城から北東側を望む。ふもとには小田川が流れ、さらに東側には高梁川と小田川の合流点が見える

山を土木工事で要塞化

約110メートル四方のコンパクトな城ながら、戦国時代の城の極意が刻み込まれている。尾根を断ち切り敵の動きを遮断する「堀切」や斜面に沿って掘られた「竪堀」、敵の侵入を阻むために曲輪のまわりを崖のように削り込んだ「切岸」のほか、突出部や折れを設けて敵を翻弄し迎え撃つしかけが散りばめられ、南斜面一帯にびっしりと何本も彫り込まれた「畝(うね)状竪堀群」もある。山を土木工事で要塞(ようさい)化するという、戦国時代の山城のセオリーがよくわかる。

数年前に訪れたときは、木々に覆われながらもその残存度と独創的な設計に驚いたものだが、発掘調査によってその全貌(ぜんぼう)が明らかになりつつあるというのだから興奮せずにはいられない。最高所の曲輪(くるわ)は巨大な土塁で東西に分断され、土塁の一部はなんと3メートルあまりもの厚い土で盛り固められていた。東西の曲輪を結ぶ虎口では門の礎石が、東側の曲輪からは掘立柱建物が確認され、かなりつくり込んだ構造と判明した。

意外なことに、発掘調査によって天目茶碗や青磁、白磁、鍋、羽釜、すり鉢などのほか、銅銭、すずりなどの生活用品が出土した。戦闘時だけの臨時の城ではなく、ある程度の期間、将兵の生活に使われていた可能性がある。

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東西の曲輪を結ぶ虎口では、門の礎石三つと礎石の抜き取り穴一つが見つかった。本来は礎石が四つあったと思われる。東側の曲輪では、西側で柱穴が確認された

戦闘のための工夫が随所に

城内には、戦闘的な空間をつくり上げていたようだ。最高所の曲輪の土塁北側は櫓(やぐら)台になっており、迫り来る敵をかなり鋭角に見下ろす。西側の曲輪の西側にも土塁があるのだが、両側が張り出し、北斜面および南斜面からの敵に横矢が掛けられる。なるほどという設計にうならされる。城の主眼は地続きとなる西側にあり、土塁は西側に向けて立ちはだかる。土塁西面は崖のような切岸で固められ、その先は三重の堀切でこれでもかと分断。北斜面と東斜面には複数の竪堀を設け、南斜面には複数の竪堀を並べた畝状竪堀群が掘り込まれている。

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最高所の曲輪、土塁と北側の櫓台。かなりダイナミックだ

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西側の土塁と、三重の堀切。土塁直下の切岸はかなり削り込まれ、巨大な堀切が設けられている

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曲輪南側の竪堀と張り出し部。竪堀から攻め上った敵に対して、張り出し部から射撃できるように設計されている

攻め上がれる気がしない堀切

驚いたのが、曲輪南端に、いくつもの小石がまとまって置かれていたことだ。直下の敵に対して投石する飛礫(つぶて)とみられる。今にも戦闘が始まりそうな状況が、400余年の時を経て現代によみがえったのだ。

440年の眠りから覚め、まもなく消える山城 岡山県・南山城

曲輪南側の集石。曲輪直下に迫る敵に対してすぐに投げられるよう、曲輪の端にまとめられている。城内ではこのほかにもいくつかの集石が見つかった

南山城の目玉のひとつは、30〜40メートルの長大な竪堀が斜面を埋め尽くす南斜面の畝状竪堀群だ。しかし、私は北西側の防御線にも尋常ならぬ設計力を感じた。印象的だったのは、幅約5.9メートル、深さ2.8メートルにも及ぶ城内最大の堀切だ。底に降りて北側から見上げると、まるで谷底に落とされたような閉塞感があり、わずかな高低差ながら、急な傾斜もあって攻め上がれる気がしなかった。度肝を抜かれたのは、竪堀と曲輪の結節点。どーんとそびえ立つ頭上の櫓台から攻撃されればひとたまりもないのだが、堀底には敵の足を止めて行く手を目隠しする絶妙な屈曲があり、かなり緻密(ちみつ)な設計になっていた。たとえ斜面をはい上がれても、あらゆる方向から集中攻撃される。

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北側の竪堀と曲輪の結節点。堀底で屈曲し、直進できない構造。頭上には櫓台がそそり立つ

毛利氏が境目防衛に築いた?

構造を見る限り、これぞ戦国時代の城といえよう。しかしながら、実は南山城の実態はよくわかっていない。この地は備中と備前(岡山県南東部や小豆島など)の国境にあり、戦国時代の歴史も複雑。争奪戦が繰り広げられ、支配権が変化した勢力の境目にあり、どの勢力下の誰がいつ築いた城なのか不明なのだ。

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櫓台から見下ろす北側の竪堀郡。かなり急傾斜であることがわかる

想定される築城時期は三つある。

一つめは、1574(天正2)年〜1575(天正3)年の備中兵乱の時。毛利氏を後ろ盾に美作・備前方面に進出した有力国人の三村氏は、備前の宇喜多氏と対峙(たいじ)していたが、1574年に毛利氏と宇喜多氏が和睦したことで毛利氏から離反。これを機に毛利氏が三村氏を滅亡させている(備中兵乱)。

二つめは、1579(天正7)年に、宇喜多氏が毛利氏から離反した頃。宇喜多直家が織田信長へ従属したことで毛利氏vs.織田氏の戦いが本格化し、やがて1582(天正10)年には信長配下の羽柴(豊臣)秀吉による備中高松城の水攻めに至った。

そして三つめが、備中高松城が開城した後、毛利氏が秀吉と結んだ講和による支配領域の裁定があった時期。1583(天正11)年に毛利氏は高梁川の東側を明け渡し、その後、1585(天正13)年には秀吉によって備中南部は毛利氏、備前児島は宇喜多氏の領地とされた。

440年の眠りから覚め、まもなく消える山城 岡山県・南山城

北側の竪堀

つまり、南山城は毛利氏と宇喜多氏の勢力の境目の防衛を目的とした城と推察される。1582年以降、毛利方の中島氏や清水氏といった国衆が高梁川の東岸から西岸へ退いた際に改修した城とも考えられるが、ここまでの設計力と土木量が投じられた城を、はたして国衆が築けたのかという疑問もぬぐえない。やはり、毛利方が境目防衛のために強化したと考えるのが妥当かもしれない。

周辺の各勢力の城を丹念に見比べることが、この疑問を解明するひとつの手段なのだろう。この楽しみを知ってしまうと、城歩きはやめられないのだが、今回は割愛しておく。いずれにしても、今回の発掘調査の成果が戦国時代の城の解明に一石を投じることになるのだろう。

南山城の発掘調査は、2019年10月で終了予定。見学できるのは10月末までだ。見学を希望する場合は、事前に岡山県古代吉備文化財センターに連絡を。

(この項おわり。次回は7月22日に掲載予定です)

#交通・問い合わせ・参考サイト

■岡山県古代吉備文化財センター
086-293-3211
http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/kodaik.htm

PROFILE

萩原さちこ

小学2年生のとき城に魅了される。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく城めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の城を読む』(SB新書)、『日本100名城めぐりの旅』(学研プラス)、『お城へ行こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う城の科学』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載多数。

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